前にも書いた記憶がうっすらあるが、何に書いたのかも中身も忘れた。年寄りのムダな繰り返しだ、と思っていただきたい。
こころをば何にたとへん。という室生犀星の詩がある。
こころは、あじさひの花。
実にすばらしいモノの喩えだと思う。
あじさいは一つの花ではなくて、無数のあつまりで出来た花。しかも、変幻自在に色を変える。
そして極めつけは、花だと思っていたそれが花ではなくて、花を覆い隠す萼(がく)にすぎん、ということである。日本語読みで「うてな」。
あじさいの花は、この目立つウテナの集まりの中に、個々に小さく隠されてある。
こころはしかし、隠れていても、自分を隠しはしない。日本人みたいな自己隠蔽は、決してやらない。
此処ー路、とか個々-露、という意味は、ウテナの集まりの中に隠れているのだ。
こころは心の臓だ、という理念家の人もあるが、頭脳だと言う人も居て、身体の随所にちりばめられたウテナのなかに、探しあぐねているという雰囲気。
こころは一であらねばならん、という理念的な思い込みがあって、それがこころの芯を捜し求めさせる、んだろう。
この心の臓だとか頭脳だとかは、時空を持つ身体のことを言ってるんであって、その「もの」の、どこに、こころがあるのか(対象物を)探しあぐねているだけ。唯物論議ではない。
一方、こころは身体と無縁な「精神」であって、光の使徒だ、という奴隷制度主義者の人たちもいる。
精神が身体の奴隷になってる、と。
オイラは室生犀星と同じ意見。
こころは、個々に別々の変化ある様態を見せて、此処に(自分に)露な、アジサイの花ような「モノ」だと思う。
精神だとか光だとかいった、理念にイメージされたこと聞いてたら、わけがわからんなる。
しかしアジサイの花見てたら、それを「モノ」として対象立てて、論議できるんである。
個々のモノの集まり、此処に(自分に)露なものだと。
ウテナが見えている、花を隠した、集合の享有かつ共有のモノなんだと。
この花を直に論じ、伝えようとしたものが、花伝書という、舞台「能」である。仕立てられたウテナで演じられる、あじさいの花である。