一神教では、主の意思が唯一つ。
なので、悪を扱うと、本当は悪にしか、ならない。
善も、悪になってしまう。歴史も、唯の一つになってしまう。
光り輝く天使ルシファーは、別名、悪の権化サタンと化す。
善悪というのは、多神教徒と接触したアーリア人が持ち込んだ。
ほんとうは享有と共有の絡んだ、実に、ややこしい概念なのである。
悪とか善とかは、「思惟する自分が、そのことに関係する、だけ」である。
しかも、それを共有のモノとしては弁証できやしない。
一元論や二元論で言い訳、なんぞ、できないんである。
時間とか空間みたいな、「認識の形式」を使わねばならんので。
カント先生は「直感の形式」、という言い方をした。
しかし善とか悪とか言うそれも、時間・空間と同じ、享有と共有の絡んだ、感性の形式なのである。
自分では、それがよくわかって居ても、形式で形式は、言い訳できない。
客観物で客観の絶対的正しさ、なんて言い訳できないのも、同じ。
西洋人は、特にイルミナティやフランキストの物理学者は、時間・空間を「物理的なモノ」という言い方する。
だが、自分の享有を、他人も共有だと、ウソ言っちょる、だけのこと。
単に悪魔的に、数式で共有論議出切るようにしちょる、に過ぎん。
物理で時間・空間をひっくくったら、必ず悪魔的になるんである。
オッペンハイマーやアインシュタインみたいになる。
アッシリア仕込みのリンムが持ち出した一神教は、感性の形式であるモロモロのそれらを、悪魔的詐欺やって、契約に誘導した。
あげくには、法に、してしまったのだ。
言い訳できない自分の関与を、利権にしてしまった、ということ。
具体例として、マグデブルク法という公共の法に、しちゃった。
自分が自分でわかる、という、「有限な命という責任」を負わないですむように。
学術の淵源に、押し込めて、法を立てた。
と言うより、踏みつけて史観にして、自分たちの組織の基礎に、むりやり押し込んだ。 それの完成者が、イルミナティのヘーゲルだ、と言っていい。
ソクラテスは、そのむかし、そのために殺されたんである。
アテナイの詩人の悪意で、民主主義推進会議(?)という名の利権屋たちのノモスの法を立てるために、殺された。
しかし善悪は、弁証法にして踏みつけても、一に総合されはしない。
多神教徒との絡みが出てきて初めて、善や悪の概念ができるだけだから。
もちろん、多神教だけでは、善悪なんて、もともと、ないのであるが。
善悪の判断は必ず、時間・空間を誤魔化す、しか、なくなるのである。
暦にして、史観魔術に登場頂くことで、いいか悪いかの判断を時間・空間の契約に委ねる、しかない。
そうやって、悪魔が出てくる。
それやると、しかもどうしても逆立ち、してしまうのだ。
ヘーゲルみたいに、予定論議になってしまう。
だからといって時間・空間をなくしてしまうと、今度は哲学の場のほうが、現実から消えて、絶対無なんていわんならんようになってしまう。
西田先生みたいに。
これは現実に、哲学を殺す形而上学を生む。
歴史書に頼って、哲学を殺して、形而上学的魔術は行われる。
しかし今度は、希薄なうすっぺらい、しかし深刻な現実が、彼らを裏切ることになるのだ。
現代は、この、現実に裏切られたユダヤ人や偽ユダヤ人たちが、そのユダヤ利権で持って、奴隷ゴイの主人となった、へんな社会なのである。
彼らは、一と契約した神の奴隷。
ゾハル主義や原理主義の、情報や利権は裏切らん、と思い込んでいる大資本家なんである。
なので、善悪も、一の魔術が生んだ、神智学の暦となった。
不可解な架空の歴史が記述された、聖書と化してしまった。
何度でも繰り返す必要がある。
彼ら聖書を読む大資本家たちが、現代世界の悪魔的支配者たちである。