在る、と言う言葉は、このように、実にさまざまな局面で、無自覚に使われている。
しかし必ず自分で受け止め、解かって、使っているのだ。
モノがそこに在る、つまり(自分にとって)実在する、それを伝えたいときも。
つまり実在がテーマのときも。
モノゴトが・・・である、と、ある種の認識判断上の基準を伝えるために言うときにも。
つまり客観的基準がテーマであっても。
オイラたちは同じ、「ある」という言葉を使う。
この場合、モノが「実在する」、というのは、モノ自体の側の存在者について、言っているのではない。
その対象自体の自己存在について、つまり、モノ自体(ディング・アンジッヒ)について、述べているのではない、ということ。
これは重要なことなので、決して間違わぬよう注意すべきである。
オイラたちは観念的存在者ではない。
つまりスピリットじゃない。
肉体を持つ「生き物」なので、自分と言う自己認識判断ぬきに、モノ自体などには関われない。
モノ自体は、だから、(オイラやオイラたちには等しく、享有のものとしてはもちろんないし、共有上にも)無い、と言える。
この、「実在する」ということを、しみじみと承知してみたい。
オイラにとって、ソレが認識判断として「実在」するんだ、と(自覚して)言っている。
方程式の解がある、解答がある、といったものとは別なんである。
自覚してる、から、だから対象物は、ありじゃんか、と言ってる。
解、じゃなしに、あり、を繰り返している。
実在は、これも、「オイラ」の側の「モノ」。
イッヒという主語立てとは、絶対に切り離せない、んである。
日本語は自分を騙す目的で、主語も曖昧にするが。
そして「単なる存在」、なんてものも、無いのである。
エトヴァス・ザイエンデスなんてものも、ない。
ぜんぶ、なにがしかの、実在。
つまりオイラの側の、時空のモノ。
現代の大勢翼賛思考はヘーゲル主義なので、情報工学などでも、コレを誤魔化す。
情報とデータを区別して、データを中性的なモノとして扱うのだ。
だが、あれも、オイラが関わっての「実在として在る」のみ、だということ。
目的を持たない、単なるデータ提示などは、ない。
天使みたいな、中性的なモノなど、ない。
それを誤魔化して、目的も隠して、架空の客観世界に持ち込む。
魔術で情報工学を立たせて、勝手に中性のモノを扱っている、ということ。
あれはユダヤ人特有の、カバラなのである。
ユダヤ論議自分でやってみて、はじめてわかった。
実在は、オイラとは切り離せない。
デカルトが、これを明確にした。
明確に反省して、哲学にした。
実在把握というそれ(エス)を、オイラの感性が対象化して、なぞり、判断している。
だから、モノゴトが・・・である、という思惟的認識判断と、・・・が実在する、という意識の反復とは、実は同じ、なのである。
思惟即存在、だということ。
そしてこの思惟即存在というのは、形容判断(エイドス)と力関係判断(エネルゲイア)の、ヴァーチャリターな違い、に過ぎんのである。
ヴァーチャリターというのは、ドゥンス・スコトゥス先生の、ウロボロスな概念。
人の認識には先験的認識と経験的認識がウロボロスに関わる、ということ。
これはオイラたちが神ではなく、有限な生き物だから起こること。
・・・である、は、簡単に言うなら、感性的に判断が・・・のごとくに実在してある、「判断出ー来る、過去時空としてある」、ということである。
同義反復、なのである。
・・・実在する、は、実はそれをもう一度反省して、おなじ判断がまちがいなく力関係としてあった、という言い方。
過去にあった「オイラの感性判断の反復確認結果」を、その過去の時空を、言い訳しようとして、反復して述べている。
どちらも、述べているのは過去の、自分に属する時空。
そしてこの思惟は、ヴァーチャリターになっている。
ウロボロス構造になっている。
ほんとうは・・・であった、と言うべきだ。
だが、共有判断なので、あえて中空の現在に投げ、そこへ企画して、言うわけだ。
過去も、今でしょ、と、建て前る。
つまり、今という、(中身の無い中空の)時間・空間上にある、と、予定投企して言うんだとも、言える。
中空に投機したからといって、それが今、あるわけじゃない。
今というのは、自分のないニヒルな中空、なのである。
中性的な認識と言うのは、つまり虚無主義思想だ、ということ。
これが現代人の落ち込んでいるニヒリスムスの正体でもあるんだが。
つまり、・・・がある、といった「存在物の実在」に言及して判断するときも、私どもは必ず過去の、かつ経験の(時間・空間の)延長上に、「対象物を認識」しているのだ。 必ず対象物を、しかもまず経験的に、見据えている。
自分に、その認識があった、そのことを反省して、モノが存在したという。
ある、実在する、と、「過去の時空構え」を言っている。
わからん、ものや、与えられて中性的に仮に導入したものを、ヘーゲルが投企するような未来想定のものを、あるかどうかわからん、と言ってるんではないのである。
実在するんで、ある、と言ってる。
感性による過去の反省は、未来志向の、人間疎外の、ヘーゲル主義じゃない。
これら実在は、「自分」の過去が絡んでいる。
スピリッチュアルな純粋理性や、神秘的なモノとは、一切無関係だ、ということ。
つまり、神から与えられて、言っているんでもない、のは、明白なのである。
自分の限られた分限で、言っている。
「オイラの生きた感性に(その限られた時間・空間のうちに)、過去に実在したんだ」、と、言っている。
自分がわかって、言っている。
対象物認識を、先験的かつ経験的に反省している、ということ。
ア・プリオリに、同時にア・ポステリオリに。
実は、ほんとうは、ヴァーチャリターにやっとるのである。
ヴァーチャルリアリティー技術が、認識の乖離を引き起こすことで、ことさらに現実感を与える理由は、ヴァーチャリターがオイラたちの現実だから、である。
対象認識は、そうやって、ある、と断言して共有提示しようとしている。
自分にとっての明晰判明な実在を弁証し、伝達しようとしている、のである。
西田先生のように、自分の思惟からも超越させた、純粋経験なる中性的現象の変容を召還して、その「無の」魔法陣に身をゆだねて、客観視しようとしている、そういう訳ではないのだ、ということ。
西田先生の形而上学が、なんでわからんのか、というと、純粋経験なる中性的現象の変容を召還しているから、である。
ヘーゲル主義で、フッサール風の現象学をやっている。
ここでオイラの言いたいことは、過去に自分がわからんかった西田哲学のことなんぞではない。
つまり先生が述べたような、共有の「無」などといった、自分の時間・空間を離れた場所や時空は、(個人の)対象認識には、もともと、ない、ということが言いたい。
享有にも、共有にも、ない。
そう、言い切っていいと思う。
自分の(享有する)「時間・空間を離れた哲学論議は、そもそも不可能」。
だから「神の学問である形而上学も不可能」。
だから、あえて脱存論議(エクジステンツ論理)などが出てくるのだ。
肉体の居ないスピリッチュアルな精神論議なんか、目的を隠した陰謀詐欺。
だと、オイラは思う。
「無もまた、自分が関わる享有モノ」である。
「共有投機の中性モノ、ではない」からである。
(人の世の)時間・空間を超越した形而上学、なんてのが、そもそも、ありえない。
これが、オイラのたどり着いた思想。
無神論を述べてんじゃない。
陰謀詐欺やるな、と言ってるだけ。
宇宙の真理だとか、神の実相なんてのは、ことごとく、人智を超えた、神の世界の超越を説くものである。
しかも中性的に、できている。
だから、いかがわしい陰謀詐欺。
人と言う有限な生き物には、大宇宙の真相だとかは、だから「もともと人とは一切関係ナイ」、のである。
人とは、無関係。
なのに、これらを、自己目的を隠して扱う学問が、堂々とある。
心理学、宇宙論、神学、社会学など。もっとあるだろう。
それらを、形而上学だとして、哲学と明確に区別したのは、オイラじゃなくてカント先生。
その区別も、後継者に再度、無視されてしまったが。
先生の区別論議が正しい。
コレは実は、太古のソフィストの、自然学者だったプロタゴラス先生も、述べていたことだと思う。
「神を人智では悟れない、だから神の存在と人とは無縁」、と。
享有を、神で騙ってはならない。
ユダヤ人にも、これをちゃんと言ってた人、先般見つけた。