コペルニクスが採った手法は、単純明快。
太陽と地球の関係を表現する数学的方程式を、得ることだった。
目的が手法になってた。
天動説とか地動説とか、そんなこと、どうでもよかった。
これを今の世間は、天動説なんだとウソつくが。
そんな形而上学論議とは、一切無縁な哲学、だったのである。
目的は明快で露。
得た方程式も、それまでのものに比べると、超簡素になった。
だから、その方程式が太陽中心にして立ててあっても、ガリレオのときみたいな騒ぎには、ならなかった。
最初から目的が明瞭に記されてたので。
形而上学的宇宙論を語る目的など、まったくないんだから。
カント先生が先輩を真似た手法は、「先験的総合判断はいかにして可能となっているのか」、という、実に素朴で単純な疑問。
たとえば数学で1+1=2とやる、あの判断の仕組みを、考え直した。
つまり理性判断やった過去を思い起こして、裏返して反省してみた、んである。
ここで、オイラの、馬鹿の一つ覚え。
実は、コレしか覚えてないし、知らない。
マン カン ザーゲン デア ゲーゲンシュタント アイネ ブロッセン トランツエンデンタール イデー ザイ エトヴァス。
人は対象について、ナニカある一つの単なる先験的理念なんだと(反省して)言える。
人が「言う」ことができる、そのこと。
それと、語末尾の「アル」、ナニカは、同義反復なのである。
対象を立てる理性判断のうちにナニカある。
単なる先験的理念のように見える、そのことのアルをあんよひもに、カント先生は先験的理念という「悪霊を捌き」だした。
これを批判してバラしていった、のである。
形而上学(宇宙論、神学、心理学)なんぞとは無縁。
自分の持つ純粋理性を、「解かろうとした」、だけなんである。
純粋理性は結局のところ、純粋悟性概念の図式(シェーマ)ともいう、4種類3様態のカテゴリーに分類できることが、わかった。
1.量(単一性、多数性、全体性)
2.質(実在性、否定性、限界性)
3.関係(実体性、因果性、相互性)
4.様態(可能性、現実存在、必然性)
これがカント先生の導き出したカテゴリー。
但しカテゴリーというのはロゴスのカタログである。
ロゴスの範囲枠に疇されたモノではないので、要注意。
洪範九疇の影響を受けた、「範疇」理念とは無縁なのである。
だから楽天のブログにあるカテゴリーというのは「範疇」の意味であって、カテゴリーという言葉とは、これまた無縁なものと認識しておく必要がある。
カテゴリーが範疇なんだと、それを言う人は、逆立ちしている形而上学の意図があると言って良い。
範疇訳は、「誤った理念」なんである。
カント先生の言うカテゴリーというのは、ある、ことのうちにある。
中空の政治理念ではない。
感性のもたらす暗い図式(シェーマ)の、実践的な働きのこと、である。
感性である時間に属し、構想力(アインビルドゥングスクラフト)とも表現されることがある。
したがってこれは、先験的時間概念の図式、でもあるのである。
理性判断の基礎には、必ず、コレがあることに気がついた。
つまり、人の享有する(ある)理性判断には、この時間という感性で枠だてられた暗い図式、が必ず、関与している。
感性が、理性の形式枠を形成している、のである。
しかもカント先生は、ナニカの目的で、それを操作する方程式を得たかった、のではない。
哲学的に純粋理性を「解かりたかった」、だけである。
自分の無知を、知りたかった。
人の理性がどうやって出来ているか、存在しているのか、といった命題なんぞはなくて、素朴にバラしてみただけ、なんである。
そして図式の秘密に出会った。
範疇や諸々の「目的を持ったクラスとして」、この暗い図式を理解することは不可能である。
これは悪霊が押し付けてくる「理念」ではなく、西洋哲学の論議する「無知の概念」なんであるから。