存在論というのは、だから、この・・・である、オイラの享有が支えている論議。
そのありてあるものごとを、共有社会で論議しようとしたら、享有する魂の証を、いくら提示しても無意味なのである。
プラトン主義者は、このことに気がついていない。
プラトン先生は解かりきってた、と思うんだが。
アリストテレス先生は、・・・である、享有出ー来る日常を相手にしていた。
しぜんな様と共有論議との乖離に深く切り込んで、対象認識のものごと、すべてを解かろうとしていた。
自然論者たちの、おかしげな常識論議から遠ざかるために、自然学のメを書いた。
常識人たちの形而上学を批判し、そのマトリクス世界を破壊するために、感性論議やポイエシス論議をやっていた、のである。
これをワヤにしてしまったのは、後のスコラ学者たちだろう。
当時のローマ社会のエリート奴隷主たち。
彼らは、哲学を奴隷化したのみならず、錬金術に貶めて殺してしまった。
もちろん身内から、ドゥンス・スコトゥス博士のような、本物の哲学者も出たが。
この、自分が・・・である、と確信する、そのことをぶち壊し(基礎的存在論とは、そのこと)ながら、崩れていくアーベントラント(西洋)の終末に立ち会っていたのが、ナチス党員のハイデガー先生だと思う。
陰謀をやる人たちが寄ってたかって、トゥーレ主義者の先生を、実存主義者にしてしまった。
小説家のサルトルなんぞとは、無関係なのに。
・・・である、そのことを反省、懺悔することは、もちろん自分を否定せねばならない。
だからといって、神の世界に実存したりしない。
例外的単独者は、破滅して死ぬしかない。
だから、出て-立つしかない。
脱存。
しかし否定すべきなのは、自分の心に巣くった神学のほう、なのである。
先生もそれに気づいてはいたと思う。
だが、口にはだせなかった。
悪霊の否定の声を聞いて、エク・ジステンツ(出てー立って)して、自分の内に居る肯定の神を名乗る、光の悪霊ルシファーを、破壊せねばならない。
別に、サタンの側に立つわけじゃない。
ルシファーの別名が、サタンだからだ。
既存の時間・空間という感性の形式を出て、ー立つこと。
これは実存ではなく、脱ー存なのである。
これを哲学として言うために、ヤスパース先生などは、脱存じゃなくて脱存論なんだ、という、回りくどいが確実な言い方をしてたと思う。
エク・ジステンツは主義主張や信仰じゃなくて、哲学論議なんだと。
この出て-立つこと(エント シュテット)と、出ー来ること(ポイエシス)は、実はおなじものである。
モーメントが違うように思える、だけ。
出てー立つことと、(時が)辰こと、は、おなじことである。
ほんとうに、過去の日本の言葉は、考え抜かれて出来ていることがわかる。
市政の人々がギリシャ悲劇に涙を流す様子を冷静に観察し、その演劇の様式をバラシてみながら、アリストテレス先生は、ロゴスを暗い基礎で支えているミュトス(芸能)を解かろうとしていた。
それが、先生の著作、ポエチカ(詩学)である。
対象認識の論理的ものごとの基礎には、暗い感情の世界があり、存在論の基礎には、暗い時間がある、のである。
誰もが、虫けらすらが、これを持っている。
精神がある、んじゃあない。
目的や命題を持つ、認識を支えているのは、自分が享有する感情という名の(客観視すれば感性の)自己身体責任なのだ。
オイラの享有が支えている、この論議がなければ、架空の純粋な諸論議など、無意味主義である。
ニヒリスムスだ、ということ。
精神主義の別名は、ニヒリスムス。
だからモノホンのナチス党員であっても、オイラはハイデガー先生を、20世紀最高の哲学者だと思ってきた。
先生からトゥーレ主義を、ナチズムを追放したら、たぶん何も残らない。
客観的認識から、感情を追放は、出ー来、ない。