ポリス社会では、素朴な日常の実在が追放されて、公共の義務や責任が仕立てられた。
これは、邪魔になる哲学創設者のプチブル階層(ソクラテスは重装歩兵の階層)市会議員を、詩人を使ってハメ殺すことで成し遂げられた。
それは、法で一般大衆を奴隷化することに利用されたのである。
その義務や責任の道具的利用が、今度はそれを使って大衆を操る人を、逆に奴隷化していった。
アテナイはポリスごと、ローマの奴隷となった。
自分が何の奴隷なのか、しみじみと思い出してみるべきである。
義務や責任といったものは、もともと倫理のもの。
つまり個人が享有して自らに課すもの、であって、これは悪霊が語る道徳に、忠実であろうとして課せられる理(ことわり)の奴隷だということ。
公共の共有物とは、もともと、何の関係も無いのである。
サイコパスの連中の持つだろう倫理観が、だから本当は、しぜん、なのである。
あからさま、に直結している。
今日の共同社会に暮らす人々は奴隷なので、公共の義務や責任といったものが刻印されている。
いわゆる、獣の刻印が、ある。
しぜんな、暴れるサルという獣に、悪霊がムリヤリ入れた焼印である。
あなたにもある。
オイラはカネの奴隷、所有欲の奴隷、性欲の奴隷、いまはもっぱら酒の奴隷である。
幸いにも、他人を扇動する地位欲も名声欲も、一切もとの足がかりがないので、無い。
価値欲(克ち欲)は、まだ残っているが。
じぶんがわからんのでは、人は操れん。
ただ、この年になって、手の甲に悪霊が入れた焼印の一つが消えかかっていることに気がついた。
日常の実在をもとに、身体に刻印された奴隷の印を、自らに課すこと。
それが倫理である。
これを使って人々を唆す悪霊を、カチカチ山のウサギ、という。
そうやって構想して物語を仕立て、つまり公共の義務や責任がつくられて、一般大衆を奴隷化していった。
何度も言うが、サイコパスの連中の倫理観が、本当はしぜん、なのである。
あからさまだ、ということ。
なぜかというと、サイコパスの人は、悪霊が語る道徳などを、信じてない。
先天的に自分で反省できない性格なので、自分が悪霊として振舞っていることにも気がついていない。
そもそも、怠落した共有の日常がない、のである。
客観的感情を持たない、といっていいかも。
主観的感情はあっても、客観的感情がないから、それを勘定できない。
対象認識における客観的感情とは、かくのごときものであると思う。
あの世にもっていけない。
日常の実在のありかたを、損得勘定すべき「もの」。