明るい未来は見えてこない。
人(ダス・マン)という時間・空間の対象認識形式には、もともと過去認識しか、ないのだからだ。
未来は、無責任形而上学を立てて、予定したり企画したり、想定するしかないのである。
ハイデガー先生は、過去も、すでにない、と述べた。
だが、先生の立ち位置は微妙なのである。
今という共有存在の場を日常させて、そこに立っているのだから。
だが、それを対象認識している哲学の立ち位置は、モノホン哲学の基礎的存在論なのでエク・ジステンチアル(脱ー存論的)である。
共有存在の目的がニヒルな彼岸に落ち込んでいて、見えていないので、こうなってしまう。
その目的をクラス化するのは感性。
なので、隠れたトゥーレ思想(ナチズムのこと)に先生を導いた過去が、必ずある、はずなんだが。
ハイデガー先生のようなダー・ザイン(現存在=人間(メンシェン))論議は、過去の目的が隠れたまま脱ー存して、此処、という時空無視の空虚な瞬間に立つ。
ダー、という居場所(オルト)を瞬間立てる。
つまり無の彼岸に孤立して立たされる、のである。
脱ー存する。
人と人の間の、空虚な無の空間に時間化させられる。
それで、彼岸、なのである。
それに対し、日常にある対象認識論議は、常に過去へと怠落して墜ちた時間だ、というわけである。
ハイデガー先生は、脱存(エク・ジステンツ)を日常論議だとは捉えていない。
これを日常の祈りにしてしまうのはヤスパース先生の方だろう。
隠れたトゥーレ思想については、ヘルダリンやトラークルのポイエシスを語るのみで、ハイデガー先生は自分の詩については、あまり語らない、ように思う。
哲学者は常に、詩人に殺される立場なので、語りようが無いのかも。
そういえばオイラも、哲学の世界に片足を踏み込んで以降、詩の世界から追放された。
超簡単に言うと、ミューズに見放された。
哲学が相手に出来るのは過去だけだし、今(ダー)という此処も、虚無でなければ対象化認識する一瞬前には、すでにない過去のモノ。
未来というのは、スカラー化した黒体風呂敷包み時間で見えてくるモノではなくて、予定したり企画したり、想定するしかないのである。
ポイエシスの以前には、未だ、無い。
時間・空間の現実世界には、未来は、そんな「無の形式」でしか、ない。
ただ、ここで、未来もまた、(目的が投企した)未到来の時間・空間であることを忘れたら、不具合だらけになるのだ。
そうなってしまっているのである。
ハイデガー先生はちゃんと、未来は未だ無い、と言っているのに聞く耳持たない。
自分がわからんままに、みんながみんな未来志向となった。
特定の共有目的のみを念頭に置いて、詩人の意見にのみ耳を貸して、哲学者をひたすら殺すので。
純粋経験、純粋現象、純粋宇宙、果ては自然といった、無の規格を対象化認識の土俵に据えてしまい、自分が、人という、有限な生き物の時間・空間であることすら、忘れてしまうので。
今やAI同然の光の精神なるものと化して、5次元を目指すんだと。
米国風ユダヤ教は、ホンマに馬鹿馬鹿しいの一語(一期)に尽きる。