ところで最近、長年不審に思っていたエクジステンツの訳語についての疑問が解消できた。
これは、現象学を学んだ仏文学者の、陰謀臭いと。
なんで一般常識ではエクジステンツがジツゾンとなってしまうのか。薄々だが。
ジツゾンて、常識世界では現実存在のことだそうで。
アホラシーと、一瞬思ったけど。
エクジステンツを現実存在のことだと読んだら、ハイデガー先生の言うエクジステンツとかは、決定的に、おかしなものになる。
どこにもない未到来の中空の場所に、空虚な目的企画を投企する、という意味になってしまう。
ニヒリスムス志向だとされてしまうのだ。
そうじゃない。
ハイデガー先生が企画したのは、メンシェン(人間)という「共有存在の時熟の場の企画」である。
先生は、いわば宗教的儀式の場を、求めていた。
みつからずに、自分の乗っていたヘーゲル哲学という馬のほうが破綻したんだけど。
それが、ナチのトゥーレ思想と、先生の思想が深く関わっている、ということの真相。
ヘルダリンが、自分の父祖たちの感性の居場所を求めて、ネッカー川の畔をさまよったようなもの。
エク・ジステンツというのは、現実存在の意味のジツゾンとは、まったく逆である。
現実から、出てー自分の感性で立つ、ということを言う。
たしかハイデガー先生は、エント・シュテッテンという言い方をして解説してたと思う。
日常の現実から、そとへ出てー立つ。
だから日本語に直せば、脱存。
必ず有る、そのもの(対象認識)は、怪しげな自分の感性が仕切った現実、である。
現に実際に、必ず対象の認識が先立って「ある」から「現実」という。
エクジステンツとは、無関係。
現実は自分の過去の反省であるから、厳密を目指した現象だとか、神の前の超越的自己といった「へん」なものは、そこには、ない。
必ず実在を伴う、日常の(怠落を伴った)自己認識のこと。
空虚な企画なども、どこにも無い。
逆に、エクジステンツ(脱存)には、瞬間の、空虚に見える思惟主体や投企の影はあっても、対象認識した現実は皆無だと言える。
対象認識物は無。
そこから、出てー立つのは空虚な企画などではなくて、自分の日常の「ある」を支えている「感情のクラス」なのだ。
つまり実在を図式化形成する型枠は、ここに、脱ー存にもあるのだ。
この型枠は、時間・空間のクラスのこと。クラスは形而上学的用語。
エクジステンツには、時間・空間がないように見えても、本当は、ある。
逆に現実では、時間・空間という直感の形式は、ソレが仕切っているんだから自分で自分は絶対に見えない。
これがメー・オン(無)ということ、なのである。
西洋人であるハイデガー先生には、空間認識が欠けている。
なので、そこに、存在という神的命題が入り込んで居座った、わけである。
同様に、オイラたち日本人には時間認識が欠ける。
なので、存在者の存在という神が見えず、翻訳が、おかしなものになる。
オイラたちに時熟がワカランのは、このこと。
時間・空間を一元的に取り扱えるのは、空想の神だけだろう。
それこそヘーゲル哲学導入して、純粋経験という大風呂敷でも広げないことには、この時間と空間という乖離は、包み込めない。
形而上学が、弁証できない。
数学の命題提示が、これを、いとも簡単にやってしまうのは、定義で作った空想の神世界だからである。
そもそも、数学の客観認識では、対象認識ではなくて、ジツゾンでもダツゾンでもない。
あえて言うなら客観的認識として「投企される範疇としてのアルゴリズム」。
独自に定義命題化された、時間・空間なのだ。
空想の数を扱う数学だから許されることで、これを宗教がやったら、死に至る病となる。