この悪霊が、純粋な認識だの、仲介者のエーテルだの、実在する波動だのといった、へんな形而上学を言い出す張本人。
だろう。
物理の世界でも、モノ自体はないのに、波動は実在する、という意見が大きい。
モノの力関係を仮想論議し、法則性や振る舞いを探っているだけなのに。
つまり、実在なんて、物理とは何の関係もないのに。
アイデアをイデアに見立てて、偶像を対象立てた支点である「命題としての、空虚な理念」が自己主張している。
理念は具体的なイメージ(絵)ではなくて、空虚なもの。
哲学の世界では、間違ってもこれに「拘ってはいけない」もの。
現象学も、間違って拘った、その一つである。
空虚かつ「厳密な学」に拘った陰謀の学問だと思う。
現象というモノがある、んだと、大気の輝き(エアシャイヌング)が、それ自体で実在するエーテルなんだと、言い出す。
ある種の心理学にも似た、形而上学狙いのものなんである。
これは当時のドイツでは、批判された。
だが、今日の世には受け入れられた感がある。
自分が対象認識している、その感性のクラスが把握している、そのことを、現象がある、と、今のオイラたちは平然と言うからである。
自分の「感性のクラスを反省して」、「わかる」、そのことが、実在ということ、にすぎんのに。
つまり、解体暴露してバラせば、現象だと思い込んでいたものが、「何にもなくなる」、はずなのに。
生き物である人は、「公共の感性」によって、ではなく、「自分固有の感性」で物事を対象認識する。
それで日々の政治経済活動を、している。
自分の暮らしを立てている、というのと、これは同義。
カネで立てているんじゃなくて、感性で、自分を予定立てている。
感性で主張する個々人の主観と違った、公共の客観の対象認識を論議立てる(その目的の)ためには、イメージを描いて予定立てるのが普通。
自分の心構えを、具体的な過去の対象のイメージ(ピクチャー)で示して、客観論議の対象として据える。
さらには目的までの道筋を示す(ビジョン)。
具体的に描かれていない心構え、つまり「中身を持たない心象の灰色ハガネ」などは、イメージとは言わない。
抒情という言い方をする。
しかし光る硬い(無目的の)抒情などに、修羅のこころはあっても、春という季節は無いのである。
四季派は、現代詩から追放せよ、と、よく言われた。
スローガンに、ビジョンが示されているのはいいほうである。
(陰謀の)目的を隠したいがために、悪巧みがなされているのが普通。
認識に普遍的な、いわば中性的な史観だとか、神の国の一なる形而上学だとかを、客観論議に論議だてて、偶像に仕立てて、道具的に(タ・プラグマータに)命題提示してきたのだ。
これが、命題に拘った目的を隠したい彼らを、虚無主義の奴隷に落とした。
アーベントラント(たそがれの国=西洋)全体が、この陰謀論議に、嵌まり込んだ。
が、これは自分が逆立ちして、予定立てた未来学やっとるだけである。というのは先に述べた。
弁証論(むなしい言い訳)を逆立ちさせて法に仕立てた、だけ)だと。
世界のすべてが行き詰っているのも、この、「予定の未来学」が、もたらしたものだとオイラは思っている。
自分の過去は厳然と、ある。これは誰にも否定できん。殺しても否定できん。
しかし共有の未来なんて、どこにもありゃーせん。
共有を仲介する資本だの、物理力を仲介するエーテルだの、さらに対象認識を仲介する現象における中性的変容だのといった、その予定立てた未来学が、危険の温床なんである。
具体的に描かれていない心構えをファッショ(わらくず)に束ねて、未知の目的がファスケースに入れて、みんなを奴隷兵士に仕立てようとしているのである。
イメージ(心象)の公共化によるビジョン提示と、布教によるイコンの教会化は、同じものだろう。
ともに、「唯一絶対の客観的自然物がそれ自体で存在する、という、イルミナティたちの対象認識観」が背後にある。
今や、世を挙げて、それに、はまりこんだ。
日本人も、実は多神教を捨てた観がある。
(聖書の)客観的認識は絶対なのだと、悪霊の憑いたへんな人々は言う。
日本人には、この聖書も立てないまま言っている人が多く居て、不思議だが。
聖書の代わりに、「ありもせん未知の自然物観」が立っている。
賢い偽ユダたちも、自分では解かっているのである。
78%のこの現実は、史的(歴史記述された観念論=詩的(出ー来る予定の)、そして死ぬ予定の)唯物
論に過ぎんのだと。
ニヒリスムスに落ち込んだ人もそうだが、予定論は本当に危険である。
オイラたちに予定されているのは死ぬことだけで、ほかには、ない。
マルクスは自然弁証法を言い立てた人ではなくて、78%のこの資本主義の現実が史観に過ぎんと、弁証法が逆立ちしてるんだと、哲学的に暴露しただけ。