何度でも何度でも言う。
オイラたちの日常は知識で成り立ってんじゃない。
オイラ個人の、対象認識によって成り立っている。
その対象認識を構想・構成しているのは無時間・無空間の中性的な仲介者や純粋経験(無時間・無空間の中性的権能)ではない。
おいらたち個人の持つ、感性なんである。
つまり、過去を背負った個々人の感情と、その働き。
これが、オイラたちに時間・空間が「ある」、そのことである。
その働きが反省に働けば、そこに在る、そのことが、過去の実在として認識される。
そうやって、未知の未来に向けての身構えをやっている。
これは架空の企画、なんだが。
しかし実在するのは、この企画ではない。
同時に感性を素材に反省された、身構えのクラス(型枠)の方なのである。
範疇の権能ではなく、俯瞰できるカタログとなった、カテゴリー標本の方。
これは、個人の主観や感情といった諸々の感性の図式。
つまり、過去のもの、なのである。
感性が描くこの図式(シェーマ)は、暗くて見えない。
決してイメージではないので、見えやしない。
しかも個々人のモノなのに、コレを騙して公共物に挿げ替えてしまう人がいる。
特に、イメージというピクチャー(描かれた絵)が割り込んで、隠蔽に大きな役割を担った。
これはwindowsのapi、bitbltの役割と同じ。
「未来の絶対の学問」を合言葉に、目的を隠して陰謀をやっとる連中がいる。
それがヘーゲル主義者である。
未来志向の自分の感情を反省できない、エリート学者たちの多くがこれに賛同している。
彼らはエリート化の過程で、感性を、すり減らしてしまうようである。
感情が掌る諸々を、自己反省して見ることができない人が多い。
反省じゃなく、自分の保身の身構えを、反省だと言っている人が多い。
それで、現象がある、というその背後にある、自分という心理学的(目的)を指摘されても、わからない。
フッサールも、実は、そうだった。
むしろ感性と没交渉の、絶対の美だとか、法の淵源だとか、客観的事実の絶対性を主張したりするようになるのだ。
はなはだしきは、この世が数学で出ー来ている、と思ったり。
詩(ポイエシス出ー来の対象物)の叙情は、光る硬い中性的なものだと思ったり。
全宇宙を風呂敷で包める、唯一絶対の宇宙観を作ったりする。
仕上がった形而上学の提供者ライプニッツは、偶然出てきたのではない。
この一連の陰謀の、組織の主催者の一人なんだと証明されたようなもの。
その一連の超エリートたちの陰謀が、「哲学を殺して、それを錬金術にすり替えた」。
絶対の宇宙論を仕立てて、そのマトリクスに、世界中を抱き込んでしまった。
一部の文献学者たちが先に、その陰謀に気がついたようだ。
彼らは、これをニヒリスムスだと、既存の宇宙観の崩壊だと呼んだ。
新手の宇宙像のイコンを仕立て、それに世界を包んでしまおうとする、未曾有の危機なんだと気がついた。
それで文献学の第一任者であったニーチェが、自分の業績も学問も捨てて、自ら哲学に転向して、それを世間に警告した。
歴史学や、神学、経済学、宗教界などからも、同様の人が次々出て、警告してくれた。
ナチスのハイデガー先生が、最後の警告者だろう。
しかし今は、彼らが警告したはずの、心理学、宇宙論、神学、社会学といった、コックリさんの形而上学が、すでに世界像の時代を支配している。
世界を破滅の淵に追い込んでいる時代。
世界は陰謀の中で、病み疲れている。
建前主義、親方日の丸のわが国も、自分の見えないサイコパスのエリートたちの食い物になってしまって。
いろんな分野のトップに、その多くが居座ってるんだから、始末が悪い。
明日なんて、どこにもない。
血を吸われ続けるおいらたちにあるのは、行き場のない感情だけ。
身構え、生きてきた現実の過去の暴露が、出ー来るのみ。
この過去をちゃんと反省して、まず自分の身構えを立て直そうや、というのが、オイラの小さな小さな主張なんである。
自分の頭で、わかることを解かって。
わからん部分は、数式やエリートに任せるんではなくて、付箋付けて、共有でしつこく論議し、監視しようや、という主張。
解かっている人は、わからん他人に、それを説明していく義務がある。
オイラもアホな頭で、自分でわかった小さなことを、下手な文章で発信し続けている。
わからんままに、ケムトレイルで空を覆わせ、cernに破壊活動を続けさせ、マークウルトラ兵器や、ecm兵器を蔓延させてはならない。
対象認識できてないから、ない、わけじゃない。
ぜんぶ、できてるんだよ。
説明責任を果たさず未来企画して、否定すべき過去を奴隷たちに隠蔽して、ありもせん絵を描くのがエリートの仕事。
彼らはエリートに名を借りた、悪霊の手先なのである。
悪霊は本来、自己否定の契機に使えるだけダロ。