こいつらのややこしい関係について、順に述べていってみたい。
世間常識がまちがっとるので、少しはただしとかんと、泥沼が底なしになる。
まず倫理から。
辞書に書いてあることは、まず、ぜんぶ忘れていただきたい。
こいつらのうち、倫理と宗教は共有に関わり、道徳と理念は享有に関わる。
エ?逆ジャンと思う人は、少しは考えたことがある人。
もちろん世間では、享有と共有を区別しないので、そのことも一切理解されてない。
倫理は個人ごとだから規制しがたい、なんていう、へんな意見も多い。
宗教は個人ごとの信仰だと、不思議にも思わずみんな思っている。
倫理も、その人の思想の問題だと、悪霊に言いくるめられて思い込んでいる。
ごった煮なので、最近のオイラのようには考えないのが普通。
だが、それだと問題の本質が見えなくなるのだ。
特に倫理なんて、「個人に訴えかけてくる、人としてあるべき道」だと思い込んでいる人が多いのはナンデヤろーと、「世に溢れている陰謀」を、つい思ってしまう。
人倫というのは、「人が共有生活を営むための、個人に課せられた共有規範」なのである。
しかも、個人の享有上に実在するが、享有だとは見えていない、縛りモノ。
いわば、お仕着せ仕立てによる、範疇の力なのである。
なのに、現実に自分に対して力を振るう制約なんだ、と考えていい。
その力はもともと個人のものではなくて、「共有の有職故実の力」なのである。
社会の共有の力。
共有社会がなければ、人の倫理なんて、何の意味も無い。
無意味。
倫理というのは、「その社会の中で、人に課せられた人倫規範の理を説くもの」。
つまり「お仕着せの共有責任」を、自分個人相手に自分で説く理屈、なのである。
だから、社会によって違ってくる。
まったく別のものになる。
野蛮な白人社会の理屈を、パプアニューギニアの伝統ある文化人に説いても、無意味だっつうこと。
つまり、その社会の中で自分個人に有効に働いている理屈立てを、裏返して倫理と呼んでいる。
倫理は有職故実の理の力で、しかも共有のモノなのである。
だが、必ず自分に対してのみ有効な、「享有へと自己を規制する力」なのである。
個々人に対し、その人の自己反省を通じて、共有の規範を有効に訴えかけさせる。
有効な、規制のクラス(感性で出ー来た型枠)なのである。
無効であれば、そもそも倫理とは言わないのだから。
つまり自分の心の内から、自分の自由を規制して語りかけてくる、悪霊の言葉なのである。
間違っても神の言葉ではない。
悪霊の言葉。
従うも、従わないのも、個人の自由だが、従わされてしまう力がある、そのものをこそ言う。
自己反省能力の無い人は、この倫理を聞く能力も、観る能力も一切無い。
だから、倫理観の無い人、で普通に通る。
大臣とか社長とかの、組織トップまで上り詰めた人に意外と多い。
共有社会では、人の道なんて見つけられなくても、稼ぐ実務力と自己保身能力さえあれば生きて行ける。
汝・・・せねばならぬ、と言う、欲望の肯定の声は、自己反省無くても存分に聞ける。
なので、それを倫理だと思い込んでしまっているサイコパス的な人が増えてると思う。
倫理は、その大概が、個人の欲望を「規制」し、多数者が社会生活を円滑に営めるようにするための共有社会の規制。
緩和ではないのである。
規制。
享有とは見えていない、共有社会の有職故実の理の、自分個人に対する反省的強制力のこと。
だから人倫を聴けない人は、自己反省能力がないから社会生活が営めない、というわけじゃなくて、成功する人がむしろ多いようだ、というのは先に述べた。
世に哲学がなく、哲学が不要だった社会に昔から居た捌庭師(さにわし)も、今は居ない。
だから、無責任社会になった。
すべてを自己都合のいい肯定にしてしまって、ありてある肯定世界の神の声にして聞いてしまう人たちは、逆に祭り上げられている。
神になって振舞えてるんだろう。
この倫理を、仲間内で自分たちに都合よく作ってしまおうというのが、いわゆる世の、倫理規制委員会である。
的ハズレの、馬鹿馬鹿しい取り組みだと思う。
ロリコンが集まって青少年健全育成協議会をつくり、793部隊が集まって医療倫理を論議しているわけだ。
有職故実はもともと、社会の中で、しぜんと出ー来てくるもの、である。
思い出すべき過去のもの。
委員会で仕立てられる未来想定モン、じゃない。
倫理は個人の内で働く規制の力なんだから、教条文句作っても、必ず無関係の、無意味で終わる。
的外れの倫理規制委員会が造ろうとしてるのは、じつは次に述べる道徳、のことなんである。