太古に、弥勒(ミロク)菩薩の到来を予言する思想のもとが生まれた。
ミスラ教あるいはその類似宗教というのが。
(ここはあんまり明確でない。ミスラはずっと後の時代のものかも知れない)
ミタンニ帝国で、王族の人質となっていて、それを学んだ上下エジプトの王子イクナトンが、ファラオになって帰国。
後に、ケムト(上下エジプト)の帝国にもアトン教として、ひろめた。
それに感化されたのが、ゴシェンを地盤とした王族の一部だろう。
商売奴隷を自在に扱うのに使い、やがて自分たちも、この1神宗教の奴隷と化していった。
ここらへんが、1神教のハシリでは?、とオイラは思っている。
アッシリア地域出の、十字をシンボルに扱う1神教の、ハシリだと。
彼らは、1なる対象認識を、今という瞬間に、十字へと予定契約する。
これが現実なんだ、と予定してしまう宗教。
やがてファラオが変わって時代が流れ。
ケムト帝国の世間は、もとの多神教に戻った。
そしたら、彼ら(宗教で凝り固まった王族の一部)は、失脚し追放された王子を中心に大軍勢ともども、大勢の同族の戦勝奴隷(反逆した海の民)を率いてエジプトを出た。
(どうやら、逃げ出したんではなく、円満に出たようだ)
彼らが後に、バビロニア・タルムードを作り上げた、ヤバイ奴隷商人のハシリ。
どうやら現代のユダヤ人とは、血筋には断絶がある。
ユダヤ人の主力は白人だからだ。
彼らはローマ帝国と、多くの砂漠、草原の地域をも1神教化させていった。
その内部から食い荒らし、次々と崩壊させていったといえる。
1神教の国家は長続きしない。
アシナ氏という黄色人種のハザール汗国も、奴隷制度やそれを扱うためのノウハウを持つユダヤ教を導入したばかりに、これで逆に自分たちが、やられた。
貴族の儲け主義が講じて国が潰れた。
ローマ帝国も、結局はフランク族というカトリックの部族に、内部から食いとられるのである。
1神教の前では、対象認識に、1の、ありてある、そのことをのみ絡ませる。
現実が、ただの1つになってしまう。
それを信じる限り、「人は信仰の奴隷と化す」、しかない。
死すべき無に直面した自分とは、絶対につりあわない神と、1:1契約に落ちてしまう、からだ。
そしてその信仰は、教会組織でしか、レ・リジョン(反復)できない。
そこでしか、わが内なる道徳律は、現実の共有の時空と、出会えはしないのだから。
果ては聖書絶対だとか、教会絶対だとか、予言絶対だとか言い出す。
その聖書も、これが正当、いや、あっちが本家、となる。
酷いもんである。
「神の前に」、すべての人が平等だとする、コレがもともと、いかんのである。
すべての人の対象認識は、もとは無(メー・オン)の上に直接立っている。
有限で死すべき存在であることの(自己)享有が、それ(すべての人が平等であること)を絶対的に、もともと「対象認識を無で持って支え」ている。
有限で死すべきそのことで、自由を責任保障しているのである。
それが命ということ。
あえて神を導入して、共有奴隷に落ちる必要は一切、「無い」。
なのに。
不釣合いな契約を、偶像建てて、道徳教書みたいにむりやり「有ら」しめてしまった。
もともと奴隷商売をやっていた人たちが、永遠の命だとか魂の救済だとか、言って。
1神教を、組織として、宗教として、デッチ上げた。
彼らが「魂のイコン」を仕立てた悪者たちだろう。
つまり偶像の雄牛を作った連中、だと言ってよい。
聖アウグスチヌスなんかも、それに加わった悪人の一人。
ゴータマ・シツダールタ王子は、よく、シャカ族の雄牛と称えられた。
死海文書という膨大な古文書が見つかって、前期のキリスト教であるクムラン教団が、ジャイナ教や仏教に多くを学んでいたことが明確に、わかってきた。
偶像の雄牛の由来も、現代では推測できるようになってきた。
一神宗教で、死すべき人の解脱、悟りを教えるのではなく、神が永遠の命を授けるのだという方向に持っていった。
魂のイコンを詐欺で仕立てた人たちが、次は自ら、そのイコンに、対象認識の偶像に囚われていったんだと思う。
オイラは最近、そう思う。