一神教は、このころ(bc2千ーbc1千年期)のオリエントで、契約に基づく奴属組織とともに生まれたのではあるまいか。
これが言いたいことの、一つ。
「一神教」と、「契約」と、「奴隷」の関係が、うっすら見える。
これが言いたい。
神々の信仰の歴史は古くて、6千年以上ある。
だが、その一神教も契約も奴隷も、信仰においては超新参者なのだ。
組織の共有認識理念が一神教を形成し、その一神教組織への奴属強要が契約を利用し、奴隷を制度化したんじゃないのかと。
つまり、「一神教と、組織契約と、奴隷制度は、一体のもの」、なんじゃないのかと。
こう、オイラは仮説としてだが、思っているわけである。
現代の白人たちは、「太古から所有の概念も、奴隷制度もあった」んだ、と言いたがる。
彼らは古い太平洋諸国のもつ、過去の隣人関係を知らないのである。
今でも一部に残ってて、トラブルの原因らしい。
「おれの家の持ちものは、家も含めて、みんなのもの」
「となりの家にあるヤシの実も、おれのもの」
という、あれを知らない。
共産主義じゃないのである。
そもそも、その地域では善悪の区別が、なかった。
オカネを作った地域もあったが、わざと容易に持ち運べないものにしたり。
アーリア人をはじめとする白人は、むしろ、「所有権」や「特権」の概念が大好きである。
善悪や正義の概念をも、その全体社会に、予定でもって持ち込んだ。
それで、ミロク菩薩のような、将来神を、奴属集団に希求させる必要が生まれた。
奴隷だった人々に、所有権や善悪の区別を与え、光明を与えたと、言いたいようだ。
だが、オイラは真逆の意見なのである。
商売はもともと、人と人の、物々交換。
取引の約束、じゃなくて、交換でもって、はじめて成り立つもの。
価値の概念も数量概念もすでにあって、秤なんかも出来てたようだが。
これはしかし現物取引であって、約束、ではない。
銅や金より貴重な、鉄が仲介してたようだ。
鉄本位制の、兌換経済。
しかもその経済は(予定)数字や(奴隷)労働じゃなくて、人の暮らし、ということ。
それがいつしか、組織と組織の「約束取引」になっていった。
そこに、悪賢い連中が、「契約という、予定概念」を持ち込んだからである。
契約概念は、モノや組織を離れて勝手に、一人歩きする。
やがて彼らの現実だとか人生だとかも、それが一元論的に支配するようになっていった、と、オイラは想像する。
つまり「人々はモノを離れて、精神的になっていった」と。
人を、モノとして奴隷契約に落とした、んじゃない。
人が、それぞれ自分の人生を持つ「固有のモノだということ」を無視して。
契約でもって、組織化できる予定のモノ、「空虚な精神概念のもの」に仕立てられていった、だけだと。
これが、奴隷制度であると。
ゴイム制度という、予定思想。
選民思想の根幹をなす一神教は、契約や組織といった概念と、予定を通じて、密接な関係があるのである。
つまり「未来志向と深い関係」がある。
それは間違いない。
だから、「制度としての奴隷制度」と、「組織としての一神教」は、未来志向と切り離せなくなる。