自分の時間である過去に負い目を感じながら反省できずにいる人たち。
かれらが誓約の場を隠そうとすれば。
当然予定は立たずにノイローゼとなる。
現実のものとなった過去を見ようとせずに、予定だけが立ってしまっておれば。
今度はそれは、先験的な形而上学となるのだ。
特に形而上学が立ってしまえば、感性でできた庭のすべても見えなくなる。
エ・ディン(家・光輝く)の光輝くそれで。
イルミナティの栄光が隠しているものも同じ。
それらは、庭に巣食った魔術的予定理念(アジェンダ)と化してしまうからなのだ。
理念は理性のもので、それは経験的なモノを扱うための(感性の)形式。
なのに、時間空間をそれも、予定して扱おうとする。
これは(悪)魔術なのだが。
世間では、この「魔術」という部分を隠してしまう。
庭の出ー来、つまりポイエシスに目をやらないと、そうなる。
でき、ポイエシスは先験的なモノではなくて、必ず「過去の経験的な出来」なのだ。
アジェンダという魔術的テーマは無視して捨てて。
この「庭の出来」、という「能の花」に注目してみたい。
経験的な出来事でありながら、先験的なものを導こうとする、この権力意思に。
それが、オイラがこれダメとハッキリ言う、庭の形而上学の本質なのである。
庭の出ー来(でき、もしくは、しゅつらい)。
この章のテーマである「庭の目的」と、「庭の出来」は深くかかわる。
必ず目的が先、という過去経験を基礎にして、という時間手順をハッキリさせておく必要もあるのだ。
これが飛んでしまうと、魔術が忍び込む。
情報工学という名の、現代ユダヤ魔術が。
庭の目的は批評、ではないのである。
確かに公共への捌(さばき)の持ち出し、なのだが、それは裁きの特権確保への意思ではない。
唯一の、ありてある存在者への帰依をもとにした、価値化だとか裁きの権威化なんてのもノイローゼ防止策ではあるんだろう。
だがこれらも、出来ーる時間手順を誤魔化した魔術なのだ。
予定の先立つ先験的な形而上学は、必ずポイエシスを悪用した魔術である。
これはすでにアリストテレス先生が、大衆演劇における悲劇と観客の関係を深く省察してポエチカとしてまとめて世に暴露した。
これを一切理解できん人々によって、詩学の意味は失われてしまっていたんだが。
ナチスのハイデガー先生が掘り起こした。
大衆演劇という、仮想の庭を立てること。
それが、ポイエシスということの本質である。
そこにあるのは、人々を騙すためのバーチャルリアリティの魔術ではなく、市井の日常を、その無知において知ること、なのである。
ポエチカにも機械仕掛けの神は出てくるが、唯一の神ではない。
神々の形容や力関係、であるにすぎない。
庭は、現実の日常を、反省出ー来る誓約の場となる。
そのことへともたらせる目的で、そのために作られるのかもしれない。