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2020年05月18日
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カテゴリ:哲学研究室

 エ・メ・サル(庭)というのは、シュメール時代の言葉である。
 直訳すれば、家・神々の力・女。
 エ・メで、言葉を意味する。
 女たちが(あるいは女たちへかも)言葉を出来させるそこは、家に囲われた中庭のような場所だった。

 集い祈る、誓約(うけい)の時空、だったのだろう。
 神社の境内みたいなものを考えていいと思う。

 これが長い放浪の時代を経た後に、変化した。
 木々に囲まれた広場に天幕を張って家に見立て、柴ざしをする儀式の場となっていった。
 幕屋の、ひろにわ。

 さらには沐浴の場であったり、西洋人の立てる庭の目的と類似の、公共水利事業の実験場であったりした被支配の時代を経て。
 海を渡って壬申の乱で戦勝後には、自分たちが中心となって、独自の庭を立てた。

 列島ではしかし、いろんな種族が国つくりに参加していた。
 それらは、やがて核となる須彌山の意味も見失わせていく。

 庭は、一部特権貴族だけの、曲水の宴の場と化していった。
 まあ、懇親会やるための宴会場意匠なんですが。

 オイラたちの庭の目的を、「現実の日常を共有して反省出ー来るようにするための、誓約の場ではないか」と考えれば、つじつまがあう。
 懇親会も反省会の一種、だからだ。

 ポイエシスの意味が、しかし西洋では逆転してしまうという事情がある。
 西洋や中国の庭には、日本の事情は、まったく合致しないのである。

 同じ懇親会やる宴会場であっても、中国のそれは違う。
 日常の外にある神仙世界に遊ぶ、となる。
 ドイツでも米国でも、庭は家の外側に、その周りに出ー来る。
 家に付属するのだ。

 こちらは、便利使いのユーティリティーの場とされている。
 英国では、権威を押し着せるコートや、個々人を小さく統一規格で管理する、ヤードとなった。
 場合によっては、個人主張の(悪)趣味とも化してしまう場だ。
 誓約の場ではないので、他人が見たら、グロテスクになるのである。
 捌きの権能も、飛んでしまっている。


 西洋の庭は、人の暮らしの便利さや理想に奉仕する用途を持つのだ。
 つまり理念の奴隷でしかない、そのためだ。
 だが宝島の作者みたいに、違う庭を思い出す人もいる。
 子供のころ、自分のベッド周りにあった過去の庭を、彼は思い出す。
 それを詩のポエムに重ねる。
 西洋の事情は、オイラにも少しだけ、わかってきた。
 出ー来、つまりポイエシスが、過去の反省ものではなく、予定のアジェンダと化すからだと。
 
 要するに庭の立てられる本来の目的が、洋の東西で、まったく違うのである。
 庭の理念や定義が違う、んじゃない。
 その理念だとか、定義だとかの有様を庭という具体的なモノが招く。

 中国は西洋風だと考えていいと思う。
 子供心の追憶の庭は、また少し違う。
 このちがいは、奴隷制度の有無でひっくくれると、最近考え始めた。

 現代の日本庭園は、人材主義という奴隷制度のまっただ中にある、奴隷たちの文化の反省の庭。
 子供時代は、まだ奴隷の自覚が曖昧。

 だから、伝統のそれとは別物になる新様式も、出てくるのである。
 また子供の庭は、世間や親と切り離せば、別物となる。
 「子供の特権」となるのだ。
 西洋の庭は、そのすべてが特権を立てることが基礎となって出来ている。
 それは言うまでもない。
 誓約を求める日本の庭と、真逆なのである。

 知恵の実は、エ・ディン(家・光り輝く)の園に実ってたのが西洋。

 個々人の享有した出ー来(という経験)がある。
 それを共有する目的で、「誓約の場」として立てるのが、伝統の日本の庭というもの。
 そういう光り輝く理念、なのではないのである。
 立てた、一期一会のもの。
 薄暗い過去の、幽玄モノなのだ。

 経験に基づく、しかし先験的な共有理念を招くための場を設ける、ということ。
 悪霊を呼び込む。
 呼び込んで、しかし掃き捨てるためのもの。


 膠着語の伝統の庭には、時間・空間という感性の形式を誓約させるという、その目的があるのだ。
 この目的は、西洋風のものと真逆なのである。
 予定やアジェンダといった光り輝くスピリチュアルなものではなくて、薄暗い反省に属する。
 史観モノ、なのであるのは同じなんだが、モーメントが真逆。

 もともと唯物論で、できているのは同じだろう。
 いと、あわれな、「モノ」。
 淡い、はっきりしない、モノ。

 伝統の庭の出来の様は、78%の目的を持つ唯物論だ、と思っていいと思う。

 未来を見据えた、永遠の浄土実現への祈り、などではなかった。
 自分の過去という現実へ向き合えるようにした、有限な自己変革のための場の提供。
 それが庭(丹輪)だということ。
 おいらたちの現代の今は、100%の建前を未来志向で立ててしまう真似カルチャー文化なので、すっかりおかしくなってしまっているが。

 いつの時代にか、ここへ「虚無支配の目的」を持ち込んだやつらがいたのだ。

 純粋経験みたいな、時間空間を超越した、ありえん理念を持ち込んで。
 西田先生は無知の知のために、絶対無の概念をも持ち込んだのだとは思うが。
 類似の形而上学的意図を持つ思想が次々持ち込まれ。
 それがなんと、世間主流の共有史観になってしまった。

 いわゆる(過去の個人享有を)共有の場のしつらえで癒されようとする、というやつが、もとの目的。
 カタルシスかエクスタシスか、いろいろあるだろうが。

 しかし今みたいに、100%の建前ばかり見据えてたら、それを前にガンバって疲れることはあっても、癒されることなんぞは、ない。
 もとの目的は曖昧に見えなくなって、安住の時空を探して、さ迷うしかない。
 さ迷えるユダヤ人と化してしまう。
 
 西洋の庭も、現代の日本の庭も、今はカルチャー思想の元で、奴隷支配の目的を持つのだ。
 それで、コート支配の場や、ヤードのウサギ小屋と化してしまった。
 具体的には、イメージという、写す権能が導入され使われている。
 そのことを、過去に確かめた(オイラのイメージの哲学)。
 庭の形而上学化には、光輝く理念の実在化という、魔術的なインスタンス手法が使われてた。
 超簡単に言うと、ウソ史観を植えつける手法。


 そこでは、先験的な権限をもてないはずの純粋理性が先験性を主張し、経験的な権限を持たないはずの純粋経験が、統計的な帰納法で未来の経験論を仕立てていた。
 そして両者を弁証法で言い訳ならぬ予定して、実践判断させていた。

 さらには、単なるデータ(純粋経験)という、この世にありえない数学的理念を導入して。
 その数学で形而上学を立て、伝統の庭の破壊にかかっていた。

 今や、魔術も堂々と導入され、社会操作の目的で使われているのだ。
 これが人の心理を掴み、実権を握ってしまっている。
 独自の時空間を持たない、空虚な宇宙理念、を使ってである。
 その享有と共有が誤魔化され。
 選びと特権と差別が権限をもって、庭の能に取って代わっているのだ。


 それが神の学問でもある、形而上学。
 現代ではユダヤ魔術風に、神智学とか情報工学とも呼ぶ。
 学問世界に予定された権能と、庭のカルチャー文化が持つ権能は、実に似ている。
 しかしそれらは膠着語の庭の目的とは、相容れない。






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最終更新日  2020年05月18日 10時49分16秒
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