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カテゴリ:哲学研究室
三つ目論者特有の、この享有認識の逆転をもって、哲学と、自然学や形而上学といった、哲学でない他の論議とを区別できる。
フィロソフォスの学徒の論議なのか、特権を言うソフィスト(知恵者)の論議なのか区別できる、ということ。 これを明確にして教えてくれたのはカント先生である。 いわゆるコペルニクス的転回(ケーレ)という、あの、みつめの転回論議。 観察者から見たら、太陽は実に複雑怪奇な運行をしている。 間単に地球の周りを1日で回っていくんではない。 太陽のまわりを地球が回って、なおかつ地球が自転しているから、なのだが。 現代のオイラたちが(誤って持つ)そんな認識のモデルは当時にはない。 それを方程式にまとめて理論化するのは、たいへんな作業だった。 天道説をもとに、すでに完璧なものができてたが、じつにややこしい。 ミコワイ・コペルニク(銅屋のミコワイという意味らしい)というカントの大先輩のプロイセン人がいた。 彼は、これをもっと簡単明瞭に、自分でわかるようにしたくて、視点を変えた。 一般的には天動説を地動説に変えたんだ、既存のそれとは別の形而上学を基礎に立てたんだ、という。 オイラたちが持っているような、太陽の周りを地球が回り、なおかつ地球が自転しているという宇宙像モデルを立てたんだと。 が、それはウソ。 もしそうなら、教会の権威に楯突くものとしてコペルニクは火あぶりになったはず。 ならなかった。 数学に熟達してた銅屋さんがやったのは、単なる「特権権益知識の裏返し整理」である。 宇宙像をもとに構築されてた、めんどくさい方程式を簡素化して、自分でもわかるようにしただけ。 方程式を簡素化した。 それは確かだが、同じ方程式なのである。 自分独自の宇宙モデルなんて、一切考えてないのである。 宇宙像なんか一切抜きで、単に現実の観測結果に合う、既存方程式の簡素化を図った。 ここで見つめられているのは、太陽のある天でも、自分の立っている地上から見た宇宙観でもないのである。 むしろそんな共有宇宙像を無視した。 自分と太陽の関係という、そこにある誠実さのほうを見つめた。 自分が感性で享有する、現実の優先なのである。 天にある太陽の時空が示す黄道と、観察者である自分という、この関係を「見直した」だけ。 自分が動く、という形而上学的モデル立てて見直した、んじゃないのである。 観測結果のみが最優先。 これまで立っていた権威の三つ目を、単に逆立ちさせただけである。 複雑怪奇な方程式や宇宙像の権威に、のさばらせないようにした。 それを簡素に、素朴にして、自分でもわかるようにした。 それだけ。 それまでは方程式という中性的な権威が、天動説をもとに立っていた。 これが、解らせているフリをしていた。 しかし、ややこしい方程式からは、わからなかった。 その架空の宇宙像モデルをではなく。 いわば自分の「享有する現実という誠実さが、その方程式を支えられる」ようにした。 だけ。 太陽と自分の関係認識に役立つ、その目的で立てた方程式の簡素化、という目論見を立て直し、それに成功したのである。 神だの、宇宙の成り立ちだの、から中性的にしたように見えるが、そうではない。 単に自分の享有を確認し佇んだ、だけ。 太陽と自分の関係を方程式で示すのに、宇宙観は関係ない、とわかったのである。 視点を逆のモーメントにすればいいだけ。 自分と太陽の位置関係という、時空の有職故実、つまり庭さえ見えれば、それでよかった。 見るものと見られるものとの形而上の関係を逆転した、んではないし、単に形而上のモデルをとっかえた、んでもない。 一般にはそう理解されてしまっているみたいだが、これだと、ぜんぜんおかしくなる。 これを採り上げたカント先生が形而上学者になってしまうし、コペルニクは火あぶりになっていなければならない。 そうではないのである。 共有する認識ということの庭における三つ目を有職故実に戻し、共有の宇宙像立てから、単に享有のみつめに、立ち返った。 自己の誠実さを見つめなおした。 方程式を、その中性的特権の座から引き摺り下ろし、享有下の現実という感性の道具に戻しただけ、なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月23日 06時08分21秒
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