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カテゴリ:哲学研究室
さて、個々人の感性責任というのは。
自分で自分の身体を持つ、ということだ。 自分用にキープするということ。 機能不全という不遇の身体を得て、この世に生まれてきた子たちも、生まれつきその自分用の身体責任を負わざるを得ない。 生まれてきた彼らには責任がない、といって誤魔化すのが常識だが。 コレは自己責任回避のウソ。 自分で自分の感性キープするのが責任なので、それは誤魔化しだ、とわかるはず。 あらゆるものが神の祝福を受けている、という宗教者の言い方も通らないのである。 むしろそんな特権主義だと、不遇な本人からしたら、呪いを受けているように感じてしまうはずだ。 責任を負う、という、この表現にも、なんか違和感を感じるので、責任から逃れようとするのだろう。 罪と罰との関係を、どうしても考えてしまうからだ。 だが、それは単に、みつめへのアプローチが逆立ちしてるから、だと思う。 特権としてみるから、罪や罰が出てくる。 責任は、罪や罰とは無関係、なのである。 恩寵や祝福や光といった宗教用語とも無関係。 単に「自分の身体を自分で生きる」、ということだから。 罪と罰の奴隷主義は生殺権を法で握るので、それをさせないために罪や罰を押し付ける。 これは悪魔を考えれば、わかりやすい。 極端な悪魔連中、優生学論者の731部隊のエリートたちを、かんがえてみてください。 彼らは、不遇な身体を持つ人を、まるで罪であるかのように言い、罰を与えようと扱ってきた。 現実に、マルタは大勢、生体実験で拷問同然に殺された。 戦後も、彼らが主導して優生保護法を作って、人権無視で大勢の人に強制で不妊手術を施した。 彼ら自身は、医療に従事する特権者として、害毒をばらまきながら君臨したのだ。 これはもちろん、特権者である自分の犯した罪や罰を、他人に転嫁させて、さらに詐欺に利用して稼いでいただけ、なんだが。 もともと感性責任ということを、時間・空間的に逆立ちさせて捉えてるから、そうなった、それができたんだろうと思う。 世間は、彼らエリートに教えられる立場なので、世間でも常識的に、これをやってしまっている。 罪と罰の思想を導入している。 常識が間違ってるから、犯罪者を裁けないどころか、優遇してしまう。 ソーネチカはマリア様じゃない。 自分が、自分に対して時間・空間を庭として構えて、「ある」はずのものが責任。 建前ではなくて、現実を反復する、責任。 世間に対して、じゃなくて、自分に対して。 共有の罪も罰も、ありゃーせんのである。 三つ目特権とも無縁。 これを、オイラという(庭の)共有が、存在者の存在という(庭の)共有に対して持っている責任だと、常時、テンポラルに責任転嫁しているのだ。 特権主義やっている。 あなたもオイラもやっている。 (ハイデガー先生の言ってた、日常の怠落問題と、ちょろっと抵触すると思う。) 責任というのは、必ず”自分の感性”なんだ。 それが、見えん庭のものに、なってしまっている。 共有化されていて、そのくせ全体が見えん。 UFOみたいなもんだ。 コロナ問題みたいに。(ここでいっとるのは太陽のことだよ。) その感性責任を、自分が神の(あるいは自然の)奴隷となることで、自己責任放棄、させられてしまっているのだ。 常識の感性責任では、責任という形式が先に立ってあり、感性がそれに倫理的に嵌められるのだ。 範疇によって。 わけのわからん人倫というものが出てくる。 この問題は、ちょっとおいといてと思うが、関係ある。 共有の感性認識が、オイラという認識の先に先験的にあって、それが自分を形成してるんだと、思っているのだ。 逆の思惟的モーメント、三つ目をもって。 先験的であることを、経験的特権とみなしてしまっている。 つまり、逆立ちして考えてしまっているのだ。 時間・空間を、もともとが共有のモノだと、見えてない庭だと思っているからなんだろうか?。 そうでもないのかも。 自分の常識に聞いても、コイツがはっきりこたえようとせん。 だが、わからんけど、それは他人のもんだ、と思っているみたいだ。 しかし時間・空間というのは、オイラが自分でここに現実として認識する、オイラ固有の感性の形式。 他人のものじゃない。 わからんはずはないのである。 現実という、享有に所属するモノ。 数学的な、難しい架空の次元の話なんぞじゃない。 庭のクラス形成者だが、(見えてない)庭論議じゃないのである。 物理学という「目的を持った再現企画が立てた」、仮の庭なんぞじゃない。 オイラの身体という、過去に辿れる現実の庭。 身体という庭が、そもそもきれいに見えていないので、この論議は手探りになってしまうんだが。 責任というのは、つまるところ自分の感性のことである。 この庭の広がりにおける感性的責任の「クラス化」、というだけ。 このクラス化されたものが、倫理なんだろう。 これは自分の享有に属するだけ。 それだけのものだ。 共有世界に対してはもともと、無関係なのである。 クラス化されるので、共有世界でも通用するように思ってしまう。 しかし倫理というクラスの、そのもとは、感性。 使う図式も、範疇ではなくてカテゴリー(露語巣のカタログ)。 すべては、自分という享有に属するだけの目的に収斂するのだ。 だから倫理は、具体的な論述である道徳とは違って、共有では効果のない縛りとなる。 享有と共有をあいまいに扱う、捌きの庭の見えてない現代では、これも曖昧なんだが。 倫理を共有の世界で論じようと図るので。 共有世界が人の感性を形成しちょる、と言ったような現代風言い方は、その縛りを純粋世界で、いや虚無世界で一義的に実現させたい、光る硬い詩なのだ。 みつめにウロタエて、庭に、感性のポイエシスを責任転嫁しちょるだけの話。 ちょっとは庭がみえてきましたか? 自分無視、哲学無視で常識を正そうと騙るおいらは、逆に、見えんようになってきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年07月07日 08時47分48秒
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