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カテゴリ:哲学研究室
*先に下書きした哲学論稿の推敲をやっていくつもり。
表題だけ見て、「お、こいつ思想変えやがった」、と。 オイラの公開論稿「対象認識について」を読めた方なら、そう思われるかもしれない。 残念ながら、形而上学としての哲学などはウソだという、常識はずれの見解は変わっていない。 世間の辞書には、「哲学=形而上学の提示だ」、と書いてあるのだ。 オイラは哲学とは「自分で自分の無知を解ること、無知の知が哲学だ」と思っている。 知識を持って学問だと提示するソフィストとは一線を引く。 アリストテレス先生のフィロソフォス路線を、継承したいとする者である。 なので、この辞書の常識には、まったく従えない。 哲学の目的は、形而上学を立てることではなく、自分の前に立塞がっている史観を破壊する実践行為にある。 まず、既存知識から奴隷解放されねばならない。 アリストテレス先生のメタタフィシカの読み方については、過去から何度も論じて来たので繰り返さない。 庭の形而上学は、そんな奴隷解放目的を持って書かれる、扇動文書である。 そもそも形而上学と名のつくものであるかぎり、哲学ではありえない、というのがオイラの主張。 そんなんは、形にして(奴隷)人の頭上に祭って見せる操り人形用のものだ、ということ。 こう書かないと、だれも振り向いてくれないから、の、「お題目であるにすぎん」と明は言しておく。 西田先生の真似である。 善の哲学などありえないのに善の哲学という題目を付けた、みたいなもの。 庭は、形而上には対象認識できない。 目の前に広がっていても、モノなのである。 個人が認識「享有」する、ものである。 しかも同時に、「共有」という、「捌きの場」でもあるからだ。 個人が自分だけで持つ、対象認識”形成の場が”、庭(ニワ、テイ)。 しかも庭は、そのテイという共有の権能表現でもわかるように、人の対象認識から”悪霊を履き捨てる能を持つ”ものを言う。 この能は、伝統的には捌庭(さにわ)という。 掃き清める「清めの場」のことである。 悪霊を掃き捨てて、自分と公共を無理にでも並立させようとする。 対象認識の、権能提示の場なのである。 それが庭。 オイラが立ち、同時にオイラが参加している、公共の場立ち。 だから庭の形而上学は、哲学の対象とはならない、のである 自分で自分の無知を知る、ことにはならないからだ。 公共の場立ち、であるがゆえに。 容易に組織化され、カルト奴隷を生むことにもなりうる。 (オイラが立てるのでも、神が立てるのでもないが。 この問題は別途、庭のみつめの問題として論議する) 庭は、対象認識はムリだが、ヴァーチャルにガーデニングはできるかもしれん。 若いころはそう思って、延々と、ほじくりかえしてた。 だが、それも哲学みたいに明晰判明に解る、ものじゃない。 そのことだけ、わかった。 自分でわからんままに、ヴァーチャルガーデニング大全という、夢のお告げでアカシックレコードを読んでた、へんな時代なのだ。 けど、庭はいつまでたっても、相変わらず、薄暗い世界だ。 「庭の形而上学など、薄暗い無なんで、そんなのありえません」 というのが、今のオイラの見解。 理由は、前作「対象認識について」で、シツコク述べたつもりである。 その、ありえない(無の)形而上学を立てるんじゃなくて。 先にも述べたとおり、「自分の無知を破壊する実践が哲学」、なのである。 無は破壊できん。 なので、本当は、理念という忍び込んだ悪霊の立てた形而上学のほうを、自分で破壊して、自分でわかる、ようにしていった。 これは自分でやらないと、わからない。 共有社会には、できてしまっている形而上学の庭、という諸知識がある。 それをぶっ壊すのが、本稿の哲学部分。 既成の主張との対話(ディアレクチーク)もありうるだろう。 庭の捌(さば)きを、そそのかす目的でもある。 オイラの非常識思想をまったく知らない人のためにも、なるべくシツコく、解りやすく、を心がけたい。 構想は、しごく単純だ。 現代の庭、常識の庭、常識の背後にある形而上学、庭の権能、庭の目的、庭の形而上学、の順に構想していきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月14日 09時49分11秒
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