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カテゴリ:哲学研究室
時間が感性である以上、共有などは、ない。
オレの感覚がおまえの感覚であることなど、ないからだ。 しかし共有の感性がある、という人が多いではないか?。 美や、文化の好き嫌いや、こういった感性は共有するんではないかと。 それは美学のテーマーではないか、と。 そういって持ち出してくるのが、数学の黄金率とか、級数の類の方程式。 自然は人の共有をあらかじめ取り決めてるんだという予定論を添えて。 つまり時間には予定があらかじめ決まっているもので、人の感性的時間といってるものは、その予定部分にすぎんのだという説。 時間は客観的な、絶対にあるもの(神)であって、その有限な部分を認識してるだけなんだと。 自然の全体が対象認識できたり、論議の主題となるなら、可能な説だ。 だが、自然は弁証法の主題でくくれるものではない。 人は神ではないので、自然の全体などはつかめない。 形而上学は不可能。 むしろそれ(宇宙論)は、弁証のもととなる命題にすぎないのだからだ。 時間は、人の有限な感性として対象認識されるのみであって、客観的絶対的主題なんぞには、ならない。 物理的時間は、確かにそれを命題化する。 モノ相互の力関係にこだわるのが物理学だからだ。 だが、それで核爆弾を作れても、現実が成り立っているわけではない。 エイドス(形容)、エネルゲイア(力関係)に分裂した論理的論議の対象にはなるが、それを論議する人の認識のほうは、命の持つ時間に制約されてしまうのである。 少年老いやすく学なり難し、というあれだ。 学というのは、人を殺す核爆弾のような道具でも、奴隷化する現実の仕組みでもない。 ましてや、時の流れでもって、人の生体をエラーの蓄積にしていく老化現象の支配者でもない。 予定とは無関係な、真似してぶっ壊してみて、わかること、その知識の蓄積にすぎない。 目的を、時間論議に導入しては、いかんのである。 自然弁証法は、目的を隠して合目的論議を導入してしまうし、弁証法は言い訳に走る。 数学は確かに目的を隠し持っていないし、言い訳もしない、しかし命題解決にこだわってしまうのである。 物理的時間として命題化されたものが、数学的に解を求めるからだ。 そうやって、論議は現実から遠ざかっていく。 現実から遠ざかるということは哲学しない、ということである。 時間の共有は、現実の共有のことでもある。 目的が探られてしまい、その現実が見えなくされてしまうのだ。 時間に共有があるのかないのか、という哲学的問いは結局のところ 人の感性が認識している、その現実は共有できるか否か、という主題だとわかる。 時間のない現実など、ないからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月10日 12時44分01秒
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