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カテゴリ:哲学研究室
新プラトニズムの主張は。
「存在の極致は一者つまり善であり、あらゆるものの源泉」、と説くらしい。 源泉は一つだけなんだと。 絶対の客観的真理や善が、絶対に存在する(はず)、それはコレ、というご意見なのである。 しかもそれが、世の秩序や正義や真理を意味する。 つまり人の世の史観形成骨格をなしている、という説。 「美徳と瞑想によって人間の魂は自身を上昇させ一者と合一することができる」んだとも説くそうだ。 こんなの、「人の感性を利用した魔術」ではないか。 情報操作の意図がある、ということだと。 オイラは、やぶにらみする。 聖アウグスチヌスは、これをも正面から受け止め、相手したのだろう。 「プラトニズムの基本的な構想はイデア論である」とする、ウイキの考え方なんぞも、オイラはまったく認めてない。 こんなのを認めてたら、プラトンどころかプラトン主義者たちも一神教徒となり下がってしまう、からだ。 ユダヤ人は「そう」だが、プラトンは、「そう」じゃない。 そうが、ウソになっちまう。 聖アウグスチヌスの考える普遍宗教は、純粋な一神教であるのは確かだが。 プラトン主義とも、新プラトン主義ともまったくの無縁なのである。 むしろプラトン先生に近い。 プラトン大先生は間違いなく、オリュンポスの神々やその種族とともにあった。 彼は多神教徒で、格闘技の大家で、隠し事のない真性の同性愛者だった。 魂には確かに、しつこくしつこく、自分を一つにして、こだわっていたのだが。 だが、一意に、こだわっていたんじゃない。 よく見知っている自分の自分、なのに。 自分でよくわからんもの、対象として理解できんもの、として、執念深くプシケの相手してた。 解ろうとして。 肉体も常に、魂とともに、あったからだ。 魂が独立してたんじゃない。 そもそもイデア論というのからして、プラトンの場合は形而上学ではなくて。 哲学。 つまり無知の知。 宗教や修辞学、知識体系や論争術ではなくて。 わからんかったものを対象認識し、自分でわかって自己の知識を破壊し否定する、そのためのもの。 ネガチブな否定のためのもの。 つまり「無知の知」への、誘いの主要テーマだった。 魂の預け先だった、のじゃないのである。 まるで逆。 イデア論は、当時のアテナイで流行していた宇宙認識論にすぎない。 その論議を逆に利用して、プラトンの師であるソクラテスが哲学を始めた、のである。 ソクラテスは、先生であるソフィスト(知恵者)のパルメニデスの論議には囚われず、自分の「無知の知の産婆術」を広めた。 プラトンのイデア論は、それをネタにさらに語る。 人の(自分の)無知を自分個人で悟らせる、格好のディアレクチークの材料だった。 これが、のちの時代に、プラトンの弟子の哲学者アリストテレスの諸理論を悪用することで、化けた。 主観論議が、いつのまにか客観論議に化けた。 共有論議になったのだ。 一元論や二元論の、形而上学理論という、へんなシロモノに化けたのである。 ミイラとりがミイラと化した。 魔術を経て、マトリクス的巨大構想宇宙論神学心理学となった、ということ。 これが新プラトン主義。 つまり肝心な部分で哲学であることをやめて、「宇宙論」や「神学」、「心理学」のものとなったのである。 修辞学となった、と言ってもいい。(但し、新プラトン主義では哲学を含んでいる) 形而上学の、この三つの対象区分は、後の時代のカント先生のものである。 弁証法がやる、オイラの時間魔術提示。 プラトン主義のばかばかしい偽哲学が、まずあった。 それはもともと無知な自分をわかる学問、じゃなくて。 イデア論という宇宙を包摂する知恵の学、神の世界観を与え、世界心理操作でいじれる、形而上学となってた。 それがさらに修辞学となり、おおばけに、化けた。 新プラトン主義。 だから宗教家も、修辞学を駆使して相手せないかんもの、となった。 ローマ帝国では、そのソフィスト達の錬金術的基礎が形而上学として個別に立ってた。 修辞学として。 心理学、宇宙論、神学として。 これらを史観立てた。 無知の知ではなく、そっちを、形而上学である三つ目主義の修辞学体系のほうを、哲学と呼ばせていた。 そのため、宗教の基礎固めにも、修辞学が使われた。 自分でわかって信頼を寄せるんではなく。 その形而上学の魔術で、世の無知な大衆を取り込むこと、が一般的なものとなった。 というわけだ。 新プラトニズムの理論というと、この「形而上学的認識論」を、つまり「情報工学魔術」を指すのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年07月15日 19時09分03秒
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