|
カテゴリ:哲学研究室
現実の感覚、コレが不思議なのである。
痛みや違和感がある、という不思議さ。 すべて一瞬過去の享有もので、すでにないのに、連続して感受して。 しかも共有化している。 感性で、ある、として反復しているのだ。 ・・・である、を齎しているのはこの感性である。 認識確認や企画の、いわゆる知性ではない。 みつめは受け取り、のほうであって、その企画ではない、というべきか。 アクチブレーダーというものは、振動を発して。 それを対象に関与させ、再度受動して認知するらしいが。 みつめには、振動を発する能力はない。 しかし誰かが振動を発しないことには、つまり音や光や電波がないことには、感覚もないに等しい。 振動する粒子には、「アクションの主」が必要なのだ。 光や電気信号や熱を生むのは生命活動。 これはまた、重力の相互作用や電気力の相互作用でも生まれる。 未知の暗黒物質の関与でも、生まれるのかも。 アクションの主は、知性ではなく、感性でもない。 ロゴス的なものではなくて。 出でー来る、うまれる。 つまりミュトスのものだ。 つまり芸能こそが、感性や知性を支配していると言える。 ・・・である、とロゴス的に言っているその事柄も、・・・でくる、とミュトス的に言ってるのにすぎんわけだ。 ・・・であるモノは過去のもので。 ・・・でくるモノは未だ未到来のもの。 この空虚さこそが脱存の意味であって。 オイラたちの、限界や無知を色分けするものだ。 痛みや違和感という、現実の感覚も、この色分けが仕切っている。 修辞して、その色分けをカタログ化する、のが修辞学で。 仕切りを破壊して、無知を悟るのが哲学だ。 だから修辞学も哲学も、構想力の中でのみ動く。 これをもって、これを認識する、というのはできない相談。 時間・空間という枠の内部で動くから、なのである。 感性は不思議であるがゆえに、アルケーなのだ。 感性の不思議さは時間・空間の不思議さ。 オイラがここで相手しているものは物理上の物ではない。 現実の感覚。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月27日 13時32分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|