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カテゴリ:哲学研究室
時間空間は同じ、同一のモノである。
別々に感知されているだけ。 見られて、見えているだけ。 見ている、んではない。 時間は必ず何某のモノの間の現実でであり、空間も同じ。 時間・空間の憂慮があって初めて現実。 それがなければ、現実ではない空想なのである。 たとえば数学的空想。 これを現実だというへんな数学者も多いんだが。 オイラのこの考え方は、現代の理性特権的優先の諸学のものではない。 こういったことを主張するのは哲学のみ。 哲学辞典と銘打った修辞学には、まったく載ってない。 オイラの哲学は、修辞学部分と哲学と、そして多神教で、できている。 時間空間は同じ、同一のモノであると主張したとしても、一なる神を述べているんではない。 いちなる神は共有論議のなかで主張される。 が、哲学は享有の学問。 修辞学のような共有論議ではない。 哲学には必ずアルケーが先立ってあり、享有がある。 つまり独自の時間・空間、それらの感性的享有の中で語られる。 これのないものは哲学ではない、のである。 形而上学は、知性的共有世界の論議。 優生学は特権的共有世界の論議。 物理学は対象的認識のモノの共有特権(力の)論議。 生物学は対象的認識のモノの生命力特権の論議。 だから、いずれも哲学とは無縁なのだ。 縁取りして区別できない別物。 科学技術が哲学の基礎の上に立ち、それを踏み台にして未来の完成へ向かうようなことを述べる人がいる。 彼らの頭脳にはデジタル化した形而上学とデーターベース特権しかないのである。 その頭脳はロボットのように優秀であっても、そもそも人ではない。 詩を書いても、どこか光る、硬いもの。 偽物なのだ。 オイラは現代詩運動を偽物だ、とハッキリ言う。 自分が追放された側なんだが。 この確信は、時間空間は同じ、同一のモノである、という倫理観から来るのだ。 倫理とは、そういうもの。 享有に作用して、それを突き動かす。 共有社会では無縁なもの、なのである。 共有社会に有効なのは、道徳。 否定的に倫理記述された具体的な教え。 汝には親があること忘れるなかれ。 これらの諸々が、ぐちゃぐちゃの泥沼なので、世が乱れたのである。 それを正すべきは、修辞学ではなくて哲学なのだが。 哲学は詩人に殺されたまま。 タルや修道院にこもったり、市場の列柱のすきまに隠れたり。 享有論議を弁証することは、誤解されるのである。 間違っても弁証論議は法にはならないので、そうなるしかない。 ディアレクチークは親密な間柄で享有できるものだ。 だが、ミュトス的なポイエシス(出ー来)無視してしまう。 哲学に注目し、三つ目を得ようとすると、詩の世界から追放になるしかない。 だから詩人の敵であるように思われてしまうのだ。 じつはロゴスとミュトスも、おなじもの、なのだが。 この、享有や共有も、じつはおなじもの。 分けて考えないと悪意で泥沼になっておかしくなる、だけだろう。 時間空間は同じ、同一のモノである。 別々に感知されているだけだが、これを一にまとめてしまうとあっさり三つ目が居座る。 みつめ(られ)ていることが見えなくなる。 そこに宗教的真理があるんではなくて、悪魔が居座っただけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月18日 08時22分01秒
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