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2022年12月07日
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カテゴリ:歴史・文化
唐の帝国は、列島の倭国が日本国と名乗った、その事実は知っていた。
 しかし事情は、知らなかった?当事者なのに?
 その間の事情を探ってみよう。

 帝国唐は当時の軍事超大国。もちろん、新羅の台頭は知っていた。
 そこの女王とも交流はあった。
 でも女王の朝貢の礼は形だけ。真心がなく、よそよそしかった。
 つまり、仲がよくなかった。
 特に列島へ侵略の手を伸ばしているらしい、悪い噂を知っていた。
 国の諜報機関で、しっかり掴んでいたのだろう。

 半島の、あとの強国、高句麗と百済が同盟して、新羅に対抗せんとしていることも熟知していた。
 列島には、高句麗系の国や百済系の国、新羅系の国なども、種々雑多入り乱れている。
 だが、なぜか騒乱は少ないことも、知っていた。
 どうせ野蛮な扶桑、蓬莱の国。
 興味がわかなかったのである。

 しかし、やがて新羅の女王と皇太子が殺される。
 その後、列島への侵攻が本格化していること。
 その手薄を狙って、高句麗や百済が連合して新羅に襲いかかり、その一部を併呑したらしい、という報告が、唐へも来る。
 これが唐人知識人の、当時の列島認識なのである。

 唐人の書いた日本書紀に、そこらへんは、ちゃんと記されている。
 新羅は、多羅、阿羅を中心に、多くの城を失った。
 半島は、危機的状況。
 但し新羅を攻めたのは日本だ、と書いてあるのだ。

 日本、もと小国が、新羅の一部だとは知らなかったのだろうか?
 いや、知っていたのである。
 自分がその日本国の官吏となっており、今は新羅王が朝貢してくることも知っていたので。
 そう書いたのだ。

 女王殺害後、新羅では、反唐派だった大将軍金ユシンが、女王の息子、親唐派とされる金春秋とつるんで。(もともと一心同体ご親戚で、仲がいい)
 新羅の皇太子ヒドンをも殺す。
 この頃、国の諸制度を唐風に改めたいと、唐へ援助を乞いに来ている、という報告がある。
 
 いい機会だった。
 これまで何度も失敗してきた高句麗、百済征伐を、唐はあわてて決定。
 最強の将軍、蘇定方を投入。
 新羅の金春秋を信用しているわけではないが、同盟軍と認定し、半島地域の将軍に任命。 
 これまで、唐は幾度となく巨大な陸軍で高句麗騎馬軍相手に戦ってきた。
 だが、破れてばかりだった。
 選ばれたのは、騎馬軍ではなく海軍。
 その兵士種族がしかも、シウシン族なのである。
 
 この種族は列島にも、特に北部の海沿いなどにもいて、高句麗にも多かった。
 呉越系の海人種族で、中国から列島にかけて広く生息する。
 北倭だと、広義の倭人ともいう説もある、海人種族なのだ。
 実は、対百済の諜報戦は、唐の海軍では彼らが担っていた。
 
 同族の多い百済でも、当時は食料不足で追い詰められていた。
 百済が、当時優勢な新羅に手を出したのも、食料確保のためなのである。
 食料増産では、なぜか新羅が独り勝ちしていた。
 女王が命じ、鋤を阿羅風の鍬に変え、武器用の最上級の鉄を農具利用してからのことだ。

 国内に糧秣の貯えも少ないので、百済は他国へ大挙侵略して収穫させていた、わけだ。
 その百済に食われ役していたのが、多羅とか阿羅といった、新羅辺境の倭人種族。
 これが、伽耶の一門なのである。
 新羅王族金春秋の娘も、この当時伽耶に派遣されていて、百済軍に殺された。

 唐帝国はもちろん、今回敗北して食われたらしい、彼ら、特に阿羅のことを調べあげていた。
 別名を任那という、小さいが半島最強の鉄の種族だということも知っていた。
 衰えて、新羅のソラボルに臣従していたことも。

 チヌン大帝以降、新羅王権にも血筋を加えていた倭人金管加羅国とも異なる。
 倭の異種。
 今回死んだ新羅女王が、そこで育ち、その文化を受け継いでいた。
 超危険な連中だ、ということも知っていた。
 しかし、その連中はすでに食われて、いなかった。

 唐軍は、新羅に対し、陸軍を動かすよう命じる。
 挟撃の形を狙って、百済の首都に直接進軍。

 百済軍主力は食料確保に出払っていておらず、あっさり唐軍単独で百済首都を奇襲陥落させたらしい。
 百済軍は、多羅に進軍する金春秋軍への防戦に追われていたのだろう。
 だが、新羅軍は首都包囲戦に遅れたとして詰問されている。

 唐軍主力はそのまま高句麗戦に向かい。
 新羅も、金ユシンが新羅軍を率いて、広大な高句麗に攻め込んだ。
 
 
 さて百済は滅亡したが、軍政が敷かれた。
 百済の生き残り王族が利用されて、傀儡政権ができ。
 それに反対する、有力者のグループも挙兵したようだ。
 すでに百済が併呑した伽耶地方は、荒れて人の気配すらない。
 百済国内では、百済人同士が相争う状態。
 新羅金春秋は、唐帝国の機嫌を損ねぬよう巧妙に立ち回る中。

 突然に五千余の倭人軍が、百済首都に直接襲いかかってきた。
 これが白村江の戦いなのである。
 筑紫倭人軍と、唐人シウシン海軍の戦争。

 彼ら筑紫軍は百済救援軍を名乗り、百済王子を総大将にしていた。
 が、襲ったその場の突撃軍には、なぜかおらず。
 なぜか百済人の挙兵者指導層は、すでにその内部で誅殺されていた。
 筑紫倭軍という、へんな殴り込み暴力団。

 彼らがしたことは。
 百済国内の反乱軍をまとめ上げて、その幹部を誅殺?
 新羅軍とは一切、いざこざを起こさず。
 百済軍は解散させ。
 それから自滅のバンザイ突撃?

 外洋装備の彼ら5千余は、唐海軍の輜重部隊8千余相手に、無謀な突撃したという。
 で、あっさり敗退、全滅したとされる。
 百済王子は、高句麗へ逃げたのである。
 唐側の防戦は、百済を預かる総督ですらもなかったようだ。
 現場の下級提督たち。

 唐側にすれば、かってなかったような未曽有の大戦勝なのである。
 なのに、さしたる褒章も本国からはなく。
 倭軍の生き残りは唐に送られたが、なぜか許されて列島へ帰ってきた人もいるらしい。 なんか、へんなのである。

 倭国側では、敗北、敗北と大騒ぎ。
 それだけでなく、筑紫倭軍の支援後詰名目で四国土佐へと出兵していた10万の日本軍までが、主人の斉明帝を失う。
 敗北、敗北と、やはり大騒ぎして、引き上げた。

 そして国号までが、これまでの倭国ではなく、日本国と、そこで変わったのである。
 主のいないままで。
 もう一つ変化があった。
 女王が死んでのち王位が空白だった新羅国王の地位に、金春秋が始めて即位したことである。

 唐側は、だんまり。
 というか、平然と、唐の使節団が大津京を訪ねてきたりしている。
 大量の贈り物もらって帰国、という記述もある。
 何度も来て、いっぱいもらって帰ている。

 ここには、いくつかの出来事が隠れているので、真相が見えないのである。
 
 反唐主義ともいえる新羅女王や皇太子を失ってのち、新羅は唐の体制に組み込まれることができた。
 しかし新羅軍の総大将は、唐が主人だと思い込んでいる未即位の金春秋ではなかった。
 金管加羅出の、大将軍となった金ユシンのほうだった。
 彼の人望や権威、超絶官位は、新羅王をもしのぐのだ。

 そして伽耶の諸族は、百済に食われたのではなく。
 長年かけて金管加羅の海軍で列島に渡ったのだという、このことが隠れている。
 親を楢山に捨てての、泣いて忘れての、民族大移動があった、のである。

 その総大将は、新羅の皇太子でも、先に派遣されていた日向の王でもなく。
 ヒドンに殺されて、墓の上に四天王寺まで立てて墓が暴かれることを防いだ主。
 新羅女王だったのであれば、つじつまがあうのだ。
 鬼が覗く。

 聖骨の新羅女王は、自分が皇太子ヒドンに殺された、ことにして。
 そのヒドンを、金ユシンに殺させた。 
 義理の息子金春秋の弟の手を引き、義理の大兄金ユシンの子を抱いて、列島に渡ったのである。
 上陸地点は、徳島か淡路か大阪。そのあたり。
 たぶん、ヤマタイ国跡地。
 北九州筑紫勢とは、話がついていたようだ。

 率いていたのは、新羅ソラボル正規軍の秦軍ではない。
 阿羅にあって、百済に食いあらされたはずの、日本軍なのである。
 阿羅育ちの女王にとっては、近衛軍のようなもの。
 若狭に上陸して大津に至った多羅や大伽耶の軍、名古屋方面にあった秦軍などと呼応し、百済、高句麗系の文化が占める大和を、あっという間に奪取。
 明日香板葺きの宮を立てた。

 だから明日香地方の貴族の庭園には、最深部に秦系の新羅風、その上に百済風の方形プールができ、最上部に日本風の庭園が乗るのである。
 持っていた軍旗はたぶん、アラ(タマ)旗。
 今の軍旗だ。

 新羅女王が死んだことになったそのあと、倭国や新羅国の上に、天の王朝が君臨していた事実。
 これが飛んでしまうと、話が見えなくなる。

 金春秋は新羅王の地位が約束されていた。
 が、即位しろと命令がこないので遠慮していたのだろうか。
 金ユシンはたぶん。天の王朝の皇太子。
 その戦勝報告を待っていたのかもしれない。
 山科に築かせた墓には、けっきょく天智帝は入らなかったのである。

 唐軍の現場指揮官連中は、この事実も、大津にまで来て、ちゃんと確かめて帰国しているのだ。
 但し、報告書には記されず、秘密にした。
 主のいない墓なんて、怪しいと思うはずなのに。
 不問に処した。

 列島の権力中枢は、二度目の即位の斉明が押さえていたが。
 権勢にある人々は、常に天の王朝の動向を見ようとしていた。
 それで逆に、真実が見えなかったのかも。
 10万の日本軍を動かす斉明帝が、もと新羅女王なんだと知っている人なんて、一握り。
 唐には秘密だったようだ。
 唐人も口をつぐんでた。
 斉明が消え、皇太子もまた消えてのちには。
 日本国の建国には、壬申の乱という同族戦争が必要だったのである。

 唐は、最後は2千もの軍を率いてやってきて、大和朝廷の中に巨大利権を確保した。
 これが藤原氏。
 彼らは唐に帰国してない。
 壬申の乱では大海(金多遂)の側について、金管加羅の海軍提督たちを退け、
 天の王朝側の利権を、すっかり自分のものにした。
 
 この宝姫が手を引いてやってきた多遂の名も、日本書紀に、ちゃんと出てくる。
 幼くして明日香板葺きの宮の資材調達に苦慮し、奮闘していた大海の皇子の姿として。 彼が天武天皇である。
 原日本国の建国は極度に古く、列島侵略の時期も、かなり古いかもしれない。
 が、初代の天皇は、この金姓の人物だと思う。
 倭人であって、朝鮮人とは無関係である。 

 天皇というこれが、当時、唐で流行の、理想王権の大王の呼称だった。
 新羅のものではない。





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最終更新日  2022年12月07日 15時18分18秒
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