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2023年05月11日
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カテゴリ:哲学研究室
ヒューム

 こっちは「懐疑論」で、もっぱら有名な人のようだ。
 だが、懐疑するのが本職じゃなくて、「人間本性論」を書いた「政治家」なんである。
 カント先生に大きな影響を与えた。

 哲学のために哲学した人ではなくて。
 政治目的で政治哲学やった、つまり修辞学畑の人だった。
  オイラ、政治哲学など認めまへん。
  哲学と連中が言うそれは、修辞学のことだからだ。
 ただ、ヒュームは「自分に徹底して考え抜いていた人」。

 知の成立の過程を、その、そもそもの源泉から問うからだ。
 哲学みたいに、アルケーを、ちゃんと認めていたのだ。

 ただし知識の起源を、「知覚によって得られる観念にある」とした。
 知覚を観念にし、知識にしようというのだ。
 ムリだと思うけど。
 先験論議はしてないと言える。

 そもそもバークレーは「知覚に観念なし」、だったが、ヒュ-ム派は「観念認めて、それが知識のモト」。
 継承してた学問がよくなかった、だけの問題かもしれん?。
 この人物は、因果、原因に拘り過ぎに見えるからだ。

 自分で考え、自分で「知の成立の過程を、そのそもそもの源泉から問う、というやり方で問うていたのだが。
 そしてこれはまさに、哲学の方法なのであるが。
 ヒュームのいうとおり、観念から印象などは生じない、のであるが。

 印象は、経験から、そののちになって別の経験として生まれる。
 出ー来る。
 ポイエシスする。
 感性が持つポイエシス権能で、経験的思惟が、新知識を生み出すのである。

 但しバークレー同様、ヒュームは、数学のみを唯一の論証的に確実な学問と認めた。
 これなど、明らかにメタバシス数学者。
 学への疑問が懐疑論の芽生え、ともなり。
 形而上学的にそれを見れば、「人間の知とか経験論の限界を示す」ことにもなってしまうのだ。

 そうなってしまっていた。
 というよりこっちも、実は世間が、勝手にヒューム無視で、そうしたのである。

 つまり、修辞学やって哲学を見出すのだが。
 継承した人間論理オルガノンは疑問だらけだし。
 (カント先生はオルガノンには疑問呈さず、長いものには巻かれたが。)
 この人は経験論でメタバシスにもなるし。
 形而上学には取っ捕まる、という具合。

 結局学問的には、数学しか確実な共有学はなくなってしまった。
 というわけだ。
 懐疑論の政治家、つまり修辞学者、一丁あがりー。

 英国史というの書いて人気をとっておいて。
 直後に人間本性論という修辞本だして、世間に認めさせた政治家。
  つまりモノホン修辞家なのだ。
 この人も哲学者ではないのである。

 カント先生は哲学者だと思ってた?。
 自分でも政治やってたつもりだから、なんだろう。

 しかしバークレーに独断論のダメな点を学び、ヒュームに懐疑論のムダなことを学んだといいたいのは、形而上学者の誤謬論議。
 カント先生は、まるでちがうと思う。

 逆だと思う。
 独断論の優れた点や、懐疑論の有効な点だけを、学び取ったのである。
 継承可能な形而上学理論などは、無視。

 「懐疑論では判断停止に陥って不可知論と結びつく」という現代の学者の意見などは、モロに、哲学殺しの目的あるんだと思いまへんか?
 全部まるで逆なんだと、オイラ思う。
 判断停止も、不可知論議に至ることも、「超重要」なカント哲学の方法、となったのである。

 カント先生はむしろ、判断停止を、随所で大いにやってる。
 認識のモーメントを変え、不可知論に取り組み、懐疑論にすら身を任せてる。
 共有の(うふぉ)、先験性を見出したから、こういえるのだ。

 それを騙るために、知覚のパースペクチズムをすらも、駆使したのである。
 この言葉も、半世紀前にオイラの先生がシツコく言ってた言葉。
 ここでは深入りしない。
 とにかく、哲学には時間がかかる。

 根拠のない独断ではないかと、まず疑ってみるのが懐疑主義。
 哲学は必ず、何もかも疑ってぶっこわす。
 だから懐疑する哲学では、超越などは認めようがないのだ。
 経験的にある、そのことしか認めないのだから。
 それ超えたら、もう、なんにもない虚無やろが。

 しかし経験論議だけでは、共有世界に一切、踏み込めなくなっちまうじゃんか。
 だから対象の側がどうのこうの、ではなく、「自分の側から」判断停止するのだ。
 判断停止して、対象として選んだものから、そこから逆に考える。
 これが知覚のパースペクチズムの意味だ。

 オイラの先生は、たぶんコペルニクス的転回を、この意味で理解していた。
  遠近法だの、視点を変えるだの、視界の奥行きを広げるだの、といった意味じゃない。 ましてや、一意の視覚を持つといった意味じゃない。

 みるものとみられるものは「つながってる」、という意味だ。
 経験的対象があるのなら、必ず時空がある、という意味だ。

 懐疑論はとくに、経験を伴わない純粋理性が、(うふぉ)なのに、アープリオリに「ある」。
 懐疑論やることで、(うふぉ)が、その(ある)理由を見せてくれるのだ。
 その不可解さを探して判断停止し、カント先生は時間・空間を見つけたのだ。

 これまで形而上学的にはまるで無知だった、時間・空間。
 その有様について時間・空間側から論議する。
 これは現象論議じゃないのである。
 デカルトの有限な形而上学はあったし、コギタンスは時間臭く、エクステンサは空間臭いが。

 悪霊が暗躍する哲学の世界だから、この、「あんよひもに気が付く」ことができたのだ。
 現実が必ず持つ、あんよひも。
 形而上学の場合にはオルガノンの、あんよひも。
 形而上学的に拘わってると、気が付かないで終わってしまうこと多いのだが。

 またヒュームの経験論議は、決して「人間のオルガノン」を見せているわけではないが、見せてもいるのだ。
 この点も忘れてはいけない。

 矛盾したことを言ってるんじゃない。
 人間の論理が、おっつかないだけだ。

  彼が、「知覚即事物だ」、とするから、だ。
 見えてない人のオルガノンがなければ、経験論議になりえない問題がある。
 (うふぉ)のそれを論議にしている。

 これらが、知覚表象の束として「経験で得られたものから逆に考える」きっかけを与えたものだろう。
 カント先生には、不可知論をも超えて懐疑論が訴えている人間のオルガノンが。
 その片鱗が、見えたのだ。
 それが、時間・空間として、同時に、あんよひもとして見えたのだ。

 ヒュームにはたぶん、時間・空間など見えてなかっただろうと思う。
 その懐疑(主義)ゆえに、そして哲学が(ない)ので。

 彼は、目的論的にしか思惟できないはずだ、からだ。
 知覚のパースペクチズムを、得られてない。
 デミウルゴス怪物相手の魔女狩りはいやなので、心理学や人間科学のほうに、こだわったからでもある。

 カント先生は、逆に。
 むしろ科学が対象にするもののほうから思惟主体を振り返って考えてみよう、としていた。
 もちろん形而上学的にではないので。
 いくら深く考えても、デミウルゴスなんてのには、出くわす機会すらもなかった。

 これは、現象(という心理学対象)に注目したということなんぞではなくて。
 そこで心理学をやった、ということでは決してないのである。
 形而上学も合目的修辞学も、懐疑論の前には無関係となる。
 ヒュームの経験論はもっぱら、その「合目的修辞学」なのだ。

 「科学技術の、その基礎の基礎構想」、というべきか。
 根に形而上学を含んでいる(一神教を持つ)のだが。
 それを論議しない虚無主義、というべきか。

 彼の場合にも、形而上学的に拘ると、虚無主義の片鱗が、出てきてしまっているのである。
 しかしそれらを跳ねのけるように、彼は言うのだ。
 「論理学の唯一の目的は、われわれの推論能力の諸原理と作用、および観念の本性を説明することであり、道徳と文芸批評とは、われわれの趣味と感情を考察するものであり、政治学は、結合して社会を形成し相互に依存しあう限での人間を考察するものである。」
 こういった言葉から、特に、その「実務の政治の視覚的ありかた」を、カント先生は学んでいることがわかるのである。
  kkk思想も、同時にヒュームから学んでしまったのでは?と思う。
 「東洋人は人倫的な美についての観念を持たない」というカント先生の意見も、もとはたぶんヒュームのだろう。

 倭人は一神教には縛られない。
 なので、これはそのとおりなのだが。
 人倫に美学など見出せなくなる?。

 しかし多くの神々の誓約に立ち会って、オルガノン紛い物ものは持つし。
 形而上学構想した学者も多い。
 それがなくても、美や崇高や感情は持ててるはずだと思いまへんか?。
 そういうものは、東洋の黄色いこいつら、まったくもってない、とカント先生も思ってたようだ。

 ここで言う論理学は、オルガノンではないので間違わんように。
 (うふぉ)なので。

 オルガノンがすでに、人間論理といった「政治的意味を」持たされている。
 知覚即事物であって。
 心は「知覚表象の束」なのだから。
 共有の原理をそこに見つけることは容易に思える。

 カント先生は、このヒュームの思想に突き動かされたのだと思える。
 しかしカント先生は、ヒュームとはちがって、広範九疇破壊の「哲学を」した。
 純粋悟性概念の図式という、カテゴリーとも格闘した。
 カテゴリーの意味は範疇のそれじゃないので間違わんように。

 但し論議をまとめるのに、なんと10年もかかってしまったのである。
 懐疑主義が、世間で言うような「基本的原理・認識に対して」示す、自分の信仰の立場、これが全部ウソだったためだ。
 ウソつきに哲学はできまへん。

 「その普遍妥当性、客観性ないし蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義」なんぞではなかった、ということもある。
 独断論も、無知の上に立たねば成り立たなかった。

 世間は、もとよりへりくだる敬虔主義ではなかったし。
 懐疑主義も、徹底して自分を懐疑してない。
 この哲学史で先に述べた通り、形而上学やれば、懐疑主義もデミウルゴスの居る泥沼と化してしまってただろう。
 自分の誠実さを問わねばならんなるからだ。

 そもそも、懐疑と同時に独断論を持たないと、懐疑主義は存分には働けない、はずなのだ。
 この独断論と懐疑主義は、「時間と空間みたいなセットもの」、なのだ。

 これは「修辞には形而上学が要る」ことをも、意味する。
 そして「形而上学は必ず信仰を必要とする」こと。
 これなどと同じなのだ。

 これらが、オルガノンにまつわる泥沼の、範疇的意味なのだ。
 捨て去るべきモノだ、ということ。
 そして経験論というメタバシスやれば。
 政治的意図で忍び込ませたカテゴリーは、無意味となる。

 メタバシスの消極的有効部分なのだ。
 ヒュームは形而上学上に立つのだが。
 哲学者ではなく積極メタバシス派なので、それを表には出せないのである。





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最終更新日  2023年05月11日 12時23分32秒
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