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カテゴリ:哲学研究室
この人物も、神学から哲学への転向組である。
もともと気鋭の文献学者として売り出した人物だった。 つまり修辞学者だったと言える。 哲学とは諸族学部からして違う。 ただ、その先生との関係で、形而上学との関係が微妙だった。 ヘーゲル論理学が出たことで、学問世界は一変していた。 既存の学問のほとんどは、文字通り崩壊していったのである。 足元を崩されて、その基礎から瓦解していった。 それに気が付いてない人も大勢居たが。 現代に至って、未だに気が付いてない人も多い。 文科系諸学の基礎は、<神学の形而上学であった>ことに、である。 神は死んだからいらん、と言われても、ようわからん。 文系諸学なんて大学追放、と言われても、???なんで、なんで?。 大論理学という、基礎に虚無(しかも信仰はそのまま)を置いた思想に、客観の客観主義に、世間様が、共有の共有認識が変わった。 そのことに気がついちょらんので???になる。 文献学者ニーチェにとって、これは由々しき一大事だったのに。 未だに、このニーチェの評価すら、まともにできん人多すぎ。 事は、(神学である)文献学が重視してきた図示的世界観の崩壊が起こしたことだからだ。 指図が崩壊して消えても、代用品がある?と考える人は多い。 神の恩寵が消えても、信仰は消えてない?という問題。 この時代に、既存の、宇宙論の崩壊があった。 そのことは、まちがいない。 これを文献学用語でニヒリスムスという。 もともと哲学用語ではない。 文献学(神学)の、修辞用語なのである。 ヘーゲル左派が出たことで、唯物論のアトム論議を中心とする既存の唯物論的な世界観が崩壊したんだと、そう説明する人もよく見かけるが。 これは半分ウソ。 そんな単純なものではない。 唯心論的世界観も一緒に崩壊したのだ。 ヘーゲル論理学が出てのち。 文字通り西洋世界での、形而上学の基礎崩壊が起きた。 「心理学」、「宇宙論」、「神学」、そのすべてが崩壊中だったのだ。 大学の神学部は、大きくゆらいでいた。 それらについて騙っていきたい。 ニーチェが所属したのは哲学部ではない。 神学部。 <処女作まで> ニーチェは1844年生まれ。 プロイセン王国、ザクセンの田舎出という。 父は先生家業だとも牧師だともいうが、これはプロテスタントでは普通のことかも。 ルター派の、極めて裕福な家系だったようだ。 ボン大学で神学を学ぶ。 生真面目で純朴な生い立ちのようだ。 ところが父親が亡くなって後の事、本人が、古典文献学の研究に強い興味を示すようになり。 「信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩」したという。 生真面目でいい子だった我が子が、大学で豹変。 学生運動団体にも参加はしたというが、殺伐とした雰囲気に馴染めず。 ボン大学で出会ったのは、アルブレヒト・ベンヤミン・リッチュル先生という。 ルター派の神学者。 似たような名の人が多くて間違いそうになるが。 ニーチェは彼のものとで、一流の文献学者(神学者)に仕立てられた。 組織が絡んでいそうだが、そっちは知らん。 ニーチェの資質を見抜き、ただ彼に受賞させるだけの目的の懸賞論文の公募を、大学当局にさせたりするもんだから。 生真面目な彼も、ライプツィヒ大学へ転属した先生を追いかけていく。 弟子も当然移籍。 この先生については後で述べたい。 ライプチッヒでは、ショーペンンハウエル知って心酔、ワーグナーに出会って男恋慕。 多感で一図な男なんである。 1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊したが。 落馬事故で怪我したため、除隊となった。 博士号も教員資格もないのに。 リッチュル先生の推挙だけで、なんとバーゼル大学の古典文献学の教授に抜擢。 このときプロイセン国籍を放棄したため、以後は無国籍者となったらしい。 古代ギリシアの古典文献学が、ニーチェの専門である。 就任講演が「ホメロスと古典文献学」。 そして処女作は「音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生」1872年。 新鋭気鋭の文献学者だという触れ込みだったのに。 当時の学者からの評価は、ゼロに近い状況だったらしい。 好意的評価は、献辞を捧げられたワーグナーと、ボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみだったそうだ。 誰も理解できんかったんである。 というより、表題見て読まなんだ。 世間の悪評が響いて。 講義からは、古典文献学専攻の学生がすべて、姿を消した。 講者わずかに2名、しかも神学でない他学部の人。 音楽と文献批判を、同じ主観で扱うような彼の手法は、この時代には斬新すぎたのであると言われる。 「音楽芸術によって世界を救済せんとする」ワグナーへの心酔も、現実に出会って冷めていくようだ。 古代ギリシアを賛美するのは、この時代の底流があったもようだが。 ギリシア悲劇を復興する芸術革命によって、近代文明社会の頽落を超克したいというような時代思潮も、やがて足元をさらわれて。 音楽は、バイロイトの貴族の単なるお祭りになっていく。 ワーグナーには興味ある人多いだろうが。 オイラもマーラーにはうるさいんだが、音楽精神も悲劇の誕生もこのさい、無視。 まず、ニーチェの専門であるフィロロギー、つまり文献学について知っておきたい。 直訳すると別物になるが、文献学と言うこの訳は、適切なものだと思う。 <文献学> この学は、過去の文章、言語を、つまり<文献を扱う>からだ。 研究対象の範囲や目的や総体は不明確だが、研究対象そのものは極めて明確。 「言語作品および文化的に重要な文章を理解するために不可欠な歴史的、文化的な変遷や文学的な側面としての言語を対象とする学問を意味する。すなわち文献学とは特定の言語の重要な歴史、著作物の理解、文法的および修辞的、歴史的研究を指す。」 らしい、これはウイキ。 もっぱら修辞のための学問なのである、が。 歴史的、に過去の暦もの以上の意味はない。 当時は<歴史的言語学のことではない>ので、要注意である。 今は、そうなってるらしいんだが、これは別門だと思う。 文献学は、理解と解釈、歴史研究といった、全体を見通す総合力を必要とするもの。 一意で明晰判明でなければ、泥沼になるのである。 歴史なんていう感性的なモノを導入すれば、容易に泥沼化してしまう。 現代はそうなっちまって、わけわかんなくなってる。 が、もともと泥沼相手の学問ではないのだ。 形而上学を基礎とし、神学部に属していた明確なもの。 しかしフィレイン・ト・ロギカという言葉は、おまへん。 哲学部とは、まったく違う、別門の対象明確な学問だったし。 哲学なんぞより、ずっと新しい学問。 比較言語学、原典考証、古代文章の解読なども、ネット解説にあがっていたが、それは手間ばかりかかるし、ワキ役。 おいらの哲学史でも、時間食うこれは一切無視してきた。 脇役は文献の泥沼への基礎工事の下支え目的、なのである。 泥沼工事が先。 文献学の軸がちゃんと見えてないと論理の論議が進まん。 修辞ができんので、補助的に、そうするだけだ。 文献学は論理が主人の学問なんかじゃない。 ところが、そうなっちまった。 文献が、ということは、<人が主人だ>と、これもハッキリしてたこと。 神の真理を描いた、<人の文献についての修辞学>。 それが文献学。 pc検索のトップに出てきた「文書に残って伝承されていることばの総体を理解しようとする学問分野および方法論」、ではないので、これは注意されたい。 これはヘーゲル思想以降の文献学がはまり込んだ、誤った世界像認識がモトになってる。 ことばの総体を理解、というのは大論理学やってるつもりだろうが。 文献学の基礎は「形而上学」であって「論理学」じゃない。 しかもこれは神学部に属してたので哲学じゃない神学。 共有信仰が中心となった、ルター神学にふさわしい学問だった。 過去の明確な宇宙論・神学を持つ、文献の論議であって。 世界像の論議じゃない。 学問対象の全体が空虚なヘーゲル門ではもちろんないし。 感性論が消えてアトムの不明瞭になった唯物論議なんか、無関係なんである。 ニーチェが学んだ時代の文献学は、ヘーゲルの影響で激動の過渡期だった。 現代に至っては、崩れてしまった。 ニーチェの時代には未だ、もっと神学的要素がはっきり出てて。 信仰も、形而上学も、人間の要素も、はっきり表に出てた。 学問対象は明確だったのである。 文献は、それのナニであるか、つまりトピックが掴めてないと、読めず、理解できない。 トピックとは、これは修辞学の、トポス。 つまり<形而上学的修辞を必要とした>、ということである。 哲学を必要としたんじゃない。 文献学は、その当初から哲学ではなく、目的明確な、神学のほうだった。 文献学は、単に<修辞学の一分野>、でまったく問題なかったと思うんだが? 文献学の基礎は、哲学(無知の知)ではなかった。 対象明確な形而上学だった。 その事実を、まず明瞭に認識しておいて。 アレクサンドリアに、大図書館と研究機関ムーセイオンが設立され、グランマティケー(書かれたものに関する学)の専門家である文献学者が、はじめて出た。 これが文献学のハシリ。 ギリシャ文化支配の目的での、文献学が、このとき創設された。 最初は、目的も明確な、地道かつ有効な学問だったのである。 ホメロスの解釈や理解。 ゼノドトス、アリストファネス、アリスタルコスが著名。 フィロロギアの名称が出来たのは、もっと、あとの時代である。 ポリツィアーノ、スカリジェル、ラハマン、なども有名らしい。 ルネッサンス時代に、「源泉への回帰」が言われ始めてのことだという。 この当時のロギカには、源泉とのつながりが明確にあったのだ。 その後、総合への志向が強調されて。 ヘーゲル的に、客観の客観志向になっていくわけだが。 「文献学」が適用可能なのは、一神教徒の印欧語のみなのである。 この事実も、現代では無視されている。 フィロロギカとは、正しくは、一神教へのフィリアと、ロギカ。 つまり<形而上学的なものに執着愛を持つ文献との、源泉的つながりを持つロギカだ>ということ。 フィリア(執着愛)志向のロギカ。 このロギカは、論理学として見るなら人間学的論理学なのだ。 オルガノンだ、ということ。 神の論理研究ではおまへん。 人間の論理研究。 このロギカは。 記号論理的論理や、数学的論理、ヘーゲル論理学の論理では、ないのである。 カテゴリーに従い、命題化もされたあとの、トポス修辞学というべきか。 多神教や膠着語へは、文献学というこの修辞学は、本来、馴染まない。 一意でないからだ。 そのことをも認識いただきたいが、ここが現代特有の、ほころびの部分の一つなのだ。 形而上学と哲学の区分を曖昧にして誤魔化した、その結末だ、とも言える。 フィロソフォスとソフィストの区分をおざなりにした結果、こうなった。 フィロロギカが神学に属する、ということすら、見えんなった。 一神教修辞学は、確かに論理には馴染む、もの。 だが、修辞学が相手する修辞は、<形而上学的解釈における修辞>。 論理は必ず人間の論理(オルガノン)なのだ。 哲学ではない、そのことも極めて明瞭なのである。 享有の無知なんか、一切気にせんのであるからだ。 哲学とはまったく違う学問として、形而上学をその基礎に置く、文献の学問>が文献学なのだ。 ヘーゲルが出たことで。 これらの基礎が剥きだしとなり。 形而上学をその基礎に置く諸学の世界観や宇宙像の図版化命題に、激動が起きてしまっていた。 ニーチェは、その激動の時代に、文献学を背負う。 (注目されない)、しかし教授には最も期待される第一人者となっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年07月12日 06時47分08秒
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