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カテゴリ:哲学研究室
さて、哲学史なので、文献学神学はニーチェみたいにほっぽっといて、哲学に邁進。
ニーチェの最初の哲学の先生は、たぶん、スッタである。 スッタニパータのスッタ(お経)。 南伝仏教のパーリ語経典の、小部に収録されたお経が先生。 スリランカの箴言集とでもいうべき形態のものらしいが、だから東洋哲学か、というと。 ニーチェに、東洋思想の傾向はないのである。 むしろ徹底した西洋思想。 ソクラテス以降の文献知識は、きっちり文献学として押さえていたはずだし。 哲学は本来その基礎が、形而上学を取っ払った感性重視。 なのでニーチェには違和感もなかったはずだが。 ニーチェ先生の学問は、<共有ばかりの世界の文献学>なので、ろくに哲学にはならんのである。 所属の学部からして違っていた。 しかし、お経との対話で哲学に目覚める。 無知の知に、自分の身体の不調と享有思索で目覚めていった、といえる。 「犀の角のようにただ独り歩め」という、お経のフレーズなどが、よく知られている。 スッタニパータというものは、短文のつらなり。 「蛇」から始まり、「富裕層ダニヤ」、と続き。 「犀のように」、・・・と延々と続く、とてもとても長いものだ それのしょっぱなの蛇だけ、このさいニーチェもほっぽっといて、原典のほうをチョロ見紹介したい。 全訳が公表されて出てる。 それ無断利用させてもらって、オイラが勝手に、大昔取った杵柄で仕立てた剽窃もん。 詩と言うのは、感情が歌う。 そういう形式である。 一緒に歌ってると無知の知は殺される。 そういうもんである。 自分で吟味し、わかろうとしなければ無意味な文字の羅列。 4行詩であれば、それを崩すと別物になるので、苦慮するところ。 人は、湧く憤怒を馴染ませる。 広がる蛇毒への薬草のように。 そんな比丘が捨てる彼岸と此岸に。 蛇が、枯れ朽ちた皮を古いものとする。 人は貪欲に穢れ破滅し、ことごとく。 ハスの花は池に生えて、潜る。 そんな比丘が捨てる、彼岸と此岸は。 蛇が枯れ朽ちた皮となり、過去とする。 人は穢れて渇望の力にことごとく破滅し。 河は急流となって干上がる。 そんな比丘が捨てる彼岸と此岸は。 蛇が、枯れ朽ちた古い皮を晒している。 人はまったく汚れた慢心に執着し 洪水に、たいそう弱い葦堤となった そんな比丘が捨てるのは、彼岸と此岸に。 蛇が、古い枯れ朽ちた皮を晒して。 人は、解からない過去の存在。 探す花の見えない、無花果。 そんな比丘は捨てる、彼岸と此岸。 蛇が晒す、古い枯れ朽ちた皮。 ・ ・ ・ お経は哲学書ではないし、詩も哲学の敵。 詩にすると、不思議と無知の知は消え失せる。 情緒が居座るからだ。 お経は、こういった延々と続くもの。 長い長い蛇のような詩文なのである。 形式4行詩とは限らんので(わからんので)、詞というべきか。 ニーチェはこれを、自分の哲学の先生にした。 つまり哲学の敵である詩を、正面から採り上げ。 ミュトスの技を学んで、基礎崩壊した文献の修辞を試みた。 それは既存の文献学とは、ならんかった。 ソクラテスやプラトンの著作には似てきたが、まともに修辞出来るモンでもなかった。 基礎の基礎の、その把握から必要だったからだ。 結果的に、自分の無知さかげんを覗き込むこととなったと、推測。 もちろんニーチェには謙虚さも謙りもないので、その享有部分はわからんのである。 お経の持つ文化の歩みと重みは、西洋史の奴隷文化(カルチャー)の薄っぺらさとは比べ物にならないから、推察されるだけ。 師を離れ、自分で考えていった、と憶測できる。 「神、真理、理性、価値、権力、自我などの、既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。」と一般にはいわれる。 が。 思惟のモーメントが逆なだけに、哲学部分は一切見えんのである。 たぶん、見出していったのは「自分の無知」だけ、だろう。 しかもニーチェはへりくだることを知らんので、他人に哲学は見えん。 ワーグナーと音楽への熱も冷めていったし、デカダンスには身を任せていった。 虚無に怯え、我が身のルサンチマン風に憤り、超人を志向し、永劫回帰に信仰を確認する。 そしてやがて力への意志を、その狂気が騙るようになる。 ここに誰かが上げてくれてた用語のいくつかについては、後で個別に検討したい。 勘定高いものだが、学ぶべきものはない。 スッタに学んで、バーラタ(インドのこと)、ここではランカ(島))の、異様に豊穣な過去世界を知ったはずだが、 そこの「宗教」といったややこしい世界には、トップ志向のニーチェには馴染めんかったのだ。 仏教が宗教ではないことなどは、もちろん、ちゃんと掴んでいたが。 しかし(こころの)衛生学だ、として扱っている。 そんな程度の、浅い理解のものなのだ。 まるで馴染めてない。 <輪廻からの解脱>部分が、特にダメだったようなのだ。 仏教の、基本理念の一つだ。 輪廻転生思想はヒンヅー社会のもの。 これを捨てないと、仏門へは普通は、初歩入門すら許されない。 我が国の仏教は怪しげな大乗ものなので、輪廻を説くような宗派もあるみたいだが。 ニーチェは仏教には、小乗にも大乗にも出会えなかった。 だが、自分で基礎から考えるやりかたで相手し。 むしろこの<輪廻思想のほうを>(大金持ち階層の)独自思想のものとしたのだ。 仏教が捨て去るものを、享有して確認し。 むしろ後生大事にして、さらに共有化した。 日本でも、輪廻転生思想を仏教のものだと誤解してる人が、特に一神教傾向のある人に多い。 これにはなんか理由があるのだろう。 ニーチェは、エーヴィッヒ・ヴィーダーケーレ(永劫回帰)と言う形で、そのヒンズー思想を修辞し、自ら克服したとする。 永劫回帰。 これも、あとで騙ってみたいが。 彼が馴染んだのは、そもそも東洋思想ではない。 超高度なウパニシャッド哲学でも、法華経の華厳世界でも、初心者用の善哉童子の旅でもないのである。 仏教が、その入門者に捨てさせる、ダメ思想、輪廻転生のほうに馴染んだ。 そしてやがて。 教祖、ザラ(砂漠の)・ウシュトラ(ラクダ)の説いた、一神教にも見える、二元論風の多神教をもムリヤリ一神教にして、彼は教祖様を実践しようとする。 ニーチェは、この多神教にも、きれいに目覚めては、いないようだが。 ただ、時間・空間の秘密に、これも彼の方から独自に、にじり寄ってる形跡がある。 拝火教と一般に言う、この宗教は多神教だ。 しかし善悪二神が克服される一神教とも取れるような特徴をも持つ。 だから西洋人には、とっかかりとなるのだろう。 すでに滅びて、過去のものとなっていたが。 その滅びた遠因が、一神教嫌いなオイラには、推測できる。 分派が立ち、一神教への運動やって教団内部をかき乱した。 権力奪取を企てた。 それらの内部かく乱が功を奏し、時間・空間の秘密という、その教義の核心を、すっかり信者たちの心から見失わせてしまった。 その結果、キリスト教の前身とも言える、マニ教やミトラ教、原始キリスト教といった新興の一神教に、その信者をすっかり奪われてしまう。 自滅して滅んでしまったのだ。 分派活動が、他宗による破壊工作活動だった可能性も大きい。 アルゾ シュプラッヘ(かくのごとく語る)ツァラトストラで、ニーチェは、そのゾロアスター教祖を復活させようとする。 自らメシアとなって、反キリスト的教義にも見える教祖の、実践研修をやるのだ。 ニーチェによれば「解釈は多様で、世界は無数の意味を持つ」んだが。 (ルター派には)共有の唯一神のみが居る。 しかしその神は、それ自体に唯一のもの、なのか? 時空のかたちで、身体の有限という姿で、分裂してはいないか?(これはデカルト) つまり<客観の客観>なんてものが、この世にほんとうにありうるのか? その問いに答える形でディアレクチークを進めるのだ。 形而上学的問を利用していく。 そこではスピノザのように、自然をモノ化したりもしないんである。 形而上学は、一意に問を立てられる。 が、<人の感性による疑問や問いがあるゆえ>一意に可能なんだが。 それは、単に人が、<有限な感性を持つ有限なものである>ゆえんからなのか。 それとも、<輪廻転生があるからではないのか>?と。 そういう<堅固な意志を、認識をもっているからではないのか>? ニーチェはそういう風に考えていってるように思う。 ルター派の神学教義が、ニーチェのこころに沁みついて、指図しているのである。 感性すら享有的にではなく、共有へと勘定されるのである。 しかし勘定された共有の救いの手は、彼の享有する、どうしようもない片頭痛を阻止できないのだ。 十字架に登らされたような、彼の有限な感性が自覚する頭痛の苦しみを、救ってはくれない。 共有への神がいるのだが。 その神への信仰のために。 ニーチェは、普通の羊のプロテスタントが目ざすような彼岸世界すらも、否定する。 あの世なんぞは、ウソの方便、ウソ八百だと知ってた。 しかしそのウソ神の力で、「永劫回帰」を呼び込むのである。 そう、(うふぉ)という先験理念を原理立てたカント先生みたいに。 自分の信仰は、決して捨てないのだ。 その神は唯一の神だが、衆が信仰する、うそつき神ではない。 むしろ「選ばれし者」のみの、「孤独で孤高な、破滅させる精神の神」なのだ。 <選ばれし自分という、唯一の共有>には、あくまで拘るのである。 つまり人は<脱存し、新たな認識へと至る>、ということ。 (共有の)人は、無知な自分を超えて超人を目指す、と。 共有の共有のために、メタ・にメタ・を重ねて、輪廻を回帰させ破滅を意志する。 彼が戦っている相手は、ウーシアの、多様な有ではないからである。 否定すべき相手は、「日常に潜む虚無のデカダンスやルサンチマンのほう」なのである。 神を否定して、虚無なデカダンスに溺れたんではない。 それとは、まるで逆なんである。 積極的に神を立てる。 享有の享有なんぞは虚無なので、享有する神への信仰は一切騙らないのである。 選ばれし者だけの共有の神。 虚無の上に、無知な自分がいるのがわかっても、それでは虚無とは戦えない。 彼の属する西洋世界が、すっぽり飲み込まれてしまった大いなる虚無が、ニーチェには見えていたのだ。 形而上学的世界観が騙し続けて肥大させてきた、とんでもない規模の虚無なのだ。 そいつは無知の自分を飲み込むことは、できないが。 虎視眈々と、足元に口を開けて待ち構えている。 そのことには気が付いていた。 但し、<キリスト教への信仰>や<ヘーゲル論理への信頼>が、その虚無の元凶だなどとは、一切思ってないのである?。 いや、そこいらもすでに怪しいのである。 彼の立場は、メタにメタを重ねるだれかさんの思想にも似ている。 その思想は、まさに「積極的キリスト教の思想の方向へ」、動いてていくもののように思えてしまう。 つまり、明確にナチズムへと続いている一本道だ。 その道筋が見える。 これを否定したい宗教家は多いようだが。 そしてナチズムを、「究極のキリスト教だ」とはみなしたがらないようだが。 キリスト教がもともと示唆するその先は、「積極的なキリスト教」である。 ブロンドの野獣が担うべき。 犠牲や悲鳴を飲み込む、カギ十字。 黒いスワスチカの力なのである。 そうなるともう、享有への無知の知なんぞは、なりを潜めるしかない。 ヘーゲル的な、<法への客観に支えられた絶対の信仰>が、ここにあるからだ。 それは<知識への「権力意志」>となる。 マルクスと同様に、ここにニーチェ哲学も、ものの見事に消え去るのだ。 狂気はその意志への、感性側からの抵抗だと思う。 哲学が消える、そのかわり神話の世界が表に出てくる。 ニーチェとは無関係に見えるが、シジフォスの神話にあるような、異様なフォース支配の世界神話がでてくる。 ニーチェの場合は、かくのごとき悲惨な人生。 ならば今一度、と。 未来永劫に繰り返す、氷と炎のせめぎ合いへの序章。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年07月22日 05時45分34秒
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