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2023年08月10日
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カテゴリ:哲学研究室
<ニヒリスムス>
 
 これも、あくまで<イズム>なのである。
 虚無「主義」という、半ば自己批判的な主義主張だっつうこと。
 自分を否定にかかる虚無を、それ指向して批判する?

  共有主義っていうのはホンマ、大変だあ・・・。
 主義者はデカダンスでわざと自分がズレてこき下ろしたが、ニヒリスムスでは主義者で虚無を相手に、共有?

 現代西洋社会一般の共有自覚としての、合理的で特殊な心構えの事。
 それがニヒリスムス(虚無主義)だ、とニーチェはいっちょるわけだ。

 つまり今日の、科学技術的客観主義のことだ。
 別名、感性の根無し草を根拠にする主義、(コレはオイラの意見)。

  ニヒリスムスは「絶対的な価値がなくなること」、なんぞじゃない。
 なので、まちごうたら、あかんえ。

 実務価値が大いにあるものに対して「のみ」、言うちょるのがニーチェ。
 享有なもんは相手にせん。
 感性と言う基礎がないだけの、主義主張(共有の事)やけど。
 享有相手にせんので、哲学は表に出てこない。

 間違うと、文字通り<享有する自分が虚無に>コケちまう。
 哲学も何もかも一緒に。
 科学も経済も、消え失せる。
 哲学もくそも、あらへんなる。

 唯物論者の一部は、メタバシス論議を入れて(感性)価値との関係を断ち切って、人間疎外理論見出したのに、自ら人間疎外やって、そうさせてしもうたんやが。

 感性抜きで、すべて客観論理に捌いてもろううて、自分で考えないというのは。
 アホ志向の主義主張の事であって。
 まあこれが、AIが文章書いてくれる、ってえやつで。
 このデカダンスの行きつく先をこそ、ニヒリスムスと言うべきなのだ。
 現代の事だ。

 科学が勝手に科学して未来永劫、という、独特の<ニーチェ思想>なんやと。
 自己批判なのに、もともと自己享有持たないもんで。
 共有批判なので、そこに必ず自分も居ることになる、わけで。

 早い話ニーチェは、ヘーゲル客観主義者となりかけてる自分の事を批判して言ってたわけだが、五階どころか六階建てされた。
 ヘーゲル主義風に、この問題をまちごうたら、ホンマにヤバクなるんである。
 現実に、そうなっちょる。

 ヘーゲルは出てこずのまま。
 そのうちニヒリスムスも出てこんなる。

 勝手に、人間共有の、未来の<時空が>なんか怪しくなる。
 共有の虚無だけが居座るのだ。
 だが哲学の無い時代なので、誰も、それには気がつかんなる。
 だから特に怖いのだ。

 神は死んだという言葉も、ニーチェが初めて使った言葉なんぞんではない。
 昔からあった説に、オイラも賛同。

 先のネットに大きく出てた「絶対的な価値がなくなることをニヒリズムと呼んだ」説には、オイラ絶対断固反対。
 あほちゃうか、と思う。

 絶対的な価値なんて、もともとから、いっさいないんや。
 人は有限やし、死ぬんやから。
 人は死んでも知性は死なない思うてる、あほが多い。
 共有神話にカルト化された連中。

 絶対の神なんて、そないなもんがあると思うてる、あほも多い。
 自分の無知を覗き込んでみてる人はホンマに少ない。

 共有も絶対やない。
 種族なんつうのは、あっさり滅びるもんや。
 学術も絶対やない。
 感性傾向が変われば、あっさり成り立たんなるだけや。

 一神教徒で神が死んだら、それだとモロに自分がニヒリスムスに落ち込むだけ、やんけ。
 その昔、イデア論者がアリストテレス主義やって神秘主義に落ち込んでしまい、愚能死す神引きずり出したのと。
 ほとんど同じ問題になる。
 一神教徒特有の、超危険な免疫病気になるのだ。

 熱心に、クソまじめにやればやるほどヤバくなる問題、というやつ。
 そうではなくて。

 ニヒリズムは、イズムであり主義主張なので。
 それゆえデカダンスでもあって。
 さらにもともとから、絶対の共有価値なんぞは、この世のどこにも存在しないので。
 人はしぜんと、自分の無知さ加減を覗き込めるだけ。

 それも、あたりまえじゃろが。
 共有は、みんなの心構えに飾りだしたい門であって、そもそも、価値感情じゃない。
 江戸時代に誰かが考えたカチカチ山勘定なんかじゃない。

 しかしニーチェの属する階層にとって、共有は、すべてがカチカチ山勘定だったのだ。

 絶対の客観なんていう、そないなもん、<もともと>何処にも、おまへんのに。
 個々の人は生きて死ぬだけの、限りある存在。
 おいらたちは<有限な感性的>生き物なんや、から。
 ありえへんのに。

 つまり人は、「時間空間的にある」、だけのモノ。
 それ出たら、何もない「虚無」。

  死んだら感性もないんやから、当然、虚無形式すらも、ない。
 ここらへんはエピクロス先生が教えてくれとるとおり、唯物論で片付く問題。

 さて、その不可解な力関係共有と、個人の享有感性をつなぐものが勘定(感情)なんだが。
 その「感情」と「評価勘定」とは、もともと同じものだ。

 身体が関わる「享有」感情が、モトの姿で。
 「共有」の評価可能な勘定は、むしろその一部なのだ。

 のちに「ルサンチマン」で述べるが。
 ニーチェには、この享有感情がない。
 あるいは享有勘定も(表向き)、持た<ない>のである。

 キリスト教徒なので享有感情はないし。
 ルター派なので、享有勘定も、なくする。
 
 享有勘定が高いのは銭ゲバである。
 教会組織に奴属するキリスト教徒にとって、神の前に享有感情は持てない。
 だから聖アウグスチヌスが「オイラ悪人だー」、と懺悔するしかない。

 ルサンチマンには、この享有が関わる。 
 衰弱しているつうか、共有認識が頽落してるというか、っつう風に見るようだ。
 知性が痛風起こしてる的に見る。
 メタバシスにして、カテゴリー取り去って荒療治で、人工環境にしたいと考えてしまうようだ。

 これは何もニーチェだけの話じゃなく、西洋社会の指導層一般に、もともと、その傾向が顕著にある。
 時々、サイコパスとも間違えられるが。

 サイコパスは、享有勘定ばかりの、倫理観となる感情の無い人間を言う。
 ニーチェにとっても感情なんて、あんまり気になるもんでは、なかったんである。

 彼が気にしてたんは、自分が拠る、<客観の客観ということの、足元の基礎>。
 それが盛大に崩壊中だった。

 足元の基礎を見させるのは世界観(形而上学的関心)なんやけど。
 その、なんにもなくなりること(享有)やのうて。
 その<共有主義主張>の<修辞根拠>が、崩壊の当事者。
 それが気になる。

 つまり形而上学の無効化。
 唯物論アトム主義の自滅的人間疎外。
 神学のメタバシス化。
 オルガノンの権威失墜。

 ヘーゲルの言う通り、形而上学をなくし無感性の論理学に基礎を切り替えたら、そうなるやんか。
 時空は、なくなる。
 神も、おらんなる。

 そやけど、論理学に代わる共有ものて、あるんかいな?
 そないなもん、もともと何処にもないやんけ。

 つうーこと。

 芸術は主観に訴える事が多くて頼りにならんし、道徳みたいなウソ八百もん、ハナから信用でけへんし。

 ニーチェはもう、自分の先生の道徳からも自由になっちょるのか?
 いや、単に足元崩されて、自分の享有世界がコケたのである。

 享有がコケると、共有も成り立たんなる(もちろん、ニーチェは自己享有認めんので厄介)。
 そやから道徳嫌いになったんかも。

 道徳と言うのは記述された教え、教唆の事。
 自分の感性が自分に語り課す倫理、じゃない。

 唯物論かて、感性とのつながりなくしてもうてるやないんかいな。
 神学も、オッカムがメタバシスなもんにしてもうた。

 そんじゃ(共有)感性も抜きの、自己享有のみの、サイコパスの天下やないけ?
 そやけど、ホンマのとこ、それが「真実の力やないけ」?
 ということ。

 サイコパス連中が、社会の上層部に大勢居座ってしまってるのは、まぎれもない世の真実です。

 そういう、共有世界の虚無的主義主張が、自分の足元に明確に見えてる。
 そんな、「根拠の皆目なくなる客観主義」が、ニヒリスムス。
 自己批判でありながら、それが世の真実、力の社会の実相。

 ニヒリスムスは虚無「主義」なので、しかも共有の力なので。
 当然哲学のアルケーを指し示す感性の諸々を飲み込み、食い殺すのである。
 哲学を、享有の無知の知の認識を、対話の共有を食い殺す。

 ニヒリスムスは、基本的にはもとから「文献学用語」だった。
 そっちは「既存の世界観崩壊を意味する」という定義が、ちゃんと、もとからあった。 形而上学的な価値観、世界観、基礎一般の「崩壊」を意味してた。
 単に、<文献学上>意味しただけだ。

 現実や信仰には、関係おまへん?。
 ニーチェはルター派神学者なので共有に深く注目していて、その疑惑がモロに浮かび上がって見えて来て。
 思惟即存在で、それが現実になってきたのだ。

 既存の古代ギリシからの原子論の崩壊なども、これの一部修辞学で起きたこと。
 虚無へと、共有の主義主張でデカダンスして、時間・空間という<人の足場を取り去ること>を言ってた。

 落ち込んだのはあくまで「社会」の方であり、「共有世界」なのだが。
 それに属する者を共に飲み込む。
 ニーチェは共有社会の第一人者として、それと真っ向から闘争した。

 ・・・そして敗北。
 隠し持ってた享有部分まで、ついに虚無に飲まれた。

 虚無に飲み込まれるより、狂気であることのほうを選んだ、というべきかも。
 狂気に堕ちて、これ(足元の無い虚無に飲み込まれること)を回避した、とも言える。

 すでに大学やめてるニーチェには、文献学基礎の崩壊なんて、どうでもいいことになってたはずなんやが。
 これをニーチェが、自己享有の、哲学の用語にも利用して。
 そして悲劇が誕生したわけだ。

 探したが、神が何処にもみつからんかったので。
 神は死んだ、といって、自分も神学からバイバイしたかというと。
 ルター派の共有信仰なんてのは、もとからぜんぜん怪しいもんだが。
 個人信仰は、その共有論議でも、まったく捨ててませんよってに。

 ならば、もう一度と。
 享有病の闘病人生すらをも、共有主義の信仰で自己肯定していってる、わけだ。

 むしろ狂気によって、信仰は、より先鋭化したと言える。
 宗教も積極的、ポシティヴになって。
 なんとメシアと一体化しちまったのである。


 ところで。
 形而上学を気にする人や、共有社会の絶対的価値を評価したいニーチェのような人なら、大問題だろうが。
 一神教の信仰と言う、もともとの虚無に囚われた人なんぞは、一切なんの問題もなし。
 彼らカルト教徒には、現実が、いっさら見えてない。
 だから世間の基礎見ない一神教徒は無関係なのだ。
 多神教徒にも無関係。

 但し、科学技術者には、そういうわけにはいかなんだ事情がある。
 これの共有基礎に一神教があるからだ。
 共有の現実は、彼らに基礎の時空を提供している、はずだからだ。

 ニーチェは、形而上学を取り去ることで科学技術が根なしになっててヤバイ、そのことには早くから気が付いてて。
 世間の修辞する政治経済世界にも、この特有の暗雲が忍び寄ってることに気が付いて警告してた。

 学術や芸術すらも、すでに虚無主義の真っただ中にあった。
 そのことも深く知っていたのだ。

 何度も言うけど、ニヒリスムス=虚無主義。
 これは別名、「西洋風の合理主義」のこと。
 ニーチェがはっきりそう言ってるわけではないかもしれんが、態度で見せてる。

 合理主義は、キリスト教をメタバシスにし、先鋭化させ、ついには論理化させた。
 つまりプロテスタントを生み出した。
 共有の客観主義思潮のことだが、世の真相を共有化。

 世の中が論理学絶対主義者となって、科学技術絶対主義となっても、彼はその主義者にはならんかった。
 むしろ感性重視の既存の神をも殺す力を認めた。
 虚無主義に逆らう、反科学的態度をすら見せた。

 それが態度で見せてる、証拠。
 足元がないことは見え透いてたから、怖いそこに寄りかかってないわけである。

 造詣は深かったかもだが、芸術へも、科学技術への関心も関与も、ニーチェは薄かった。
 実はどちらも、最初から見限ってた。
 世辞と名声の中で世渡りして生きるワーグナーなどとは、あっさり初期に決別。

 科学を見限った理由の一つが。
 これらはにもともと基礎が欠落してて、救いようがない状態だったからだ。

 形而上学が唯一、その怪しい基礎を提供できていたはずだが。
 ニーチェの先生リッチェルは、怪しげなそれを取っ払った。

 基礎を丹念に辿り、自分でうろついてて足元が消えて、コケた。

 合理主義の科学技術は、ことごとくその基礎に虚無<志向>をもっちょるもんで。
 手の施しようがないと、みなしたわけだ。

 連中は「生きがいもなく、生きる意味もなく、野獣のように毎日があるだけだ」、とニーチェ先生は言っている。
 彼が軽蔑する、科学のエリートや一般大衆のことである。
 そして悪く言う共有者、自分の事でもあるのだ。

 ニヒリスムスは、この悪く言う共有、の意味合いが強い。

 科学技術の恩恵を被ろうとする羊たちも見捨てて。
 選ばれし自分だけ、ニーチェは「超人」になって乗り切ろうとする。

 突然に享有志向になる?
 いや、彼に享有はない、のである。
 哲学は見出しに利用したが、生真面目な共有勘定が即座にブチ殺した。

 マルクスなどと似ているが、やり方が反対なのである。
 つまりニーチェはいつまでも「孤高な共有者」、ルター派なのだ。

 マルクスは、軽蔑する衆愚を扇動して犠牲を募って、ブタ仲間だけで、浮かぶ新天地の資本島で衆愚たちの主人になろうとしたが。
 ニーチェは、選ばれし自分だけ単独で、共有社会無視の「超人」になろうとする。
 対象を変えるんじゃなしに、自分を変えようとした。

 これは哲学的態度なのだが。
 神のみならず、哲学もすでにいなかった。
 狂気しか、手立てはなかった。

 それは(ニヒリスムスの到来は)<絶対の英知>と、その(時空を超越した)<論理学>を認めるからだ。
 とも、自分では気がついとる。

 ニヒリスムスを、なんと「力への意志」として志向するからだ、とも、言っちょる。
 さらに<自分が、メシアだという狂気>に陥ってるから、でもあることにも、気がついてた。

 たぶん彼は、自分の狂気を自分で知ってた、稀有な狂人の一人だ。
 <絶対の共有論理=自分がメシアだという狂気>、にも、その本質や理由にも気が付いてた。


 ニーチェが<道徳を超嫌った>、という話は有名である。
 共有する法律を嫌ったんじゃない。
 道徳という、「弱い種族が共有する、誤った教え」を嫌った。

 彼は<非道徳人間>?
 いや、<反道徳人間>なのだ。
 倫理は持つがそれも共有化し、道徳なんぞは撲滅。

 既存道徳はぜんぶ、ぶっ壊すでー!。
 なので、これを気にせずニヒリスムを気にするっつうことの方が、実はおかしいんだが。
 ニヒリスムスの受け取り方が、あきらかにオイラたちと違うのである。
 主義主張として、<極めて積極的に捉えている>のだ。

 これは彼に言わせると、「道徳が、<羊が順守すべき、虚偽の教え>なんだから」ぶっ壊すべきであるそうな。
 彼は道徳を、本気でそう考えていた。
 ぜんぶウソ八百なんやと。

 自分たちの超大金持ち階層(羊じゃない牧師の方)が何をしてきたのかも、よく知ってた。
 愚鈍な、虚無主義にも気がつかん、アホな一般大衆の弱いもんが拠りたがるのが、道徳なんやと。
 そうも考えてた。
 道徳も一般大衆をも、軽蔑しきっていたのである。

 (神の)倫理は絶対だが、(人の)「道徳なんぞはウソ八百」と、言い放ってた。
 ニヒリスムスは、すべてをぶっ壊そうとする盲目純粋な暴力主義なので、超、気にするわけだ。
 彼はそれを<積極的に受け入れ>、そして狂ったのである。


 おいらはニーチェには反対し、真逆や、と思います。
  所属階層も違うんで、ニーチェ先輩とはまったく相容れん、まったく逆の意見。

 道徳は、人がその郷に入った共有社会においては、生きるために絶対必要となる、まかれるべき長い長ーいもんだ、が。
 倫理は、享有者が(つまり自分が)享有を(自分があることを)相手にするだけの姑息なもの。
 しかも共有関係なんて、倫理には一切ない、と考える。

 ルター派は逆なんである。
 享有関係が一切ないと考え、逆に、すべて共有にする。

 すべてをぶっ壊そうとする「純粋な暴力主義」なんか、むしろオイラ認めん。
 それを一神教徒は、享有を操る共有理念にして使っているのだが。
 特にルター派は、宗教教義にしてしまった。

 つまり倫理なんて、こっちがウソ八百もん、なんやとオイラは思う。
 ナントカ倫理委員会なんて、自分を棚に上げてのウソ八百やんけ。
 この、ウソ八百ものを操っての共有詐欺が、ニヒリスムス社会では。今や日常になってきている。

 倫理観操作なるものが、マスゴミによってなされて。
 マスコミではなく、ゴミが金もらうためにピエロやって、そうなった。

 これらの意見の違いは、どうやら西洋人と日本人の、心の構造形式の違いからくるようだという意見もあるようだが。
 それも一神教徒のよく騙る、ウソ八百じゃろう。

 西洋人は、強固な自己という核の周りに自己意識を次々確立し共同体に至るが。
 日本人は最初に共同体を立て、そこの周りに自己形成していくんだとか。

 そんな、心に図式構造があるのかどうかも、じつは<非常に問題>というか。
 これこそ共有化、ピエロ化への、うふぉ操作見え見え。

 子供のころからの強固な自己なんて、誰も、おまへん。
 ブッダが赤んぼの頃天を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったなんて、ウソ八百。  そこんとこは、親や兄弟や先生が絡む、一神教文化の共有もの世界の、読み物なのだ。


 ニーチェはもう、ニヒリスムスの原因を仕立てた自分の先生の、道徳的教えのヤバさにも、当然気が付いてたはずである。
 だから道徳嫌いだったのかも。

 形而上学取っ払うのは、哲学ではまっとうなことと言うか、必要なことなんだが。
 信仰の修辞からそれやったんでは、当然あかん。
 足元根拠が消え失せてコケる。

 しかし自分がコケて狂気に堕ちていながら、権力意志志向の(相対的)論理的思考と、一意の知性への信仰は、ニ-チェも、捨てる気がないのだ。
 天上天下唯我独尊主義もニヒリスムスも、捨ててないのである。

 そう、このニヒリスムス思想は、一神教徒に特有のもの。
 しかも極めて怖いものなのだ。
 キリスト教のホンマに怖い部分と重なる。
 一期一会の意味も、まったく独自に解釈可能になってくる。

 だから虚無「主義」になるんやけど。
 享有を縛ってくる、猛烈な片頭痛となって襲ってくる、<倫理の力があったから>信仰を捨てられんかったのだ、とも思える部分がある。

 メシアになって、ハリツケの苦痛をすら志向してた、これってマゾヒゾムでは?
 いや、これこそが、<キリスト教のホンマに怖い>、その<感性の部分>なのだ。

 怖がるのは必ず感性。
 狂気の中で、コレ言ってるらしき部分がある。

 自分から十字架にかかり、最悪の悲鳴を選ぶ。
 同じものの永劫回帰思想も捨てない。
 狂っても、絶対の英知への信仰は捨てなかった。

 「すべての深い精神は、仮面を必要とする」というが。
 その社会学的知識すら、もはや彼にとっては、デカダンスという批判対象になった。
 その最後にくる、究極のデカダンス。

 共有の共有主義。
 ここに、ニヒリスムスが来て居座ったのである。

 虚無主義というこれは(共有の)主義主張者が、自分で落ち込んだ<頽落のデカダンスのワナ>なのである。
 別名を近代(現代)合理主義という、この意見は先に述べた。

 共有の客観主義、共有する英知主義なのである。
 当然、積極的になる。
 ポシティヴになる。

 人は享有においてある、んだが、その「ある」、が、なくなる。
 英知の光であるはずなんだが、その「ある」が、ない。

 もちろん、ニーチェは、はっきりとは言わんかもしれん。
 しかし脱存したとき、自分では気がついちょるのである。
 享有は無知やんけ!。

 道徳と言う、見える社会の記述モンが縛った自覚、なんぞじゃなくて。
 見えん共有倫理こそが縛った(享有)の倫理。
 (そういう、**主義のウソ)には気が付いてるのである。

 (同時に、感性の真実の絶対)を<共有思想で虚無化する>。
 つまり積極合理化するからだ。
 唯物論者にとっては、人間疎外にあたる部分です。

 これが合理化という事の意味。
 感性虚無の積極化推進。

 機械化、だとか共同化、も、まったく同じ意味になる。
 西洋人のプロテスタント超大金持ち階層が推し進めている、人間の機械化、共同化、つまりは合理化のことである。


 こういう風に、「享有」と「共有」を分けて考えると、ニーチェは特に、実に解りやすく感じる。
 実際は見落としばかりなんだろう、が。
 コレはオイラだけがやる哲学(自分で命題ぶっ壊して解ること)上のコツ。

 ニヒリスムスは、ありもせん<共有虚無が起こした、一神教的虚無主義、積極感性撲滅推進>である。
 キリスト教の最も怖い部分。
 決定打を放ったのは、先人のヘーゲル。

 ライプニッツの頃は、共有への合理化も未だハシリのころで、この虚無主義もまだ楽天的でもあったのだが。
 フィヒテが主義主張カルトと化して、<享有を倫理で縛って、しばいて>、深刻化し起きたものだ。
 この共有の全体化推進、享有感性の撲滅運動が、ナチズムなのである。
 もはやヘーゲルも出てこん。

 ニーチェは、形而上学をまず捨て。
 ルター派の日常の信仰を捨て。
 唯物論や芸術至上主義をも捨てた。

 そもそも、**主義すらも、デカダンスだ、といって、これからまず遠ざけたのである。
 最後は、共有オンリーのルター派信仰も、唯物論や芸術至上主義をも捨てた。

 しかし彼は、キリスト教「信仰は」捨てていないのである。
 自分が教祖様になってメシアだと主張。

 ニヒリスムスは捨ててないのである。
 これが(信仰が)すべての病の元凶なのに。
 積極推進。

 力への(純粋共有理性認識への)、(共有)信仰は捨ててない。
 そないなもん虚無主義やと、自分でちゃんと解っちょるのに。
 捨ててない。
 
 信仰の上に立っているから、一意の自己すら自分の狂気で失っても。
 「オレはメシアだ」なんて、言ってられるわけだが。

 しかしそもそも哲学は、「無知の知」は、どこで、どうなっちまったんだろう。


 こっちはあっさり、かなり初期の段階で処刑されてたんだと思う。
 <共有認識主義>の犠牲となって、享有感性は<魔女狩りのように殺された>というのが真相だろう。
 実は科学技術の誕生の時に、この「魔女狩り」があった。
 次節でこれを挿入し、語っておきたい。

 そもそも享有思想が、オイラがオイラとしてあることが。
 彼らの普通の社会では共有認識でしかないので。
 もともと世の中のすべてが「虚無主義に蹴落とされた」ような社会状態なのである。

 個別の享有思想なんかは、社会全体で、不要物として、みんなで、どかせていったのだ。
 哲学も一緒に一括で、虚無に食わせ、随所で魔女と一緒に処分されたと思う。





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最終更新日  2023年08月10日 08時36分07秒
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