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2023年09月14日
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カテゴリ:哲学研究室
ジャック・デリダの前に、ジャック・ラカンという人物を騙っておきたい。
 珍しくユダヤ人じゃないかも、と思えたが・・・。
 途中からやっぱり、どう見てもユダヤ人にしか見えなくなった。

 初期には構造主義者として知られていた1901年生まれの、精神分析をやる危険人物である。

 1932年、ラカンは、パラノイア女性エメを描いた学位論文「人格との関係から見たパラノイア性精神病」で博士号を取得した。
 アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義などに参加してジョルジュ・バタイユと知り合う。
 カトリックの資産家階級出で、パリ警察庁勤務の精神分析専門家。

 自殺した精神監察医の影響から、のちはもっぱらフロイト派であったらしいんだが。
 ユダヤ人じゃないはずだが、その思想は、モロにユダヤ的なのだ。
 
 ナチス占領下では、難解すぎる特殊文体駆使の図書で、検閲を免れたという。
 強情な男で、組織が好きで、モメ事も多かったようである。

 ラカン派、というのが今や世界にできてるほど、高名。
 高名だが、危険な人間なのだ。

 信仰は初期にはカトリックだったようだが、かなり怪しい。
 「ラカン派」というのができていて、そっちもいろいろ政治問題化してるらしい。
 「フランスの出版社間で裁判まで起きている」という。

 「セミナーで、「対象a」「大文字の他者」「鏡像段階」「現実界」「象徴界」「想像界」「シェーマL」といった理論を発展させた」、と書いてあった。
 ここでも、ブルバッキででてきた<高等師範学校>が、そして<セミナー>が出てくるのである。
 組織の別名だろう。

 ここは(ありもせん)構造主義者たちの巣窟の一つとみていい。


 さてフロイト派らしいとこもありそうな、その思想やけど。
 初期ラカンの、発達論的観点からの理論を、「鏡像段階論」というそうだ。
 発達論じゃなくて、<組織的共有現実の認識論>だろ?

 幼児は自分の身体を、未だ統一体と捉えてないんだそうで。
 赤ん坊は、赤ん坊の自覚なしのままだという。
 寸断された身体のイメージの中に生きているんや?と。

 赤ん坊の自覚や、その要保護主張がなかったら、そもそも泣かないと思うんだが。
 自然界の中で、泣くのは極度に危険を伴うからだ。

 鏡を見ることによって、「鏡に映った像(signe)が自分であり、統一体であることにそのうち気づくん」だと。
 赤ん坊を、知性の目で見てるんである。
 感性への関心ではない、みたい。
 「生後6ヶ月から18ヶ月の間に、幼児はこの過程を経る」んだという。

 鏡がなかたったら、どうするんかね。
 他者を、鏡にするんだとよ。
 幼児は(知的な)鏡を介して自分の身体を認識し、自己を同定していくんや、という意見。

 共有認識が即自己認識であり、これが<人のモト>、というご意見なのだ。
 感情が勘定だけになった、さらにイメージピクチャーばかりになった、しかしフロイト風「解釈」、というわけだ。

 人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)んだそうな。
 フロイトというより、なんとなくヘーゲルっぽいナ。

 見るものが必ず見られてるという、この、<人の独特の現実感>を、<他者の共有認識中に自己像を見出すことで説明する>、わけだ。

 「人間というものは、それ自体まずは空虚なベース(エス)そのものである。」
 といい。
 「自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである」
 ともいう。

 エスの、無根拠性には気が付いている。
 だから、このesは神ではない。
 おいらたちの世界のモノ、生成していく信仰実践論理が相手なのだ。

 「自らの無根拠や無能力に目を瞑っていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快い」
 「この段階が、鏡像段階に対応する」んだと。

 これ見てて、オイラは違和感どころか、まるですべて逆だナアと思ってた。

 赤子の人間というものは、未知な感性の渦の中で保護された状況で、まず自己を認識し、泣き声を上げて要保護を知らせるもんだ。
 母体と切り離されるが、生きられる限り、その保護された共有状況は続く。

 自我などは、もちろん最初は無いに等しいんだが、なにがしかの物があり。
 経験という作業の中で感性が切り分けられて、モノとして出来ていって、それが積み重なっていき。
 大人になって、自らの確保したはずの「無根拠」や「無能力」に哲学で出会って。
 愕然となるわけだ。

 もちろん、哲学と無縁な人がほとんどだろうけど。
 これが、全然違ってくる、オイラの意見。

 ラカンはホンマ、オイラの意見と違う。
 「人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、成長するにしたがって、やがて自己同一性(identite)や主体性(sujet)を持ち、それを自ら認識しなければならない。」
 というが。
 「その際、言語の媒介・介入は、不可欠である。」
 ともいう。

 つまり自己同一性や主体性は言語の媒介・介入で起き、認識は「自ら、その共有(言語で)の認識」という説。

 おいらは、自己同一性や主体性もさらには哲学的認識も、自己への享有的反省が生むが、共有の言語の媒介・介入なんぞとは、<ほとんど無関係だ>と思うし。
 言語への意見も違う。

 オオカミに育てられて文字言語なくても、擬音言語でオオカミ社会の社会性は十分身につく。
 さらに音なくても、手話言語で意思疎通するじゃんか。
 

 経験の本質は、人の感性の経験モノなんだが。
 その経験と、共有の言語図式なんぞとは、無関係なんだとオイラ思う。
 むしろ最初の泣き声が言語の開始で、その感性や訴えが、いつしか言語になっていくんだと。

 つまり文化や伝統に、感性的なものはつきものだが。
 構造なんつうものはなくて。
 <経験の積み重ねがあるだけ>。
 (共有の)言語要素も、自己認識には無関係なんだ、と思う。

 オイラの意見は、彼ら一神教徒とは、まったく異なった意見となるのだ。
 特に日本人は動物と人間との差異を求めないので、オイラの見解に近くなるはずだ。

 一神教徒は、動物と人間との差異を、とにかく明確にしたがる。
 そうしないと神に選ばれない、ヒエラルキーという構造に君臨できないからだろうが。
 そんな構造なんて、ないんや。
 食物連鎖なんてのも、ご都合主義の妄想や。

 鏡像という発想は確かに面白いが。
 イメージピクチャーというイコン(魂の像)を対象化して時空立てて、そこ(立てた時空)にイメージピクチャーを見てしまっている。
 と、そうオイラは見るわけだ。

 先験的認識誤謬の、イメージ版なんだと。

 人の経験的認識というものを、有限だと見ず。
 (永遠の)存在者の存在が認識する、と考えるのだから。
 彼らの意見は、ヒエラルキー的になってしまう。

 ほんとうは、「享有認識」という、隠されてもいない、開けた時空があるだけ、なんだが。
 この時空は、関与の仕方でモノになっちまうので、道具やモノの構造と捉えやすい。

 彼らはその、隠れてない様に、価値を認めないので。
 勘定評価できないから、認められないのだ。

 その享有感性が、人間種族という、共有で出来ているものの一部であるために、先験的に間違ってしまう。
 いわば<個々人の感性を、個々人のものとして認められなくなる>。

 享有と共有のこの関係を、哲学なしに現実への信仰から見ているから、おかしな意見になるのだろうと思うんやが。
 信仰という<図式構造をムリに介在させて、つい、現実をみてしまう>わけだ。

 本当は、「享有者の、個人の無知」があって、ここに一人の「アホがいるだけ」、なんやけど。
 連中は信仰という図式構造を何よりも優先させるので。
 魂の像らしきものが、認識という鏡に映て、見えちょる、というわけだ。

 経験的過去の「享有知識」が、「イメージ」ピクチャーとなって見えてるだけなんである。
 彼らは享有を認めない。
 なので、共有のものがあるかのように、他者の鏡があるかのように、なっちまうわけだ。

 ラカンによれば。
 「主体性とは、構造的に現実界・象徴界・想像界という三領界を言う」。
 現実認識、象徴認識、想像認識が、別門ではなく一意になった「主体構造」なんだと。

 おいらは、現実というのは、自己への閉じこもり的、ネガチブな、見つめられによるみつめとの乖離のさまを、つまりバーチャリターを言うので。
 象徴認識というのは、<みつめとみつめられの一致を、仮想的に対象化したもの>となるんかも。

 想像というのは、みつめられを反省で見ず、想起イメージを<見つめている、だけの状態になるん>、やないかと思うんだが。

 かれはここで認識とは言わず、現実界・象徴界・想像界という言い方をしている。
 認識からの論議に、「形而上学的世界像」を、あらかじめ導入してしまう。
 (実は図式を導入している、と、あとでわかった)
 ネガチブな認識などないし、それは<認められない享有品だ>、と思ってるから、そうするのだ。

 ラカンにはしかし、自分という無知をのぞき込んでいるようなところが、若干ある。

 主体性は形而上学的な権能の構造構想からもたらされるが。
 それはまた、「象徴界への参入が想像界に安住するのを禁ずる、父の命令を受け入れること」でもあるのだと彼はいう。

 この「父の命令にあたるものを、ラカンは、フランス語における「non(否)」と「nom(名)」をひっかけて父の名(Noms-du-Pere)と呼んだ」んだそうで。
 否定する神の名、みたいなもんだ。

 これって単純にいえば、自己享有の持つ、無知のことだと思う。
 彼は哲学に出会っているのである。

 但し共有しか、しかもポシティブしか、見ていないので。
 倫理を、自分のものとして持てない。

 「社会的な法の要求を受け入れること、自分が全能ではないという事実を受け入れることと同義である」と、みなすしかない、わけだ。
 倫理は、享有を持たない彼らに見えてないので。
 「象徴的な掟」でしかありえなくなる。

 ラカンは、このような掟が、「言語活動(仏:langage)によって生じる」とする。
 ラングだ、というのだ。
 おいらはむしろパロールだと思うんやけど。

 彼がここで述べている象徴的な掟、というのは、彼らにほとんど見えてない倫理のことらしいのだが。
 逆に、オイラたちにほとんど見えてない、図式のことであるようにも感じる。
 
 「象徴的な掟は、具体的に聞こえたり見えたりはしないものの、さまざまな形をとってわれわれの生活を制禦してくる。そのとき、われわれは「自らの限界を思い知る」。
 とラカンは述べている。
 
 彼の精神分析学では、この出来ごとを去勢(castration)と呼ぶ。
 そして、去勢なくして言語活動の開始はない、というのが、ラカンの立場であるそうだ。
 
 まるでファーザーコンプレックスみたいだが。
 お父さんにダメと言われて精神的に去勢されて言語活動が開始される、なんてことを言ってんじゃない。
 そうラングしてるけど、これはあくまで「共有概念」。

 自己確立に、おいらたちが普通に考える享有の意味合いは無くて。
 もともと共有のみ。
 彼が象徴的な掟とよぶ、(これは倫理のこと)ものが、子供のころに起こって。

 現実に象徴去勢をやり、それが言語活動の、特に<ラングの始まりだ>と言ってるわけだ。
 つまり<人は現実に目覚めてユダヤ人になる>、といいたいわけだ。

 これはおいら、人の持つ倫理権能分野への、重要な示唆になってくると思う。
 去勢されないと、どうなるのか、も含めてだ。

 この象徴的去勢は、ユダヤ人なら、かならず男の子に課す文化。
 そうやって、ローマ帝国は彼らに帝国の奴隷であることを認識させた。

 アラブ人なら必ず女の子に課す、あの悪癖とも関係があるように思える。
 ラカンとの対話は、実は、おいら初めてだが。
 ほんま、実り多いようには感じる。

 彼は、まるで自分をユダヤ人みたいに語ってるのだ。
 彼らの神は現実という名の掟だ。
 「(象徴的)去勢によって、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの自己を逆に積極的に確立するのである」と。
 
 現実を相手するとき、哲学と、ユダヤ人との決定的な違いは。

 哲学が<自己を脱存し、時空の中で受け取りなおすことで>ある。
 自分の「無知の知を享有認識」し、物事を理解しはじめるコボチ作業に入れる点、だ。 神々との出会いは、享有者となって、それからだ。

 ユダヤ人は、哲学とは違い。
 最初から怖い神がいる。
 唯一神による<象徴的去勢によって人間に自らの不完全性を、認めさせ>、初めてユダヤ人となる。
 「自己を逆に、積極的に共有確立する」よう働きかける、という点である。

 但し、人の不完全であるところの自己性は変わらないし、もちろん超人にはなれない。
 実務面を、共有面をのみ見るラングへの偏りの限界が、ここに最初からあるのだ。
 言語を<象徴界のモノとした>あたりから、ラング偏重が始まるように思う。
 彼らは言語を改造し、それを図式的なものへと導こうとしている。

 他者と共有が、彼らの<図式的構造理解>のモトとなっているようだ。

 つまり、どこかヘーゲル論理学のにおいがするのだ。
 イルミナティ組織の匂い、というべきか。
 彼ら虚無主義者はモロに、ユダヤ人と類似の発想をする。

 「象徴界とは掟であり、父であり、言語であるといった図式が成り立つ」のは確かだが。
 それは<共有へのアジェンダがあってのもの>だ。
 ユダヤ人を相手にして感じる、この独特の、もどかしさに通じるものを、彼も持っているのである。

 何、企んでんねん?
 ぜんぶ先にゲロしちまいな。
 そういいたくなる。

 彼らは(見せない)目的が先立っているからだ。
 手の内を見せない、分母を隠す魔術は、容易に種族への構造的企画への疑義となる。
  カトリックの信者が、どこで、どういう事情で、ユダヤ人に豹変したのか、という疑義だ。

 これが理解出来たら、ラカンは案外単純に料理できる気もするが。
 今はわからん、というか。
 実り多い対話の成果以上に、危険なものの匂いが、ぷんぷんしてる、だけだ。
 
 これが、情報とか、マスコミとか、証言だとか、事件の全容解明だとか、ややこしい現実の警察問題にも発展していく、たぶんもとの理由なのである。
 「人が事故的に現実を垣間見たり、現実に触れたりすることがある。その一形態こそが、精神病である」。
 とも彼はハッキリ言うのだ。
 心をも、病させる、ラカン。

 現実は騙りつくせないことを十分理解してるのだが。
 実際に図式操作は出来てる。
 だから騙れるし、魔術にもなる、といいたいのか。
 いずれ、あるいはすでに、形而上学としてある二進法で?

 構造さえ見つければ、事は簡単。
 単純化して言うと、そういう理解だろう。
 これはカトリックが言う、危険なグノーシス思想や、無神論、悪魔主義世界なのだが。
 ユダヤ人みたいに分母原典を隠してしまえば、危険なことは一切見えなくなる。
 一神教徒に言わしたら、神という分母を見せない多神教徒が、もっと危険に見えているのかもしれんが。
 ラカンにはとにかく、組織や信仰や現実理解に伴う<危険>が、モロに見えるのである。

 これが哲学的対話の豊饒さを見せる。
 過去のニ-チェがもってたような豊饒さへの役割を、見せているんだろう。

 つまりこれは、セミナーの繰り返しがもたらす危険なのだが。
 短い説明への危険を言う人も多い。
 今日のジャーナリズムピエロたちの騙る、ニュ-ス刷り込み手法の危険だ。

 結局、ユダヤ人たちの言うがままに、危険な予防接種を、ほぼ全員に回してしまった。 オイラも、covid19の一つ手前のサーズで、これ、やられてガンになった。

 危険な側面のその典型が、図式利用だろう。
 じつは彼が危険に見える一番の理由でもある。



 <シェーマL>。 

 ソシュールの構造主義言語学は、オイラにはロクに見えん図式論だった。
 これをモロに継承しているラカンも、使うのである。
 図式の黒魔術を。
 だから構造主義というものはなくても、少なくとも「図式論のアジェンダ」はあるのだ。


 「シェーマL(schema L)は、主体S、他者A、他者a'、自我aからなる。

 他者a'などという記号は、「人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象」であるという、たわいもないものだ。

 「Sは主体(sujet)を表すとともに、エス(独:Es )も表す。Aは他者を表す。a'は他者を表す。aは自我を表す。Aとa'は異なるものである。主体Sと他者Aを結ぶ軸を象徴的な軸という。他者a'と自我aを結ぶ軸を想像的な軸という。」

 これが何かを意味するのをぱっと理解できる人って、すごいと思う。
 おいら、なんのことやら皆目、わからん。

 図式を読み取る能力なし、だからだ。
 ゲーム解く能力ナンカも、つくづく思うが、ホンマに低い。
 バラして、見ていこう。

 シェーマL、というのは、主体S、他者A、他者a'、自我aなどの要素からなる「図式」のこと。
 カント先生が見出した先験的哲学の図式(構想力=時間形式)のことではなくて。

 マトリクス内の現実界の人が、それ(エス)で操られる、魔術的イメージ・ピクチャーのことである。
 魔方陣だと言っちまえば、なんにも見えてないオイラたちにも、わかりやすい。

 おいらたちにはぜんぜん見えんが、魔法使いには描けるし、見えるものが図式。
 さらにはそれで世界の力が操れると、連中が思い込んでいるもの。

 シェーマLは、この魔方陣の最初のもので。

 まず「主体S」を描き、その反対側にまで線引いて、「他者A」を描く。
 この「主体Sと他者Aを結ぶ軸線を、象徴的な軸という」。

 これがそういう、図式なのだ。
 つまり象徴的な軸を、こういった図として示す、ピクチャー権能表現なのだ。

 この主体Sは、彼の言うエス(Es)でもあるそうな。
 中性的なナニカが、ここでだけ重なってきちょるワナー、というわけだ。

 現実でも、オイラという主体考えたら、類似の状況になるはずだ。
 主体的に見ているオイラが、同時に見られて、重なっていることにも気が付くはずだ。
 そういった、現実を魔方陣で描くための「大文字S」が。
 これが「同時にEsでもある」、というわけだ。

 他者である「他者A」との間を結ぶ軸線が、<象徴的な軸>となる。
 つまり他者との関係を象徴する「図式」の、<軸が象徴として描かれた>っつうこと。

 次に、そのS-A軸とは別の軸上に。
 しかも同時に図示されるのが、「他者a'」と「自我a」である。

 Sは自我aとは重ならないし、他者a'とAも重ならない。
 しかし軸線のどこかでは、交差したりしているのだ。

 先に述べたS-Aとは別の、<想像的な軸>を形成する新図式が、a'ーa軸。

 これらの軸相互の関係は不明だし、Sが自我aとは重ならない理由も不明。
 しかし、すべては図示されて、眼前に見えているのだ。


 こういった図示で世間に多いのが、一神教徒の特に好きなレイラインの図示とか、神社をつないだ結界線とかの類、じゃろう。
 五芒星だとか、カゴメ紋だとかもよく目にする。

 そう、これら図式は、こころの目に焼き付けるための「魔方陣」なのだ。

 主体性Sと自我aが重ならないのは、彼らの主体性が自我ではできていないことの図示。
 共有の別物であるから、である。
 他者a'と他者Aも重ならないのだが。
 これは象徴的な軸と、想像的な軸が、微妙に近いが、別物として図示されているわけである。

 シンボルとイマジナチオン、いやむしろファンタスマが、どこかで接していても決して同一には重ならないことを、魔方陣で描いてる、わけだ。

 そう、図式は<描ける>、のである。
 シンボルも幽霊も、図に描いて、操れる。

 「象徴」にも「想像力」にも、主導権はない。
 魔方陣を描いた主に主導権があるのだし、その主は、エスでもあるのだが。
 「無意識は一つの言語として構造化されている。」
 のだが。

 空虚でもある。

 主は、図式構造を描く主のもののはず、だが。
 アインビルドウングクラフトの意味合いは、ここにはない。
 この時空のない図式に拘ると。

 「人間の欲望は他者の欲望である。」
  「女は存在しない。」
  「愛とは自分のもっていないものを与えることである。」
 「私の贈るものを拒絶してくれ。なぜならそれではないのだから。」
 ?意味不明、それってエス?
  「das Dingの場は、すべてのものが過ちから洗われるところであり、不在の場に存在を与える。」
 このDingはディングアンジッヒ(物自体)の、モノのことじゃろう。

 ということになりかねんのである。
 ラカンが言ってる狂気的言葉である。

 そう、この図式という代物にはカント的意味合い皆無で、狂気を操る、幽霊命題のイメージ・ピクチャーにすぎんのである。
 図式として読めるが、写し絵にすぎんのだ、ってえことだ。

 目の不自由な人には、無関係なもの。
 ましてや、こころの目が不自由な人にとっては、その権能の意味さえ病んでくる。
類の図示なのだ。

 この魔術世界が好きな人は要注意である。
 深入りせずに、おいら逃げる。





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最終更新日  2023年09月14日 07時46分57秒
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