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2023年10月17日
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カテゴリ:哲学研究室
フリードリヒ・ルートヴィヒ・ゴットロープ・フレーゲ
 1848年 - 1925年

 フレーゲは、数学の哲学として論理主義を提唱した人物。
 ラッセルの先生である。
  書いたような気もするが、もういちど必要となった。

 哲学のムーアと別に、こちらも分析哲学の祖とされるんだ、が。
  ルター派のドイツ人らしいのだが、どうもユダヤ人臭さが気になる。
 論議を見ていても、哲学者なんぞではありえない。
 一神教信仰の人なので、何か組織が絡んでいそうな気がしてならない。
 草ではないのか?

 ユダヤ人と類似の、無神論に近い現実優先の、キリスト教徒らしからぬ未知のカルト信仰があり。
 なぜか論理学と非常に相性がいい。
 ヘーゲル以降の、大論理学者だとはいえる。

 現実を持ち出すのだが、時空を見ずに。
 共有の歴史や科学技術など、組織的活動に目をやるので、明らかに哲学ではない。

 カトリック信者がやるような享有の形而上学もやらずに。
 図式を操作する観念を重視、操作して。
 魔術をやろうとするのだ。
 まるでユダヤ人のように。

 彼は、言語学に論理学を持ち込んだ。
 これは論理学のやった魔術である。


 ヘーゲルは論理学を、哲学とは俊別していた。
 哲学より論理学をもっと上位に位置付けるという、別門を上に立てるというへんなことはやってはいたが。
 精神の現象学という論議を通じて、脱存して無知を覗き込んだ経験があっただろうだけに。
 <無知の享有認知>と、<論理的享有・共有知識>を混同することはなかった。

 フレーゲは、論理学を現実利用へと徹底させるために数学的論理学を立て、というより。
 論理学を、世間的にも哲学に取って変えたかったようだ。
 そういう<魔法使い>のように思える。

 論理学の地位をあえて下げてまで、すでにヘーゲルによって論理学の下位に置かれていた哲学のほうに、混ぜようとした。
 理由はわからん。
 オイラが哲学を数学の下位に位置付けるのは、へりくだって守備につくためである。

 哲学の意味を、その時空の基礎から変えようと、図式操作を図ったんだろうか?。
 その目的は?
 無知の知の共有基礎づけなんぞは、絶対にムリなんやけど?

 その目的は、なぜか論理学者共通の目的となっていた。
 そのように思われる。
 理由不明だが。

 何か、ユダヤ人たちと共通する動きだけが見える。
 実態はオイラに見えてない、未知の目的があったように感じられる。
 どんな魔術的意図があったのだろうか?
 世界支配?

 今はユダヤ人が、カネで世界中を支配している。
 哲学なんてのは実務力皆無なので、カネとも無縁、何の役にも立たんのに。
 世間様の<神殿の掃き清め作業以外には>。

 彼らはその神殿を、意図して泥沼にした。
 油を撒いて回るへんな連中みたいに。

 なぜかこの先生は、超優秀なユダヤ人たちを指揮し、叱咤していた。
 ルター派は、ユダヤ人と類似の考え方するので近親憎悪で、敵対関係にあったはずなんだが。
 それが、シャイだと言われてたこの先生にも、ユダヤ人への敵愾心は全くなかった。
 ニーチェも、ハイデガー先生にも、そういう不審なところがあったのである。


 ともあれフレーゲは、「現代数学」集合論の、親玉の一人。
 「今日の数学で定着している∀(任意の)や∃(存在する)のような量化はこのフレーゲの業績に基づいている」、そうだ。

 数学に、現実のカテゴリーを(メタバシスやって)持ち込んだ。
 それだけでなく、彼はまた同時に、<言語学に論理学を持ち込んだ>人物でもあり。
 言語哲学の祖、とも言われている。
 哲学の世界を泥沼にしてきた張本人なのだ。

 論理言語学にはなるかもしれんが、論理学と言語学合体させても哲学には、決してならんよ。
 「意義と意味について」を書いて、気難しいヴィットゲンシュタインをその気にさせたともいえる。
 ラッセルやクワインのもとに派遣したのは、彼の指示であったらしい。
 つまり、超大物、黒幕の論理学者なのだ。

 ソクラテス以降続いてきた哲学の正しい定義を見失わせ、破壊しようとした。
 破壊工作者の一人。
 それにはほとんど、成功してたんではあるまいか。

 おいらは、<哲学は無知の知だ>と思っているので。
 この人物を単に「論理学者」として扱うんだが。
 世間様は哲学者だという評価が一般的である、というより、それだけだろう。

 とんでもない超大物なのは事実。
 但しオイラには、哲学者としての認識は全く<ない>ので、お間違いなきよう。
 なんで哲学史で扱うのかと言えば。
 やはりラッセルという<哲学者の先生だった>からである。
 反面教師。

 影響が実に巨大で、尾を引いた。
 ラッセルが現代数学へも、現代言語学へも手を出し、無駄な長期間をそれに費やして、学問世界の掃き清め作業を遅滞させてしまう理由ともなった。
 結局ラッセルは政治問題に首突っ込むというか、そっちへ誘導されてしまうんだが。

 フレーゲは哲学者ではないので、分析哲学の祖というのは、もちろんウソである。
 何か、オイラに見えてない(哲学破壊の)組織的陰謀が感じられるような事態なのである。

 そういった陰謀が絡む、数学的論理学、特に記号論理学や言語学的論理学といったもの、これらをもとに、科学哲学だの言語哲学だのといった現代の偽哲学ができた。

 無知の享有知を見出し、親しい対話で共有社会に伝承すべき哲学が、修辞学や形而上学どころか。
 虚無知識の論理学信仰に、すり替わろうとしている。
 これらの源泉となった、その核にいる超重要人物がフレーゲなのだ。

 古今の大哲学者の先生の周辺には、先達としてふさわしくない、こういった別門の大物教授が結構多い。
 ニーチェもハイデガーも、ユダヤ人のウソに取り巻かれていた。


 さて、フレーゲは「命題論理と述語論理の公理化をも主張」した、と言われる。
 「述語論理は、それ自体がフレーゲの発明である」とされる。

 「アリストテレス以来2,000年変わらずに続いていた伝統論理学を一掃して論理学の新時代を切り開いた」。

 というのも正しくないので、ここは若干説明がいる。
 アリストテレスの論理学なるものは、<ない>、からである。 

 オルガノンというものが確かにあったが。
 これも実は、後のローマ時代の「修辞学」なのであって。
 哲学者アリストテレス本人の著作物、論理学ではない。

 彼の講義録をもとに、後の時代のローマ帝国の優秀な修辞学者たちが、寄ってたかってアリストテレス全集として仕上げたものだ。
 実際には、ホンマ見事なものではある。
 しかもそれは、ポエチカのトピカとしてあったもの、なのである。

 つまり市井事情演劇論議の、トピックなのだ。
 それがオルガノン。

 それを、数学が代々理論付けに利用してきた事情もあって。
 便利に利用できそうな骨子が、浮き彫りになってた、ということ。

 オルガノンというのはさらに、別の要素、つまり感性的かつミュトス的な諸々が濃厚に存在したのだが。
 それが、そぎ落とされていった事情があった。

 ミュトス要素が切り落とされただけでなく、ロゴスからも感性がそぎ落とされて。
 カテゴリーの意味も基礎から改変されてしまった。

 ロゴスとミュトスは峻別できるものではなく、便宜的な区分にすぎない。
  それを無理やり二元に分け、ロゴスのみが偏愛された。

 もともと「人間の」、「人倫に基づく」、オルガン機関の理論構築構想。
 つまり人の論理的構想が、機関構想のアイデアなの、である。
 オルガンという楽器から想定できる、人倫の絡む、<カテゴリー適用理論>をまとめたもの。

 それがオルガノン。
 オルガノンは別物と化した。

 論理学は、それらとはさらに全くの別物で。
 ヘーゲルが独自に、数学から(メタバシスやって)生み出した発明品、である。
 オッカムの、一神教信仰の助けを借りた。
 アリストテレスの、多神教要素のあるそれとは、全くの別門と考えていい。

 ヘーゲル論理学のモデルは、数学理論なのだ。
 論理がモトで数学ができた、んじゃない、逆。

 アリストテレスの修辞学にあるそれは、演劇論や人倫、道徳問題や、感性論議が絡んだもの。
 そこから、カテゴリー違反をやって。
 人倫要素をそぎ落として、さらに命題論議を絡ませて一般利用可能にしていった。

 つまりオッカムが、オルガノンをもとにメタバシスやって、下地をつくったものだったのを。
 数学理論のモトとなる人間的要素を。
 オッカムのカミソリで不要部分そぎ落として、純粋経験として建てた。

 構想力、つまり図式が使われてるんだと思うが、それは見えてないのである。

 神のいない、時空のない信仰を核に、<純粋経験理論に仕立てた>もの。
 その理論を弁証法で逆立ちをさせて。
 得られた<所属時空なし>が、論理だ。

 つまり、論理として虚無の上に立つことになった、神的な特異点ともいえるもの。
 これが大論理学である。
 ありもせん一神教的絶対神の、虚無の形而上学的信仰の上に立っている。

 いくら演繹しても、時空という神とは出会えない。
 しかし神の論理なのだ。
 つまり<純粋経験への信仰>が、ここにはあるのである。


 そのヘーゲル論理学に、数学的要素が深く関与していることを見て取り。
 伝統の「数学」ではなく「現代数学」にして、世間様を篭絡していったのがフレーゲ。

 時空のない<純粋数学>を想定して。
 ヘーゲル論理と現代数学を合体させた。
 いわば「フレーゲ論理学」に仕立てたのが、この大先生だ。

 数学も、モトは人の時空を扱う学問なので、そことは完璧に別門になっているのである。
 ところがこれも数学者に認識されてない。
 学問の道が泥沼だからだ。

 フレーゲは、「命題には、その<真理値と参照関係がある>」、と主張した。
 単純に言うなら、<命題には命題自体に真理値がある>んや、と。
 (それ自体に真理値のないもの、としておいて、共有対話するために命題が立つんやけど)

 参照関係がなければ、彼らには具合が悪い。
 論理命題に真理値など、なくなってしまうからだ。
 虚無に消えてしまう。
 論理学には、命題という概念は、<もともとなじまない>のだと思うんだが。

 古い哲学が言ってたような、そんな共有対話のための命題なんて、ウソで。
 必ず「命題には命題独自の意味があるんや」、と。
 命題立てた基礎の理念を覆そうとした。

 命題が「無意味な提示」ではなく、必ず立てられた享有の意味があり、(論理的)真理があるんだ、と主張したわけだ。

 もちろん、命題は享有目的をもって、共有の場に立てられる。
 その人が、それを持ちこんできた享有事情は必ずある。

 だから、命題にこだわると、この(みえてない)享有目的が命題建ての信仰と化し、カルト化しちまう。
 なので、危険なのだ。
 哲学では、アリストテレスが、厳しく戒めてた事態だ。
 タ・メ・タ・タ・フィシカのなかで、「命題にはこだわるなかれ」、と明言されている。

 フレーゲは、これにかみついたのだ。
 「命題には、その真理値と(享有の)参照関係がある」と。
 命題として立っても、関係は、きれちょらんやないけ、と。

 ルター派のみならず西洋人一般的に、享有を神との関係以外のものとして認識することが少ない。
 存在者の存在が唯一神であり、存在理由が神であり、ここにあるエゴの存在も神のみこころだからである。
 エゴをもたらすのも神、善悪をもたらすのも神、宇宙をもたらすのも神。

 おいらたちのように多神教的には考えられないので、この論理的真理は誤解されてしまうのである。

 フレーゲは、<享有論理的には、まったく正しいことを言っている>のだが。
 それを<共有社会で言っちゃあおしめえよ>、ってのが、まったく理解されてない。

 共有の対話をしようという者に対して、命題にそれ固有の評価意味を持たせようというのは、命題立てた人や判断者を、神に見立てているわけで。
 そんなことは人倫において許されん、のである。

 つまりフレーゲは、オレは論理で裁く、論理は絶対だからおれの言うことは絶対だ、と言ってるわけで。
 命題立てて論議する前に論理判断が決まってしまっている。
 それを裁ける賢者の石がここに「ある」、と言ってるわけだからだ。

 それのまるで逆が、「無知の知」の、知識が「無い」だ。
 ないから、有へ向けて命題が立てられ、論議がなされる。
 「ある」賢者の石の導入は、そういったディアレクチークや公共論議のことごとくを、無効にする。

 人の無知が教える限りある知識の世界じゃなく、知識を意味としていくらでも与えてくれる論理学に従え、と言ってるのがフレーゲだが。
 そんなことは、限りある人倫には許されんのである。

 <虚無に呑まれる>からだ。

 彼の論議は数理哲学だというが、数学ではないのである。
 哲学でもない。
 別のカテゴリーが、いや何か図式的なクラスが、入り込んでいる。
 数学の仮想世界に、虚無主義の「虚無という現実信仰」を持ち込んでいるのだ。

 それが弁証法的に逆立ちしてても、論理が絶対となる理由だ。 
 フレーゲは、「数学は論理に帰着しうる」、とする。

 要は、哲学も、数学も、言語学も、それ固有の定義立てをゆるさずに
 論理主義ですべてを片付けようとしたわけだが。
 それだったら、単に論理学、でいいわけだが。

 泥沼が生まれた。
 これが目的なのだ。

 この、虚無を後ろ盾に、既成の学問を支配せんとする、この「権力意思」は何だろう。
 実は形而上学がすでに、そういったものではなかったか。

 ライプニッツが持ち込み、哲学だと称して、二進法のデジタル主義という虚無を後ろ盾に、既成の学問を支配せんとした。
 知恵者の、極めてユダヤ臭い勢力下の、類似ものだったと思う。

 現実というカルト信仰の持ち込み。
 哲学は無知の知なので、信仰ではないので。
 仮想の時空いくら持ち込まれても、意欲は無くすし命は落とすが。
 既存の歴史でも変えない限り、別門にはならんのである。

 数学は哲学より上位の、理論を使う堅固な学問である。
 哲学される必要もなければ、論理にかき回される筋合いのものではない。
 弁証法的に言い訳が絡まん限り、理論は理論。
 論理とは無関係。

 言語学は未だ端緒についたばかりの底の浅い学問なので、特に一神教徒の信仰に利用されてカルト化せんよう気を遣うべきなのである。
 言語論理学など<ない>のはもちろん、言語哲学も、ありえない。



**非営利コピー自由、落第してもしらん。





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最終更新日  2023年10月17日 11時00分12秒
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