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カテゴリ:哲学研究室
<加速主義>
これは先の節で見た。 現状加速させて、そのダメさ加減で庶民の暮らしを破綻、絶滅させ、人口減らせて社会的変革を生み出すんやという、テクノクラートたちの、勝ち組環境整備思想。 バタイユ主義者ニック・ランドはこれを詩ったのだが、加速主義者なのかどうかは不明。 彼は死を志向する。 「絶滅とは、活動からの解放」である。 「死に先立って死を味わうこと」を志向する。 死という「われわれの空間」、つまり死が<ある>、と思い込んでる。 空間があるんだと?。 時間は彼には十分見えてるらしいので、見えてない空間に期待するのだろうが。 空間が先験的感性の形式にすぎず、カラッポでできている感性のクラスで生のものだとは思ってないのである。 数学の次元と勘違いのまま、それを実在だと思い込んでる。 さらに、死も生だと思ってる? 先立っての形式認識である先験性を、おいらは(うふぉ)というが、こんなもんも本当は無い。 ア・プリオリな仮想のモノだから、(うふぉ)なのである。 直感に、感性的に、<ある>ように反省できる、にすぎない。 それも直感が<ある>、んじゃない。 直感に、ある。 反省された図式の形式が、純粋悟性概念の図式が、カテゴリー的に、感性という時空の中に弁証されるだけだ。 これはカテゴリーの意味の取り違えの原因ともなる。 加速主義は修辞の手の共有モノなので、こういった論議をことごとく加速させて、中間省略で見え無くして。 特に論理を使う者は、これを虚無の<目的>へと、連れ去る。 アジェンダをいう者はすべて、この目的を隠し持っている。 連中は陰謀家なんだ、ってこと。 どこへ、というその先は、出ー来に任せのテクノロジーだから、わからへんわけである。 これをオイラはずっと、後ろ向いての手漕ぎボートという危機事態だと言ってきた。 遅れた仲間は見えるが、進路の先に滝の奈落が待ってても、見えへんのである。 大勢で急いでるが、誰にも目的がいっさら見えてない。 加速主義というのは別名、競争主義である。 特権持つおいらが1番取りたい、だけ。 またの別名を、レミング行動主義ともいうべきだろう。 哲学概念ではまったくなくて、修辞学上の政治概念である。 <オルタナチブ> グーグルによると、オルタナチブは「代替の」という投資用語だそうで。 「伝統的資産とは異なる資産を指し、コモディティやヘッジファンドなどが代表的」なんだとか。 もちろんこれはキャンペーンが書いてるウソ八百である。 「<二者択一><代わりとなる新しいもの>という<2つの意味を持つ>カタカナ語」、というのがネット上にもちゃんと出てて、こっちが一見マシに思えたが。 しかし二つの意味を持つ、というのがミソで、これもヤバイ誘導だと気が付いた。 陰謀が隠れてるのだ。 このサイトによると、alternativeの語源はラテン語で、単に「変える」という意味らしい。 alterとnative、二つの二者択一に見えて、実は代替え<変革>への誘いのコマーシャル陰謀なのだ。 検索機能使って、日本人の頭を洗脳にかかっているわけだ。 この言葉自体が、もとは加速主義用語、つまり陰謀で作られた用語だったのかも。 「パソコンのAltキーはオルタナティブの意味」だそうである。 つまり投資ではなく、投機アジェンダ企画の用語なのである。 代替えなので、もちろん「主流ではない」用意のもう一つのものにも目をむけろ、というわけだ。 しかしここにもポシティブオンリー、共有オンリーの、プロテスタント特有の危険が潜んでいて。 それが二者択一という図式化強制になって働こうとしているのに、日本では何かが抵抗する。 命題が勝手に抵抗。 日本語のオルタナチブには、二者択一、といった意味は<皆無>なのである。 語源もモトもそういう意味なんだが、消えた。 そう、代替えの選択肢は、<無数>にないとおかしいからなのである。 この世はイエス・ノーの、ヌーメノン空想でできたデジタル世界ではない。 主流、オリジナルでない代用品、既存の歴史観でない、既存のメジャーなもんでない、アングラーな、サブカルチャ-な、脇道や黒歴史、暗闇、を含んだもの。 そういった「イエス・ノーの世界ではない」、といった意味が、日本語ではしぜんと、できている。 まったく別の言葉となって、一部は地下に潜っているのだ。 コマーシャルいくらやっても、二者択一への誘導キャンペーンは、日本では難しいだろう。 八百万(やおよろず)の神々がいるのだから。 <サイバネティック文化ユニット ccru> 英ウォーリック大学内でニック・ランドがやってた組織化実験である。 一見デザインのことのようだが、ちがう。 悪魔チックな独特のデザインにとどまらない、思想的に深みを持っている。 実験的な文化研究グループであった、とウイキにもいうが、ウォーリック大学はCCRUを認可していなかったようで、そこがややこしい。 図式化された共有思想の、組織、結社的実践活動であったと考えるべき。 ダークな企画の背後には西洋では、必ず秘密結社がいる。 まさにキャンペーンにはまらない、ダークサイト思想のデザイン化普及、つまり図式化利用の、実証実験的な文化研究がおこなわれていたのである。 (たぶん大金が動いた) ここでは、ウイキの解説が極めて精緻で適切に見える。 「サイバーパンクとゴシックホラーの要素と、批判理論、西洋秘教伝統、数秘術、悪魔学といったものを組み合わせた、抽象理論的記述」がなされ。 「ハイパースティション(超迷信)」といった概念を、「秘境的なサイバネティック原理によって自己実現する予言の実験的(テクノ)科学」だ、とも言ってるらしい。 以下、ウイキ丸写し。 「CCRUがウォーリック大学の哲学科の下にあった期間やその後に、CCRUに加盟していた人物には、ステファン・メトカーフ(哲学者)、イアン・ハミルトン・グラント(哲学者)、 レイ・ブラシエ(哲学者)、レザ・ネグレスタニ(哲学者)、マーク・フィッシャー (文化理論家)、コドウォ・エッシュン(文化理論家)、ロビン・マッケイ(出版業、哲学者)、ルチアナ・パリシ(デジタルメディア理論家)、マシュー・フラー(デジタルメディア理論家)、Kode9としても知られるスティーブ・グッドマン(電子音楽家、ハイパーダブの主宰者)、アンナ・グリーンスパン(ライター、理論家)、アンガス・カーライル(音の理論家)、ハリ・クンズル(小説家)、ジェイク・アンド・ディノス・チャップマン(アーティスト)などがいる」。 「ランドとCCRUは、しばしば実験芸術集団であるマギー・ロバーツとラヌ・ムケルジーとコラボレーションしていた。特に、「朔望」(1999年、南ロンドン、ビーコンズフィールドの現代アートギャラリーでの一ヶ月ほどの学際的な公演)における、(ロンドン: 1995)は、CCRUの取り組みを実証する一連のテキストであった」。 ニック・ランドは、すっかり支配階級者たちの手の内の陰謀を、世間一般にも暴露しちまってたわけだ。 全体を「文化的な生産物」だと言及。 「CCRUの数秘術的なサイバネティックシステムは「ナモグラム」であるが、それは、しばしば彼らの書物の循環圏や悪霊と一緒に登場する」、ともあった。 このナモグラムというのはノモグラフのことらしいんやが。 ある種の図式でもある器具。 「ある関数の計算をグラフィカルに行うために設計された二次元の図表」。 あえて見えるように設計立てられた図式の事だ。 まあ、そろばんみたいなもの。 計算の弱い西洋人には、計算目的のアバカスといったものもあるらしくて。 ツールと考える人が多いようだが、狙いは目的に応じた見える図式、見えるようにした魔法陣立てなのである。 道具立てという目的対象より、<人の感性を導く狙い>、の方が大きいからだ。 そういった類の、組織的な思想実践研究の場を用意して。 言うなれば大掛かりな詩的実証実験をやった。 これらが加速主義者である他の資本家たちの目を引いたのだろう。 <有毒性ニヒリズム> ニック・ランドの手がけた詩的思想は、有毒である幽玄な共有現実における虚無主義の諸々を暴いただけ、だとも言える。 それを弁証して言い訳してもしかたないし、構想して原理を探ろうなんてことは思わず、彼は詩(うた)ったんである、と思う。 自分の内にある(享有の)哲学者を殺して、詩(うた)って稼いだ。 つまり自分という享有部分には全く触れもできていないのだが、そのことに気づこうともしないようだ。 自分が悪人だと言う自覚がなく、享有には興味がないのだ。 自分が一人きりの存在で賢いんだと思い込んでいる人だと、そうなる。 無数の人格がオレを作ってるんだと、道徳や倫理観なしには人は生きられんのだと感じない自称善人は。 ニーチェを直に読むには困難だが、ニック・ランドを読んで、ニーチェ思想を納得したという人も実に多い。 ナチスを理解しそこで自己破綻しない限り、100%誤解なんだが。 現代日本人の多くは米人化したのである。 道徳教育をなくし、倫理を、なんと共有事にして押し付けたのが、ジワっと効いてきた。 そのため感性もどことなく米国風になり。 ヤバイと噂の、グルテンを食するパン好きが増えただけではない。 狂人の破綻した一意の共有思想を、同じく一意の、しかも無感性の現代詩で読み解いた、というわけである。 しかしニーチェの哲学思想は、共有者の理解とはまったく別のモノだったのだ。 それは共有認識の論理化を成し遂げようと絶対の権力への意志となって自己破滅した、享有・共有の「破滅・破綻」の思想。 それがニーチェなのである。 無知から生じた、人の知る欲求の根源にある問い、なども、ニック・ランドからはでてこない。 ナチスのハイデガー先生からは、聖マルチン教会の鐘の音とともに出てくるのだが。 ここらが後になって、利用されたことに気が付いたブラシエに批判されたんだろう。 共有のみの詩的世界では、すべての哲学的反省は論理の前に殺されるしかない。 神々との誓約(うけい)も、虚無主義の前には消え去るだけだ、という「現実の写し絵」が図示されて出てきているからだ。 たとえばオルタナチブでは二者択一でしかない、からだ。 第三の道がない。 多様な、限りある現実ではなく、ビッグバンで始まった無限の原理があるのみ、となる。 (びっぐばん、なんてウソ八百だよ、その証拠も出た。) そこに神がみつからないのなら、悪魔がいるからなのである。 (論理学では、神はもともと、いない)。 一意に悪魔に奉仕する優生学への道も開け。 絶対の真理があるのなら死も認識可能で<ある>ことになる。 詩的表現においては、だが。 元凶は、一神教とそれを支える<信仰>にあるのだが。 <それ>が見えてないと。 瞳着させる英知が、論理的な論理判定真理の前に、二択で魂を売り渡すことを要求するのだ。 論理で瞳着させる、写し絵なので。 自己破滅して、ドッペルゲンガーとなるのはいやなので。 共有しか認めない人、瞳着させる英知のみにすがる者は。 光る硬い、感性の破壊者になる。 ルサンチマンとなることを回避して、永劫回帰の瞳着者となるしかない。 つまり享有する魂を、そうと気づけず、悪魔に売り渡すわけだ。 大いなる真昼がおとずれる。 現実が、これまでの、世の神の騙る端正なウソ世界ではなく、露わで有毒である詩的現実となって出現する。 ま、そういった害毒タレ流しの、イワシ殺しの詩のこと、じゃろうて。 環境操作のアジェンダだ、ってこと。 化学毒か被ばく毒か、軍用の電子的な、なんぞの波かは、ぜんぜん未だ明確でないんやが。 地球が腹痛起こして、居住環境なる生存条件が破滅したのは、一部のお魚にとっての事実。 消費者大衆にも、漁師さんにとっても地獄の入口。 実はオイラたち大衆が、害毒細菌の類として一掃されかかっとるのかもしれんが。 動けんサンゴとは違うんで、川ならあるかもしれんが、回遊魚が海の温暖化なんぞで死ぬかいな。 生態機構狂わされて、集団でレミング行動させられてるわけだ。 病気を増やすマスクして、値段もわからん毒薬注射の予防接種に群がる人みたいに。 修辞学が目的利用する論理は哲学ではないし、破滅の心配なども一切できん。 形而上学的疑問すらも持たん。 信仰目的だと修辞学は哲学ではない、そのことを忘れちゃいけんぞな。 「ハイパースティション(超迷信)というのがある」。 と、これもニックは暴露。 それは「自己実現する予言の実験的(テクノ)科学」だと。 科学は目的に奉仕する科だけをエクザクトハイトに、精密に選び出す特殊なアジェンダなので、それゆえ科学なのだ。 「根源的に不可解な概念や信念を密かに現実を通して循環させ。 文化的フィードバックループを確立し」。 目的を浮かびあがらせる。 「それをつかって徹底的に社会を併合する」。 そういった陰謀もバラした彼は、以後、干され始めているようだが。 (おいらの)<有牙ヌーメナ―論> 有牙ヌーメナ―論というのは論文集のようである。 資本主義の獣の闘争の思想に見える。 解説となる序文は、「CCRUのメンバーでもあったロビン・マッケイとレイ・ブラシエが担当した」という。 ヌーメナ―という「仮想の諸々」は牙を持ち、その牙は現実に対しなぜか有効なのだ。 図式で人々を動かし、刺し殺すからだ。 マーク・フィッシャー、レイ・ブラシエ、ロビン・マッケイ、ベンジャミン・ノイズ、が加速主義の運動に同意し、ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズは、ランドへの批判に回ったというが。 ほんまかね。 米で起きた政治思想のみの話で、哲学とは一切無関係なんで、論議自体が怪しいんで。 彼らとまた違うリバタリアングループも含め、実務の世界の、金回りを今後どうやっていくかという、修辞学者相互の政治論議なので。 まったくもって哲学なんぞではないんで、間違わんように。 「啓蒙を脱し、破滅から逃れよ」というのは、0・1%にも満たない資本家のカネの話なのである。 生存がかかっている庶民の話では一切ない。 だから哲学とも、ほとんど無関係。 彼らがやっとるのは修辞学の政治話、キックバックをどうワカランようにやるかの話なんである。 もらう方の、政治家センセエの話でもない。 少しだけ、オイラの思惟を騙りたいが。 脱線ではない。 ヘラスで起こった哲学は、生存に関わる体育系の学校アカデメイアでの、もとは生存をかけた<武道と一体のもの>だった。 アテナイの王子プラトンが、その師ソクラテスの卓越した教えに感化され。 ソクラテスが詩人にハメ殺されて後、諸国を武者修行の旅のあとで帰郷して開いた、階級無視で知恵者を集める体育学校アカデメイアが発祥だった。 知識の学校じゃなく体育の学校。 そこで何を教えたのかというと、生存のための武術とソクラテスの無知の知である。 カネももちろん集まってきたが、それが目的ではなかった。 護身術とソクラテスの産婆術を世間に広める、<啓蒙布教活動>が目的だった。 ニック・ランドみたいに、カネ集めの暗黒啓蒙じゃない。 しかしプラトン御大はカルトではなく、またカルトを普及させたのでもないので。 これが代替わりですでに怪しくなり。 教師に拾われてた天才アリストテレスなんぞは、あっさり追放。 ずっとのちのローマ帝国の時代になると。 哲学なるものは、奴隷にしたヘラス人を受け入れて始まったが、完璧にカネ集め、実用のモノ、修辞学になってた。 支配者階級がそのアカデメイア学校の伝統を利用したので、哲学は修辞学となっても、学校絡みに関しては哲学だ、と言い続けて来た。 無知の知の伝統は、しかしその後、修道院にこもった修辞学とともに、さらにさらに怪しくなるが。 中世スコラ学校(スコラ哲学を名乗るほうは偽物)の時代は、学校に守られて辛うじて乗り切った。 その後、デカルトが華々しく貴族社会に中興させたが。 ナチスの敗北後は特に、もう息も絶え絶え同然、なのである。 1:ローマ帝国で、修辞学という政治思想が哲学者を吸収して関わった、のが最初の救済と背乗りだった。 2:ローマ帝国の修道院で、信仰というカルトが、形而上学という名の誤謬の問いを預けたのがこれに加わり。 3:アーベントラント(西洋)の大学で秘密結社運動が起き、論理学という数学理論が、組織立てる図式立て魔術使って大掛かりな組織で囲い込み実践運動やったことで。 この三つが、哲学を破滅させかかっている三大要因だと思うが、もう一つ。 4:すでにマルクスが、カネの問題を史的唯物論にして哲学の世界に持ち込んでいた事情もある。 唯物論から、その感性をへんな方向へ図式化させていた事実がある。 新大陸で一気に、これらが、カネの流れという有形の牙と化した。 救済も背乗りも誤謬の問いも一緒くたに、秘密結社の牙となりカネの流れに飲み込まれた。 その雰囲気なのである。 しごく単純に言うんなら。 <哲学は、カネや暴力と無縁に生きられるのか>、という問題をマルクスが掘り起こした。 これを哲学と無縁なユダヤ人たちが再度組織提起したのだ。 ローマ時代に、形而上学の上に科学技術を作り上げた超賢い種族である彼らは。 哲学でないものを、哲学の世界にムリヤリに持ち込んだ。 まぜまぜさせて、持ち込んで、発明好きの、共有オンリーの連中。 デオゲネス先生みたいにタル住まいやったとしても、カネや暴力と無縁に孤立して生きるのはムリなのである。 修辞学には付き合わされるし、形而上学もきっぱりと脱ぎ捨てたら死にかけるし。 論理の理論無視にし詩にしたら、秘密結社組織に干される。 哲学は、カネや暴力と無縁には生きられやせんのである。 政治でも、宇宙論でも、組織運動でも、危険認識とカルト化がヤバイだけで、それらを破壊すれば普通に生きられる。 というより、それらを完全撤去しては、生きられやせんのである。 超危険なものはしかし必ず、あるのだ。 純粋数学だとか、純粋経験、絶対の客観だとか、絶対の唯一神だとか、そういったことを言う連中が超危険なことが、わかってきた。 これらを避けて通れば、牙のある幽霊に出くわさずに済む。 自分でも適度に牙を磨いて、そう教えてくれてるのがニック・ランドだと思う。 もちろん同意するわけではない。 新大陸で初期に顕在化したのはプラグマチズムだが、 修辞学や牙のある幽霊なしには、道具立てなんぞマシーナリーテクニークとはなりえなかった。 その後起きたのは、科学技術の革新ではなくて、テクノロジーによる発明につぐ発明だが。 プロテスタントの共有追及と論理学の秘密結社組織のカネ集めなしには、なしえなかった事態である。 これを偉業と呼ぶべきかどうかは別にして、ことごとくが、<もはやないローマ帝国の>幽霊の牙信仰によるものだとオイラは思う。 享有から、無知の知から立つがゆえに、実務的とはなりえない哲学は。 修辞学に背乗り利用されて、形而上学を生み出した。 形而上学もまた基礎に踏みつけられて、科学技術が成立し。 科学技術もまた論理の特異点に虚無化されて、それがテクノロジーとなった。 やっとテクノロジーの根源みっけ!。 論理学導入の虚無主義(ニヒリスムス)がなかったら、テクノロジーはなかった。 その実務共有のために哲学は利用され倒して。 個々人の生存権も体育学校も、もはや虫の息。 虫の鳴き声を音楽として聞くのは日本人と南太平洋人だけらしいが。 政府お声がかり、カネ集め上手な東大のセンセエお声がかりののムーンショットで。 まもなく機械と合体化されて。 左脳の論理回路のみとなり、音楽部分は感性は機械と化して、消されるようだ。 哲学は、共有知性なのか、享有感性なのか、じつに曖昧である。 だから利用され倒してきたのだが。 ニック・ランドが哲学を殺し、黒歴史にして結社組織化してカネ集めのために詩ったことで、オイラには新事態が見えてきたように思う。 死んでしまえば哲学もクソもない。 詩と哲学のはざまでドッペルゲンガーやり、感性と知性の狭間で行き惑い、享有と共有の狭間で利用され、主導権を争う、<有限な間が>花なんだと。 そういや文学のヘルマン・ヘッセの詩も、この花を教えてくれたな。 哲学が虫の息だったのは、何も今に限ったことじゃない。 ニーチェは、享有と共有の狭間で破滅して狂ったが。 一意への意思が、そうさせたわけだ。 二択のデジタル化推進やれば、数学的に左脳優先でうまくいくと思い込んでいる人が多いが。 行き場のない感性はヌーメナーに牙を探し、必ず悪魔を見つけてくる。 詩人にソクラテスが殺されたことは偶然ではなく、必然だったと思う。 哲学は自分の無知を覗き込んで始まるが、そこは目的ではない。 感性享有の始まりにすぎないのだ。 詩人に殺されて終わるのではなく。 破滅や乖離やネガチブな悪霊がいるのではなく。 二択に見えてるのは、みせかけで。 人は本当は、無数の人格の合体でできているのだ。 いくら人格多くても、自己享有と折り合うことは必要で。 他人様共有と折り合いつけていくことも必要。 ポシティブとつきあうことも必要だが。 ネガチブを忘れたら悲劇が起きる。 ヌーメナーは牙を持つし、単数ではなく必ず複数形なのだ。 <テクノクラート> 平等主義認めない新反動主義「暗黒啓蒙」運動の詩人ニックだが テクノ楽観主義者の旗手に祭り上げられて、風当たりも強いようだ。 テクノクラートというのは、テック億万長者ともよぶ<現代の指導者連中の事>。 ウイキには「技術官僚のことだ」と書いてあるが、これもウソである。 雇われたエリートピエロの意味は、皆無。 テクノクラシイからきた言葉のようで、語源は<技術による支配>の意。 「専門技術者による政治支配を意味する」と、ちゃんとグーグルにも消し忘れで書いてあった。 もっと正確に言うと、技術による修辞支配じゃなくて。 詩的暗黒支配やと思うんやが。 勝手に出ー来るテクノロジーで、恐怖政治支配やろうというテック億万長者の官僚的支配のことでっしゃろ。 **クリスマスなのでキリスト教関係と思ったが、とっかかりがなかった。 次回は太古に戻って、デオネゲス先生をタルごと持ち上げてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年12月25日 12時09分17秒
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