哲学(無知の知)がほぼ無視された現代の世界では。
アリストテレス先生の<心身合一の哲学>は、解体されたも同然となった。
切り分けられて個々の科の理論で、虚無の論理から料理されてしまっている。
しかしこれは明確な間違い、なのだ。
時空のないのは間・違い。
時間・空間は、その間違いを質すためにある。
科学というものの本質は、信仰に基づく学術実践の、その技術にすぎない。
だから正しく科学「技術」、と呼ぶ。
哲学といった<学問>ではないし
そもそも論理といった、虚無使って切り分けられる特異点認識のようなものでもないからだ。
なんで論理が仕切ろうとしてしまうのか?
論理に仕切らせる連中が、組織でつるんで目的隠すので、そこがわからん。
ほんまは棟梁と言う<享有倫理>が取り仕切るべきで。
心身合一の哲学で得た知識が、棟梁のもとに共有的に<心構える>ことが可能なように常に自分の持つ<イコン=魂の写し絵>と見比べるべき、なのだが。
表象にお伺い立てて、見えてない図式に導かれ、それを設計図にしてしまってる。
棟梁がいくら建築物を組み立てようとしても、仕切り時空が間違っているのだ。
これでは個々の科で仕立てた資材は、はまりようがない。
<自然学のメ>(これは形而上学とされてしまった)、が先生の最重要著作であるのはもちろんだが。
<オルガノン>、<カテゴリー論>、<命題論>、<分析論>、そして<トピカ>などもたしかに、先生の第一哲学とはなるんだろう。
だが、これらはしかし絶対に論理学ではない、のだ。
これらはすべて、オルガノンである。
アリストテレス先生の哲学の別名である。
なので決して、ウイキみたいなアホな間違いはせんように。
哲学風に見える論理学を仕立てたのは、近代に至ってのヘーゲルであって。
それも哲学とは別門のものだと、ちゃんと本人も宣言してた。
哲学ではない、もっと上位のもんやと。
虚無主義信仰の、イルミナティ組織だけの、選ばれし専属ものだったのだ。
世間の奴隷大衆とは無関係のはずのものだった。
論理学は、ヘラス時代には<数学の一部>であって。
これは目的に奉仕する<実用の物>、しかも万人の物なのである。
もともと実務能力のない哲学に属するはずのものではないのだ。
アカデメイアでは、その数学を学んで一応マスターしてから哲学の門をたたくようにと言われていた。
選ばれし特権選んでたんじゃない。
人にとって数学が、哲学より基礎的かつ実用に必須の学問だったからだ。
のちのリュケイオンではたぶん、同時に数学も教えてはいた。
これの学習、習得が、必ず哲学より先立っていたはずなのだ。
これ(数学)は万人の物。
哲学認識の前提ともなりうるものだからだ。
修辞学的な原初の学問が、必ず哲学より上位に来て、あたりまえ。
引っぱり出されて、虚無主義によって踏みつけにされ、選ばれし人柱の基礎に押し込められたのは、そんな基礎数学の原理やアルゴリズムだが。
虚無主義なんぞはどうでもいいので。
オルガノンでは、そいつら相手にしない。
相手するのも、身体以外の基礎を持たない純粋に近い数学といった、これではなくて。
もっと下位の万人のものだ。
無知の知と言う、大衆の生きた哲学でもって、これらオルガノンを大雑把に解説していってみたいものである。
<自然学のメ>
これは誤って「形而上学」と訳されている。
これまでも採り上げて来たし、そのしょっぱなに出てくる、テクネー、ファンタシア、などについては36-4,36-5あたりで見て来た。
<オルガノン>
これについても、過去にも何度か採り上げて来た。
心身合一なのに、今日のオイラたちが論議するには、これを「オルガン」として見ないことには認識対象すら定まらないと述べて来た。
そういう問題が生じてしまっているから、わかりにくい。
それだけオイラたちの基本的な認識が、科学的な心身分離の方向にブレてしまっているんだということ。
オイラもかなり科学にヤラレていると言うか、認識間違いもしてるはずだ。
オルガノンとは何のことか、から、若干間違えて理解していた、と今では思う。
オルガノンは、「生体の持つ諸機能、諸権能の学問」では絶対にないし。
ましてや論理学など無関係。
規則や原理があるように見える。
それは、見ている本人の生きてる信仰が、そうさせているだけの話。
オルガンという目的ブツが、将来に表象されてあるわけでもない、からだ。
学問というものはこれも、絶対に<未来志向ではありえない>。
アルケーが必ず、「過去」に記憶として、時空を示して、あるのだ。
これ(オルガノン)は、<学問>である。
そのことを言ってるのである。
学問は、いわば時空に先立つ<先験的理念>のようなものなのだからだ。
(カント先生を思い出してください)。
信仰に拠って対象の定まった、問いや原則、ではないのだ。
絶対を志向し、自ら先験的誤謬に陥ってしまう形而上学のような誤謬の問いでもないということ。
生きた享有時空が、ちゃんと、人の理念の過去にある。
私のオルガンとして、もともと此処にあったから学問知識を織っていけるのだ。
アリストテレス先生がいたから。
むしろオルガノンは、学問としての感性的織物考えるより、哲学によって身構えるべき方途や居場所、熟した時間を示すものなのだ、と考えるべき。
知識の諸法則を綾織って提示しているのだが。
それが目的じゃない、ということ。
大自然の生命が持つ諸法則提示、なんぞでは、もちろんないのだ。
目的は享有者の無知を、自らが知る事。
知識を破壊して解る、哲学が学問の目的。
倫理的な、自分への約束事の暴露、などでもなく。
単なる人の、自然な感性合目的機能などでも、もちろんない。
ないない尽くしだが、あえて言うなら。
生命の有限さが持つ決まり事(である原則)や(原理)みたいなもんではあるんだが。 生きているので、その有様は閉じられてない、そのことを知らねばならない。
絶対の論理が仕切る表象ものでは、絶対にないのだ。
絶対の論理は、人の、有限な様を仕切れない。
命を仕切れない。
哲学では有限さという、その限りある命が、哲学と言う学問の認識が、自らを仕切っているから絶対は無用なのだ。
<限りあるモノの、親愛スリスリの、ありか探り>。
アルケーに基づく、有の探求となる。
つまり、これが(時空探求が)哲学であり、学問であることの本質でもあるのだ。
オルガノンは、生きた(有限な)哲学であり、学問の本質。
突き詰めれば、生きている命の探求。
生物科学なんぞじゃ、おまへん。
あれは、殺しての探求。
オルガノンというこれは確かに、命を対象認識指向すると思えるのである。
但し、その対象(認定の仕方)が必ず、不完全なのだ。
おいらたちの持つ感性の限界、時空の有限さがつきまとう、というべきか。
これをオイラたちは伝統的に、<幽玄>と言い表してきた。
明晰判明を目指す哲学も、どうしても完璧な合目的知識体系にはなりえない薄暗い運命を持つわけだ。
科学は、厳密な合目的知識体系を志向する。
だが、目的のために、これ(対象)を科分類して殺してしまうので話にならない。
解剖するので、結果的に殺してしまうからだ。
合理的に対象認識しようとすると、どうしても完ぺきなものとはなりえず。
途中で自ら方途破綻するしかない、ということに気が付く。
時間や居場所やを、一部放棄するしかなくなるわけだ。
だからといって時間や居場所を無視して完璧を目指したら、全くの虚無に落ち込むのだ。
虚無主義のいい例が、ヘーゲル哲学。
時間や居場所放棄のいい例が、デカルトの形而上学だ。
科学的に一意の神を立てたら、有限な実態である諸現実の時空の物は消えうせるのだ。 信仰に身を任せ、哲学を放棄すると破綻した形而上学となる。
(形而上学とは心理学、宇宙論、神学に代表される、一応学問)
あれら(デカルトやヘーゲル)は偶然そうなったんではなく、ちゃんとわかっていて(破綻を)やっている。
それを理解すべきだ。
ヘーゲル哲学に負うたナチス、ハイデガー先生の「存在と時間」も同様である。
心身分離で科学やっても、同じことになる。
完成科学にならないまま、必ず<不完全科学>になるのだが。
従事者は、それを認めないことが多いようだ。
哲学者は認める。
科学者は認めようとしない。
ここが哲学との決定的な違い。
科学従事者に倫理観がないから、そうなる。
(自己享有が不完全だと、科学者は認めない)。
人とブタの、あいの子を作ってはいけないと、自分でまったくわかってない。
エチケットや社会通念上具合悪いんや、と思い込んでる。
倫理とは、そんなことじゃない。
その学問的事態と、科学のその基礎に踏みつけて置かれた形而上学の運命は、同じものなのだ。
科学の基礎に、これ(形而上学=心理学、宇宙論、神学)が居座ってる。
その証拠でもある。
これが見えてない科学者ばかりだ。
一見、対象ブツは、科学的に理解されようとはするんやが。
科学の、破綻しそうな行き着く果てに出てくるのは。
じつは虚無信仰、論理が行き着く果てなのだ。
しかもヘーゲル論理でこれを見れば。
見る者も見られる者もそして対象物も、雲散霧消してしまうのだから。
これは虚無主義に自分から落ち込むということなんやが。
落ちてる途中ではわかっても、落ち込んだら、もうそこはマトリクスだ。
虚無の論理は体系破綻を内部に持ち、その基礎に据えている、ともいえる。
足元の崩れた、たいそう危険なものなのだ。
アリストテレス先生のオルガノンは、まったくちがうのである。
もともと心身一体の<学問の理念>でもあるので。
科学分離されてしまったら、道を外れたことが、自分で分かるようになっている。
倫理がちゃんと、自分から表に出てくる。
分離部分が、生命機構の否定を告げる構造になっているのだ。
オルガ・ノン、そのものとなっちまう、ということ。
信仰否定が表に出てくる。
居る・カ(生命)・ノン(否定)となる。
(これはある種の言葉の遊びだが、その事態を表現できる)
しかもこのカノンで、なんと<法則>なのだ。
類似の言葉にメー・オンという面白いのもあるが。
メで神々の力、オンで存在なのに、メー・オンで無。
ここでは関わらん。
しかしけっして、オルガノンは否定主義の学問なんぞではない、のである。
命を否定しない、生の哲学なのだ。
部品扱いではないので、科の知識が取り仕切って殺すことなども起こらん。
むしろ無知こそが<ある>。
そのことが、<わかる>。
理解できる、限られた命に導く学問なんだ、というべき。
選ばれし命の優勢学じゃない。
もともと有限さを持った命、そのオルガノン。
おいらたちは<有限な、限りある、生き物なのである>から、もともとオルガノンの対象なのだ。
そのことを忘れて、哲学も学問もない。
オイラたちは、命が否定されるべき科分離の、選ばれ、殺された生き物ではない。
命が常に尊重されるべき、心身合一の生き物なのだっつうこと。
おいらたちは生き物である、生きている。
そのことを決して忘れてはいけない。
命を捨てて光に還ろうなんていう悪魔主義が、末法の世に流行っているが。
死んだ組織に組みして殺されてはいけない。
神の視点などには絶対に、それも永遠に立てやしないし。
オイラたちにそれを<仕立てる能力も絶対にない>だけの話、なのだ。
オイラたちは有限なのだから。
しかし一神教徒は、メシアという存在を仕組んで、自ら神に等しいものであろうと指向する。
魂の永遠を主張する。
解るべきものなのに。
これが権力や優生学の横暴に、直につながるのだ。
彼ら、選ばれし者は宇宙自体を再創造にかかろうとさえするだろう。
魂の数だけ無数にできるよ。
科学には(一神への信仰でもって、恩寵を得て)神の視点に立とうとする志向がある。
しかしだ。
そういう、へりくだっておいて目的に至ろうとする卑屈な一面もあるとわかるだけだ。
この恩寵が、享有へりくだりではなく、やはり共有特権となり、それがまた悪事を働くのである。
カント先生のへりくだりは、享有のものとして理解されず悪用しかされなかった。
へりくだりのみではなく優生学的陰謀だと、共有者から特権だともみなされているものがある、それを述べているつもり。
科学が絶対に正しいと思い込みたい、信仰への意志が、これだ。
彼らは<横暴>ともとれる、<信仰を持つ優生モノなんだ>と言える。
優生的に、信仰特権を知識として復活させ、買い取っている。
目標を将来に見据えて、そこに表象する偶像の神殿を立てて。
客観の客観原理を、永遠に、据えようとする。
無理な相談だと思うんやが。
それらを知的に可能にしたかのような呪文が。
たとえば「メシヤ」という優生学の(超人的)言葉であったり。
これまでの節で述べてきた「技術」や「表象」、といった諸命題の言葉なのだ。
これらは宗教的な優生学の言葉と言える。
選ばれしもの。
ロゴスが科学に支えられて、それ単独で、優先鋳造されて仲介者として立つ。
強制で虚無の中に、しかし本当は感性の言葉の中に、立てられてきた。
範疇されたとされた。
これは基礎からアルケーを拘ってロゴスを見誤っている。
有限な人の時空方途を、間違えて理解してしまっているのである。
拘ってはならない命題の言葉に、拘っている、のだ。
命題というのは「無意味な名詞」、なのである。
拘ってはならない。
「命題に拘ってはならない」、というのもアリストテレス先生がちゃんと、自然学のメで戒めている。
やっとこの意味が、オイラにも少しだけわかってきた。
正しいテクネーへの理解は、心構え(テクネー)の時空から、理・解できる。
時空との関係で、分かっていける。
ファンタシアは(イコン)とでもいうべき訳語であるべきもので、これで解る。
人の生きた生体やこころとも必ず不可分である。
一体のはずのもの。
これらが「技術」や「表象」と、誤って命題理解され。
さらに命題に拘って、その基礎措定が形而上学的な問いとして立たされる。
これは<科学積極推進>をやる、<宗教(教義)の誤り>なのだ。
積極的キリスト教だけの事言ってんじゃなくて、神との仲介者を、メシアを立てて胡麻化すあれのことだ。
これこそが、<今日の世界の泥沼の根本原因>なのである。
オルガノン(哲学)を無視し、科に分けて殺し。
AI仕立てて、科学技術で復活できた、とウソをつくのだ。
人もそのうち、AIに置き換わる。
(ムーンショット企画ではすぐに)。
オル・ガ・ノンは、<此処>と言う時空の中で生きて居る。
有限なもので、時間も空間も必ず持つ。
ワレ否定の・法則(原理)、にも時空が図示する。
論理的思考に立てば一見、そう見えるが。
しかもこの法則のうちには、<居ることの有限さ、その法則性が>必ず付いて回っている。
むしろワレという<限りある享有なし>には、時空は意味をなさなくなってしまう。
共有世界では神がいないと、有が、時空が、消えてしまう。
(オイラ、今では数学的分数時空での次元存在などを、認めません)。
時間旅行ができる、というあれ(時間空間の数学的次元解釈)は。
ファンタシアということの、解釈の誤りで起きたことだ。
それでファンタジーやファンタスマが、出来上がった。
数学が身体を分割解釈した結果できた、と似ている。
架空の世界であれば、それはファンタジー世界なのである。
時間は、そんなファンタジーものじゃない。
完全な時間など、メーオンなものだ。
時空一体で有限さの中にこそある、人の<生きた感性形式>の事だからだ。
むしろオルガノンものだ、っつうこと。
科学できる範囲は、記憶の過去にしかないのである。
現在にも未来にも、できやしない。
ワレという、限りある享有の。
その有限さが手引きして(時空となって)、居る我を解体させ無知へとバラして戻そうとする。
そんななにかが、オルガノンにもある。
つまり感性的時空が、心身一体で生きて、此処にある。
命として、認識のすべてが繋がっている。
知る事への、親しみフェチへの時空が、此処にある、のだ。
アルケーがあり、時空と言う感性があり、無知の知が必ず<同時に、同場所にある>のだ。
時間と空間が、もともとオルガノンでは一つだ、ということ。
科分離のものではない、のである。
これは虚無の論理なんぞ、ではない。
AIによる、<真似し>、した知的瞳着機能や、答えの出ない形而上学の問いではないのだ。
否定の学問なんぞでもなく。
解体させ、理解へと導く、そんな哲学的なスリスリの、何かである。
その何かがまさに。
時空で<あり>、感性で<あり>無知で<ある>、といった個別に見えるのだが。
思惟主体を個別に論理的に考えると、数学的に(分数的に)見ても空虚に落ちる。
ほんとうはただ一つの(自分の)身体だっつうこと。
オルガノンの主体は、認識と同時に認識される<有限なもの>でもあるから、なのだ。 (何度も言うが、これはデカルトの哲学の成果で、わかったこと)
無限な「表象」になるんじゃなしに。
有限な認識物、「魂の写し絵モノ」、となる。
心身一体で考えないと、後者はまったくの無意味なのだ。
なぜかというと、見る者は、同時に見られる者でもあるから、なのだ。
認識者(主体)は必ず同時に(自分も)認識され、ている。
これは、デカルト先生が見出した大成果だが、単に<エゴだ>その目覚めだとも誤解されてる。
人や宗教(プロテスタント)によっては共有言語の主体格にされて終わる。
<享有>の本質なんだが。
共有孤立のウソごとだと思われている。
西洋の一神教徒である多くの人に、エゴという命題的主語は見えても、この享有が見えてないもんで、「言葉の綾だ」とされて、そうなっちまう。
テクネーは、時空の内で構え構えさせる心なのだが。
そこで利用されるファンタシアは、光る硬いモノ(表象でも心象でもない)ではなくて。
むしろヤワで脆い。
死すべき、生きた限りある、肉体、これが身体なのだ。
精神が肉体に宿ってんじゃなくて、心身一体のものなんだ。
肉体離脱の精神など、ない。
エクトプラズマなんて、ない。
スピリット酒なら分離抽出できる死んだものだが。
精神もウイルスも、生きて抽出同定はできない。
身体から離れて感染できるDNAなんてのに科学的根拠もないので、まちごうたらあかんえ。
たった一つの科学論文も出てないそうだ。
人工合成した特許があるのみ。
魂に全宇宙を映し、絵のように映してみせはするのだが。
今、という瞬間はすでに過去で、未来は未だ到来してない。
ハイデガー先生の言うとおりなのである。
オルガノンは、生体でいる<時空の内にこそ成り立つ>。
ただのオルガンとしてである。
瞬間とか永遠といった超越的空想には、立ち向いようがない、のである。
生きた肉体で出来た、オルガン機能を持つ(これが若干怪しい考え方だが)<生き物>なのであるからだ。
死者の魂は死者の魂、もはや生きてない。
そして生霊など、ない。
プラズマはあるが、エクトプラズマはない。
アリストテレス先生が、生物を中心に自然学をやり、しかもそれが哲学である理由。
それは心身一体のオルガノンであるからだ。
先生の哲学は自然学で、生物学であるかもしれん。
しかし絶対に科・学ではないのだ。
アリストテレス先生の哲学論議が、自然学、それも生物学に偏っていると言われる由縁なのであるが。
これを死んだモノとして扱うから別門となって、なんにもわからんなるのだ。
ウイキによる定義だと、「オルガノンて、ツール(道具)なんだ」とさ。
あほくさ。
こんなあほくさな命題の上に立った文明など、滅んで当然じゃろが。
本当に滅びかかっている。
核ミサイルがぜんぶ飛び交えば、そうなる。
あるいは電磁波で地上が覆い尽くされても、そうなる。
AIが支配権確立して、人がムーンショットでデジタル化サイボーグ化しても、そうなる。
オルガは生きている事であり、感性的な何かであり、有限にあることでもある。
その学問がオルガノンである。
死んだモノじゃなし。
つまり感性を超越したもんじゃないし、無限などの空想世界にも、ないもんだ。
必ず具体的な、それも享有の生命体にのみ、<ある>と言える自己(みる・みられる)認識。
道具というのは、およそオルガノンから遠く離れた硬直カルト思想に見える。
それは死した、生体を模したロボットオルガンのことだ。
その世界では、例えば人も、人材といった死した素材ものとして扱われる。
オイラたちの生きている煉獄、資本主義社会の事だ。
(民主主義というのは共有組織が立てるウソ、これはマルクスが組織から暴露した)。
人は死なない限り、素材とはなりえないように。
享有者である。
道具として奴隷使役されることもできないのに、それをやっちまう。
ツール思想が、科分類してバラして殺して、そうさせてしまっているのだ。
奴隷とされたものにも享有認識が必ず残るので、反乱も、必ず起こる。
道具思想そのものが、奴隷思想とは一体のものなのだ。
これは一神教宗教思想特有の、滅ぶべき思想である。
そのことが、わかると思う。
オイラたちの今日の常識を取り仕切る、米哲学なるものが腐っている。
ほとんど死んだ無機物ツールになっちまったので。
諸ツールも、その主体となる操作人がいなくなって。
もともとのAIの世界に、戻ろうとしてるのかもしれん。
十字架にかかり死した道具は、殺戮の未来技術とは馴染み。
悪魔や魔女の出てくる、怪奇なファンタジーとも、おおいに馴染むが。
生きているオルガノンのほうは、世間からほとんど消えた。
空想世界、おとぎ話などにも馴染まない、哲学だからだ。
むしろ、心構えの過去世界や、ご先祖たちの作り上げて来た伝統とは深く馴染むのである。
これはまた、仮想の言語ではなく、生きた言語とも馴染む。
つまり<カテゴリー>が、哲学では意味をなしてくる。
表に出て、理解しやすくなってくる。
カテゴリーは、空想の言語上の話ではない。
現実の、生きた享有者の話である。
ここにも解釈の間違いで生じた、享有文化の死が、絡んでいる。
次回はカテゴリーを論じ、オルガノンとカテゴリー、倫理などの関係を整理する。