<優生学的判定済事例>
さてここらで、脱線にも見えるかもしれんが、優生学的判定済の事例を挙げにかかろうと思う。
既存のものではなくて、オルガノンものの構想命題となりうる享有の、カタログ化を図りたいのである。
但し、この構想は共有を含まない。
つまり、まったき時空のものではないと断っておく。
しかし優生学判定済の命題を挙げれば、その理由が見えてくるはず。
1:享有こそ人の<現実認識>である。
2:享有においては、<あんたが大将>となる。
3:すべての<享有的生き物は、死ぬ>。
4:享有者に<輪廻転生はない>。
これらの共有態も構想可能ではあるが、ぜんぶ無意味な構想だ、とわかる。
1、共有に至って、「[現実は全きもの(エンテレケイア)」となるので判定不能が起こる。
2、共有の中では、「あんたは一部品」なので、評価不能になる。
3、共有生物は「オルガノンとして生きていない」ので死もないので、論議自体無意味になり。
4、「輪廻転生」は享有概念上では成り立つが、共有概念だと「宇宙全体」に広がって無意味となる。
つまりこれらでわかるように。
1、享有こそ「現実あり」ということ、その自覚が「現実」なのである。
これは「同義反復」となり、自覚の、ほんとうの意味だ。
つまりこれはそういった「図式の働き」を表現してんだということ。
ネガチブな非現実も非享有も消えた「優生学判定判断後」の「享有もの」こそが「現実」。
現実は、(図式に示された)優生学判断の後のしかし「享有反復」、っつうこと。
これを脱存とも呼ぶ。
実際には、未だ共有があるし。
非現実との「力関係」もあるのだが。
カタログ判定上には、つまりカテゴリーには、上がってこないのである。
共有はことごとく無意味と化すから、扱えないのだ。
優生学的「判定済」は、これで進んでいってしまうのである。
つまり<享有>オンリーということで、「扱えないまま推進」されてしまう。
逆にみると、これは優生学が<享有にしか有効でない>証拠なのだ。
つまりつまり、<共有社会では優生学は全く使えない>のである。
優生学は、だからだから、「ダメなもの」と、ここで初めてハッキリ言えるのだ。
2、天上天下唯我独尊の(これは享有ということ)他者ではない享有、という法則がまずあって。
これが「判定済」で、でてくる。
仏教には、貧者の一灯(享有においては、あんたが大将)が、ある。
3、生者必滅。
これも仏教用語だが、享有者の絶対に逃れられない「運命」である。
メシアは別?
メシアも死ぬんだよ。
4、輪廻転生などは、ない。
享有者には、生まれ変わりも寄生生命なども、ありえないのだ。
享有だからだ。
1回限りの自己完結した生命体、それが享有者の「無理槍な定義」であるからだ。
他者への寄生なしには輪廻転生などは空想できない、という諸法則などができることがわかる。
これらいずれも、神の居ない仏教の理念からの、オイラ独断論的選別、つまり剽窃である。
唯一神の教団などにはないものだ。
ネガチブさを内部に含んだ、ドダイがムリな、うふぉ理念のカタログだからだ。
だから堅固さ、厳密さを求めるカルト教義にはなりえんので、宗教とは無縁となるのである。
仏教ではこれらに加え、「生きとし生けるものをみだりに殺してはならない」という、既存の「道徳」も学んで、内部に持っている。
これは小乗時代からあるようだが。
特に大乗座部では、特有の高度に発展した解釈の諸々ができた。
そして仏教は<オルガノン>以外に、独自の「宗教教義にあたるものがない」し。
オルガ否定どころか、オルガ部分を超大事にする。
なので、全き宗教とは呼べないものなのだ。
それに対しキリスト教は、このオルガを否定して、宗教として成り立つのである。
生体独自のオルガスム否定。
すべて超越神帰依の、本物の宗教。
メシアの命すら磔にして殺す、超怖いカルト集団だ。
汝殺すなかれ、と神の十戒にもあったはずなのに、しかも極端に残忍に殺す。
自分が科学の基礎信仰となって神と瞳着しているのに、科学の創設者の一人をも皮剥いて殺した。
仏法は確かに、そのままオルガノンとみなせるものが多いのだが。
しかし実はこっちも、大乗の理念が絡んで変節し僧兵集団となって皆殺しまでやってた時代さえあった。
菩薩理念が絡めば、普通は柔和になるはずなのだが。
如来理念が絡んで、それでカルト化して、アジェンダ化し先鋭化して、宗教化している宗派も多いというのが実情。
教義も、仏教であっても、それができている(カルト化している)ことが多く。
それもとに宗教カルトになれば、人をも平気で殺す悪魔と化すことになる。
優生学判断済が絡む、怖い事例だ。
つまり仏教の持つオルガノンも、キリスト教の持つ優勢学のそれも、お互いにごくごく似ているのである。
いずれも紙一重である、そのことが切実にわかるはず。
似ているが、全くの別物のはずなんだが。
違いが判らん。
確かに紙一重なのである、簡単に一線を越えられるから。
また紙一重で、オルガノンは、宗教教義ではまったくないはずなのだ。
これを利用して、独自のオルガノンを構想し、<共有の倫理概念だ>とみなすメシア主義者、つまりフランキストたちもいる。
そないなもん、ありえないんやが。
「共有の倫理概念」てえの聞いただけで、彼らが無茶言ってることがわかるはず。
彼らは<享有>概念をまったく基礎から理解できておらず。
つまりカテゴリーの適用が、「適切ではない」。
だから、そうなってるのだ。
倫理がエチケットと化す事情だ。
<カテゴリーが適切でない、紙一重でオルガノンと違う「部分」>
その紙一重の部分、オルガノンと違う「部分」をこそ、ここで注視していってみたい。
オルガノンは図式で享有を動かしてる(架空の)システムだが、そんなもんはもちろん理解できん。
だから理解できるように違う部分を抜き出し、科分離思惟を使う、ということ。
かなり科分離思惟優先にはなってしまうだろうが。
科分離思惟はもともと、その対象となる物事を<解る>、<理解>するためにある。
切り刻んで、ぶっ殺して、解体して、最後は無知認識に至るために、あるのだ。
再現企画の(目的利用の、将来の)ためにあるんじゃない。
過去を過去としてあらしめるために、享有として<ある>。
この「ある」を認識をズラせて悪魔チックに利用しているのが、オイラ達現代人。
紙一重で、オルガノンと違う「部分」だ。
それが<理解>部分だ、といっていい。
判定部分の、しかも<ネガチブな図式>部分が見えるだろうか。
<「宗教教義」と「オルガノン」の、違い>
天上天下唯我独尊の理解は。
おいらが宇宙にただ一人で立ってる、つう、孤独な「享有のこと」のはずだ。
だがこれが紙一重で、「俺が天上でも天下でも一番偉い」にも採れる、のである。
優生学判断が加わると、逆転した全くの真逆の意味になる。
そのことがわかるはず。
時空が、その方向にズラされてあれば、の話だが。
そもそも優生学的判断は、時空判断済の「後の話」になる。
なので、時間空間を事前にズラスのはムリだ、と思うんだが。
時間旅行せにゃならんので。
そして「貧者の一灯」も。
「貧者の最強な享有騙る共有灯」、と解釈できたり。
生者必滅だから・・と、なんと輪廻転生が、ここから出てきたり、もする。
紙一重で、すべてあっさり逆転する例だ。
優生学を否定してオルガノンの法則を据えるのは。
実に困難で、<ネガチブ>なできごと、なのだ。
科分離思惟が、「オイラの理解することを牛耳っている」ためでもあるんだろうが。
見えない図式として、主人でもないのに「オイラの理解」を見張ってるようなのだ。
主人は享有。
オイラの理解は判定済の共有。
それは、オイラたちが、こういった科分離思惟にすっかり馴染んでしまっているため、なのである、というより。
科分離思惟と反省を伴う一体化思惟は、もともと一体のもの、オルガものだから、でもある。
そのことをまず、徹底理解すべきなのである。
オルガンだけ、科分離だけ見てたんじゃあ、何にも先に行けん。
科分離思惟でわかる、そのことを推進するにも。
科分離思惟に、自覚が見えてないまま、<おいら図式操作されている>ためだと、認め知るべきなのだ。
つまりあんたも、自分で知らんまま、気が付かんままに<図式操作>されている。
<感性>自体がその形式に。
オイラという、享有でない科分離する<優生学>に、操られているからなのだ。
それが、主語の措定が、見えてない図式のあることの<理解を有効に>してくれている。
(感性と、ズラされた共有自覚を繋ぐものが、見えてない当の図式)
科分離思惟であれば、特に、それは「決定済」になると、そういったフラグが立つと、そう理解すべきなのだ。
但し図式は、プログラムじゃないのである。
プログラムは人工の構想品にすぎん。
図式は感性の<形式>なので、構想品にはならない。
学んだ先達の道徳に、自分の反省を促されるように。
知的行為が、図式上で反復して操作される。
・・・・と繰り返される。
信仰教義に、享有感性の形式を、ずらされていってしまう。
そのため(図式のせいで)オイラたちは、<ダメな優生学>を、いつまでたっても否定できないのだ。
一神教徒である西洋の人々は、オイラたち今日の(科学に汚染され尽くしてる)多神教徒より、たぶん、もっと大変なのである。
選民思想捨てんと、オルガノンなんていっさら理解できへんというのなら。
オルガノンなんて理解したくもなくなるだろうし。
そもそもオルガノン理解しようとすると、信仰に一意となる<瞳着>が得られなくなる。
優生学から遠ざけられて、何もかも理解不能になってしまう。
そのためだ。
つまりこれをあえて単純に言うと。
優生学捨てたら「無知」に落ちる、ということである。
小賢しい知恵に頼っての、物事片付けができなくなる。
科分離認識してたものが光って、共有を主張し。
心身一体になっちまうように見えてるから、全体が見えんなってる、のだが。
そこで<知性>を、<汝の唯一の神を>捨てよ、と、図式に言われているわけなのだからだ。
享有判断の基準としても「選民思想のほうを選ぶ」人ばかりとなるだろう。
カルトは、死ななきゃ治らん、なるのである。
この優生学の「選民思想」というのには、別名もある。
そっちがもっとわかり易い。
ヒエラルキーとして「図式客観形容」もできるし。
これはそもそも、<カースト思想>というものでもあるのだ。
選ばれし民という優生学思想は、即ち、カースト思想そのものである。
カーストに囚われすぎてジャーティーを忘れてはいかんのだが、ここでは細かいことおいといてカーストに拘りたい。
なお、ジャーティーは家柄とか出自のことだが。
「カースト制度の基礎となる共同体の単位」というのはウソである。
バーラタには、アーリヤ人が大古に持ち込んだ。
(バーラタは、それがふさわしいかどうかは別にして、現インドの正しい国名、支配地域名。)
そこに<選ばれし者>、となった、ガチの<優生学思想>のことをカーストという。
これはまた、<メシア信仰>の事でもある。
共有への信仰と言い替えられる。
(信仰の本文はあくまで享有なので、この、判断つきかねるへんな現実関係がわかるだろうか。)
優生学は、キリスト教の、最も中心思想の一つでもあるんだが。
カルト内部では、そういった露骨な表現などはしてないはず。
キリスト教は、メシアという共有の希望の光を使って時空をずらし、享有部分を信仰に引きずり込み現実を交差させてわからんするカルトだ、と考えていいのだが。
原始キリスト教の概念は、たぶんアーリア人の家柄がもともと持ってたのである。
アーリア人は、アッシリアに原始キリスト教を持ち込んだ。
宇宙人臭い連中と同一の、山賊連中。
地上の高原地帯にあった楽園、「すばる」人達の集落を襲い。
女を奴隷にし、アッシリアの兵士奴隷種族を作り上げた不埒な連中。
たぶんバーラタに殴り込んだのと、同一の連中だ。
東に殴り込んだ彼らは、優生学は手放さずに隠し持った。
ただ、英知優先の唯一神は、手放すふりをするしかなかったのだ。
だからここで、欺瞞を使った。
彼らはバーラタのクシャトリア達の持つ力に、コテンパンにねじ伏せられてたからだ。 (ラムセスの後の時代に、エジプトにねじふせられてた海の民の状況に似ている。)
しかし彼ら侵入者の方が、知力は遥かに上だった。
バーラタにカースト思想を持ち込み、根付かせたからだ。
王族であったクシャトリアの、更に上の階層を作り上げ。
バラモンという上位カーストとなり、上級国民に乗ることにも、見事に成功した。
奴隷とならずに生き延びたのだ、というより。
彼らが奴隷制度という形式を作ったのである。
それまでカーストはなかったんで、奴隷制度といったそのものが、もともとなかった。
これはエジプトなどでも同じ問題がでてくるのだ。
戦勝捕縛者はいるが、制度としての奴隷がなかった。
王やファラオは、彼らをも食わす必要に迫られ、奴隷制度に飛びついた。
バーラタでもエジプトでも、彼らバラモンや海の民はその知力で、自分たちが持ち込んだ階級制度の共有社会の上層部に乗って、それらの階級制度も作ったわけだ。
奴隷「制度」と、彼が最上層「階層」に居座ったことなどは、たぶん根が同じなのである。
唯一神由来の、他力共有概念なのである。
彼らバラモンは、優生学的に選ばれし者としてバーラタの最上層階級に居座った、ということ。
その核芯部分は、感性の諸形式による、<図式>で<共有化>されているのだ。
つまり<図式が、共有化させている>のだ。
(享有と共有を繋ぐヴァーチャリターな部分には、ネガチブな図式が関与している、っつうこと。)
つまりカーストのあんよひもを形成している、感性の享有認識の見えない図式を、社会に制度化し、設置したのが、彼らなのだ。
享有の享有たる、その由縁を形成している、時空そのもの。
それら時空を悪魔的にずらせて。
人工のカースト制度導入形式で、「あるもの」としたのだ。
つまりここでは、オルガノンの法則を、紙一重で「別のモノに置き換えた」のである。 DNAを、メッセンジャーRNAに置き換えた、みたいなものだ。
優生学にすがる者たちがこれで稼いでる。
人工のものを、神の権威を導入した。
ありてあるもの、という「英知」がここで、(感性の)図式から何か別のモノとなった。
端的にあっさり言うなら、指図命令する「唯一神」ができたのだ。
人の人格の基礎を支えている「感性」や「直感」や、「生体の諸法則」そのものであるようなものを。
人工の共有カーストとして、カルト化し、確立した。
言わば優生学とカルトと唯一神は。
同時に、享有者であり共有者であるものともなったのだ。
図式がそのまま、人の本来の<享有>ではなく。
ズレた<共有>に、人工の、<エンテレケイアな座>を占めたと言える。
これが<優生学理念>。
人が近づけない絶対のモノ。
だから「優生学がここではじめて出来た」、ともいえるかもしれん。
それは<神の権威>なのだ。
これはまたヴァーチャリター(現実)の、ねじれた部分でも、ある。
だから、可能だったのだろうか。
現実における認識のねじれた部分(感性と知性の関係)を利用して、優生学的に、現実に居座った。
それがカースト制度だ。
こんなもん簡単ではない。
ほとんど見えていない感性特有の<超重要問題>ではあるが、白黒はっきりしない。
こんな感性問題に白黒つけたくないので。
のちの時代の西洋の古典ギリシャ思想は、ファンタシアを<表象>にした、とも言えるかも。
この<感性>も、さらにのちには<中性に>なって、天使や妖精になりきっていったわけだ。
この筋の話で、悪魔も中性化させたがっているのが、宗教家の特徴。
つまり感性の<形式>ではなく。
知的な<優生判断済のもの>に置き換えて、ずらされていった、形而上学的認識破綻の回避策を採った、わけだが。
それらが今感性を置き去りにし、世界を滅亡の淵に追いやっている根本原因となってしまっているのだ。
知性の<優生学>と。
感性的な<オルガノン>は、
ほんとうに紙一重の、ほとんど同じものなのである。
もう一度言う。
(共有)知性の優生学なー図式と。
そして(享有)感性の、オルガノンなー図式だ。
そのことが解れば、回避策は簡単なはずなんだが?
まず、カルトたちが享有を全く理解しようとせんので、どうしようもない。
そもそも無知の知を、金輪際わかろうとせん。
これがいかんのだ。
<優生学とオルガノン、その違い>
科学 = 優生学(共有技術) = 知性優先「特権」、なんだ。
ということが、まずきっちり理解されちょらん。
だから違いがはっきりせんのである。
科学は優生学判定済の「共有技術」で、しかも「特権階級」だけの道具である。
これが、いいかげんになって見えちょる。
全人類の「便利な道具」のように見えちょる。
なので、ここで判断が忍び込み、どうしても薄暗くなってしまうのだ。
まあ図式は金輪際見えんものだ、が。
同じものが同じものとして見える<享有理解>がないと、まったくどうにもんならんのがおいらたちの世界。
・・・である、と言わん事には、始まらん。
それが無視されると、超越へと飛ばされて。
さらに悟性概念にも、ごまかされて来た。
形而上学の先験的誤謬がウソで引っ張って来た。
優生学は、<知性>が最優先の学である。
知性は賢く、奴隷先の道徳を教え、人を瞳着させ、ファンタシアを可能にさせる。
奴隷でない悟りし者には、知力そのものである<神のみ>が、存在者となるのだ。
そういった、「優生学図式による魔術の陣立」てが、悪魔に利用されてすでにできている。
これは「人造のオルガノン」であり、「偽物の欺瞞もの」である。
つまり「科学的思惟」と「優生学」は。
相互に<まったく同じもの>なのである。
同じ人工の知力(神)による、カースト制度確立だからだ。
優生学では、そういった魔術陣が、立たされているのだ。
この科学=優生学は。
図式に動かされてる点も、時空ずらせて人工のものにする点も、ともに共有である点もまったく同じ。
数学的に、イコールでくくれるかも。
犠牲の享有者を絡めとる、図式の魔法陣が見えてないだけ、なのである。
認めたくない人は多いだろうが、事実である。
科学技術は = イコール、「優生学推進技術」だ、といっていいと思う。
「より良き」もの、「より力強い」もの、「より徹底した」技術を求めるのが科学だからだ。
伝統の文化ではなく、ダメな文明ものアジェンダだ。
だから優生学捨てることは、科学技術を捨てることになるので、できん。
これって、できん人ばかり。
オイラも、もともと科学的理解は不完全だったんだが、もう不要なのに捨てきれん。
なので随所で論議が袋小路に堕ち込んで困ってる。
優生学的判断なしには、将来的アジェンダの目的など、まったく立ちようがない。
その<ある>ことをまず理解すべきだが。
アジェンダの「目的」が、「陣立」てが、優先して導いている。
そして科学は、合目的な再現のための技術であると、もう一度きっちり認識しなおすべき、なのだ。
科学は明確な、アジェンダ企画の目的に沿って、<再現>の意図をもってなされる。
そしてこの再現に光を与えてる肝心要の者が、<イデア>なんである。
つまり。
「アリストテレスの、さらにその没後に持ち込まれた、新プラトニズムの学説」。
つまりつまり、誤った解釈のほうの、後世のプラトン学説なのだ。
これが<イデア論>における実体であって、これではダメなのだ。
(古いアテナイ流行のイデア論には実体概念がない、のがわかるだろうか。)
(というのも、実体をカテゴリーで立てたのはアリストテレス先生だから。)
新プラトニズムの学説は、誤ったへんな学説なんだと、ここではっきり言っておきたい。
これに捕まっている人、宗教家でなくても多すぎ。
時間の一部を逆転させてズラせて、公共のイデアを立てた。
つまり「イデア論」は、「優生学」のアジェンダに成り下がっているからだ。
「哲学的思惟」と、「オルガノン」も、これは両者ともに<同じものだ>と理解できるはずなんだが。
科学的合理的思惟が、そしてイデア論が捨てられん人多すぎて、理解に到達できない。
オイラもほとんどそうなのだが。
ネガチブ領域の思惟してる、させられてんだ、と。
自分でわかっちょけばいいだけ、なんやけど。
科学思考では、「図式に操られている」、そこんとこがぜんぜん見えとらへんもので。
操られ、操作されている実体感がない。
カテゴリー除外されて、倫理部分が読み取れんのだ。
カルト者は特にここで、踏み絵踏まされるように感じるのだろう。
土壇場で足引っ込めてしまうので、理解の糸口すら見つけられんなる。
科学 = 優生学、という怪しい図式の前に、居合わせた全員が盲目となるのだ。
「科学の本質を見ようとはせん」、つうこと。
しまいには難癖つけて、「盲目」という文字や命題まで消そうと図る始末なのだ。
トランスジェンダー問題で、男女の区別無くそうとしてみたりも、悪魔実施の、この一環の動きだ。
しかし優生学はいずれ、破棄されねばならないものなのである。
<享有者の敵>、おいらたちの共有の敵だからだ。
おいらは日本人が古来信仰してきた<地蔵菩薩の理念>を、代替えに推奨したい。
でなければ。
オイラたちの共有の営みは、ここで終わってしまうからだ。
優生学にすがらんのなら、何らかの共有テーマが必要。
<生きとし生けるものを敬い、現世にある最弱のものから最優先して救済すべし>。
地蔵菩薩の理念は、優生学命題の真逆なのである。
バーラタで、遠い過去に一度、これの衝突が起こった。
真逆どおしの衝突。
いきさつはマハーバーラタや、ラーマーヤーナに、ちゃんと載っている。
神話の話じゃない。
元凶は、超賢いアーリア人の殴り込みだったのである。
バーラタは、外からの殴り込みに強い。
全員捕縛した。
だが、入り込まれての、背乗りや組織化侵食には弱いことも、繰り返す歴史が証明した。
これはバーラタの伝統を一部受け継ぐ、我が国にも言える。
連合艦隊司令長官がフリーメーソンでは、勝てるわけないのである。
バーラタはイスカンダルの侵略すら跳ね返したのだが、策略で浸透された英国には支配された。
その地で得た、優生学と真逆な思想が「地蔵菩薩理念」。
これを、オイラたち日本人はずっと拝んできた。
だが。
そこまで自己欺瞞徹底やらんでも、優生学の回避策は、ある。
人が「科学的思惟には必ず優生学が立ってる、そのネガチブな図式のもとで思惟してんだ」と哲学で<わかってれば、いいだけ>だ。
自分が無知であると悟ればいいだけ。
ナガチブな面を、ちゃんとネガチブあるんや、と認識しておれば、いいだけ。
哲学が生きておれば、優生学なんぞに囚われずに済むはずなんだが。
哲学(無知の知)は、今は死に体。
それが証拠に、オイラはずっと孤立無援。
核心論議すればするだけ、読者はいなくなる。
(ホンマ、愚痴でんなあ。)
ネガチブさ、という部分を誰もがハナから拒否するもんで。
自分を誘導してる、<ネガチブな図式>のほうが、自分にまったく見えてえへんのである。
そのことに気がつかんのだ。
<ネガチブな図式>
ネガチブは、つまり<生者必滅>などは。
人の<宿命>という、ネガチブな<感性の図式>のことである。
つまり、人を動かしている感性的な核心の力のこと。
これは享有も共有も同じ。
ネガチブな力は、共有にもどうやら影響してくる?。
はっきりせんけど。
享有で反省する以外はまったくみえてない、暗い、<図式誘導の思惟>なのである。
これを、「人と言う種族すらも簡単にいずれ滅ぶものなのだ」と解釈させる。
それが、危機感を煽って、それで儲ける宗教の教えだ。
それを、滅びを見越し対策もして。
このネガチブ部分を、とにかくにも克服したいのが一神教徒なんだが。
そのために、究極の選ばれし者メシア殺してまでやってる始末。
なんと、自ら高次元生命体となって、他の生命体に寄生したりすらまで、数学で考え出した。
それが、<輪廻転生思想>と言う、紙一重の悪魔思想なわけだ。
だが、これらはもちろんsfにすぎないのである。
ファンタシアを、誤ってファンタジーにみなした、だけの話。
この世に輪廻転生などはないし。
人にソマチットのように寄生する生命体も、寄生する悪魔的な力も、いやしない。
現実には、経験で悪魔的人間が出来上がって居るだけ。
悪魔に憑りつかれているんじゃない、本人が悪魔人格になってる。
見えてない全体や人の無知が、オルガノンの仕組みならぬ「図式法則」が、あるのみだ。
人が無数の生命体に寄生されてるのは事実だが。
人の身体は、必ず一つである。
人格は容易に分裂するが、<享有する時空は必ず一つ>のはず。
ドッペルゲンガーは、ウソ。
(同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこと。)
人格分裂は、いくらでも起こる事実である。
おいらも悪魔的人格を抱えている。
この一を、唯一神の一に仕立てるのが優生学なのだ。
ドッペルゲンガーは多分、図式権能が反逆して起こる生体エラーなのだ。
ファンタシアの誤解釈による、知的表象利用の、空想科学思想が世間にもびこっている。
その科学空想は、死霊の知識をつかった<合目的再現技術>に過ぎんので。
つまり、目的達成のためのアジェンダにすぎんので。
これはテクネーの誤解釈や、やはりファンタシアのイコン風誤解釈をも生むことになる。
生きた、有限な、その場限りで消えてしまう感性に。
共有の永続する宇宙を想定して、瞳着的にカルト化させてしまう。
つまり「未来企画へと信仰してしまう」、わけだ。
アジェンダとなる。
イコンという考え方が、魂のありかの図式、と、陣立て風に、紙一重で書き替わってしまう。
つまり図式=知的瞳着となってしまっている、のだ。
(図式=瞳着というこれは、真っ赤な嘘なのである。)
(だからエラーも起きる。)
図式は構想力。
・・・・と反復して受け取り直させる、<感性の力>。
そのオルガノンにすぎないが、このオルガノンは幻想でしかない。
図式はまた、享有者が直接受け取る<反省>でもあるんやが。
ネガチブなので瞳着できんし。
イコンは、感性の形式によるファンタシア、なのである。
瞳着ではないので、再現、なんぞでもない。
図式=瞳着というのはやはり、魔法陣使う連中が言うウソである。
彼らは図式をオルガノンとして直に見出すことに失敗。
倫理が消え。
図式を論理として見出すことに失敗し。
虚無主義がおとない。
図式を現象として見出すことに失敗。
厳密な学も心理学へと暴走。
図式を構造として見出すことにも失敗し。
この主義主張もいつしか消えた。
図式はファンタシアの跡付け、「感性的受け取り直し形式という命題」であるにすぎん。
<享有>の<現実>がなければ、じつに無意味な言葉なのだ。
誤りのない完璧なものではなく。
感性の絡んだ、「じつにいい加減なうふぉ物だ」っつうこと。
その、ええかげんなうふぉが、オイラたちの支配者。
それが優生学でもある、この理不尽さ。
但し共有目的には<目的>立てたら見えるが、それ自体は共有に対しては一切働かん。
但しポシティブに対して動かんだけで、ネガチブは、いっさらわからん。
この「共有と目的アジェンダがベツモノだ」と理解すべきなんだが、それができちょらん。
享有には共有を導く有効性が、なにかある、のだが。
それがわらん。
目的立てたら、図式は働いてない。
(だから悪魔達は、目的じゃなしに魔法陣をアジェンダ立てして図式を発動させるのである。)
この「目的」が、優生学であり、<判断力>なのだ、
共有者が、受け取り直しする優生学で、判断済の直観の形式とみなす、見える人造のイコンではない、ということ。
判断力は、図式が見えてる人たちの、そのイコンではない「架空の美学形式」なのだ。 エステチカの類。
宗教においては、こういった人造の時空間が与えられて、強制的に受け取り直しさせられている。
教義でカルト化されている。
図式=見えてない感性形式、のはずが。
図式=形而上に見える感性=信仰による表象された魂、と「書き替わってしまって」いる。
それが形而上学なのである。
つまり「心理学」、「宇宙論」、「神学」なのだ。
しかし形而上学は、その先験的誤謬のため、未来に至っても、受け取り直せない。
ファンタシアは、いくらウソついても中性の表象にしか、ならないのだ。
魂にもともとあるとする、ナニカのカノンを導けるものではない。
神の恩寵なるものすらも、導けない。
では、「優勢なる見えん力に頼るしかない」、となる。
永遠の魂ありきで、知性撞着という神ありきでやっても、しかし客観の客観など、永遠に立ちようがないのだ。
そもそもファンタシアは誤った表象ではなく。
図式という、有限な直観の形式に導かれたイコン、魂の宇宙絵、なので。
(これもほんとは間違いというべきなのだが。)
有限なイコン(宇宙像的魂)となっちまうジャロ。
もともと無なので、無に帰するべき、その場限りの時空の受け取り直し、となるのだ。
見えてえへんのに、見えてえへん力に頼る。
魔法陣立てて、ムリに頼らせる。
これが、優生学がキリスト教の中で生き延びて来た、ほんとの理由、だろう。
<時空形式>を人工で立て、その魔法陣化を図る。
人工で仕立てられた(力を持つ)図式に、優生学が「跡付けで目的付けしている」、のだ。
だからミステリイに見えるもんが、ここに、信仰として居座れるわけだ。
<優生学という名の図式>ができちょる。
但し、人工物。
図式はしかし、人工物といった形式じゃないのだ。
図式には、目的など持たせられない。
プログラムであるなら<目的>があるはずなのだが。
図式には、プログラム的要素はなく目的もない。
なのにオイラたちは目的に誘導され、肝心のオルガノンが見えてないのである。
特にこの「目的」が立ちふさがって。
windowsのapiだった」bitbiltの働きをしてオルガノンに成り代わり、隠ぺいする。
魔法陣立てる連中にも、アジェンダは見えてても図式は見えてないのだ。
図式は<ネガチブで出来ているオルガノン>なので。
悪魔たちにも、オイラたちも、ともに直接見えてないのだ。
(これが本質だろう、図式はネガチブで出来ているオルガノン。)
ネガチブ強要でできているカテゴリーや。
ネガチブ規制でできている倫理は、図式のお仲間だと、この命題でわかるはず。
(哲学のない)ユダヤ人たちが熱心に、「構造」だの「志向」だの、「知性」にそれを追い求めているその理由も、わかってくるはず。
動機はヤバイかもしれんが、<感性の者だ>ということを認めたのはフロイトだけだった。
だからオイラ、フロイト研究したかったんだが、ダンボールに集めた本持ち逃げされて、ぽしゃった。
そのおかげでハイデガー先生に出会えたのだが。
瞳着から構想を解放する理解と違って
ネガチブな時空への強制を求める図式もあるが。
そしてそれを形而上学というんであるが。
これらの諸関系は、未だにぜんぜんん整理されてない。
特に科学的思惟では、まったく役に立たんのだ。
次節では判断力について論じてみたい。