18.ザ・テンプターズ(文中敬称略)ザ・タイガースと人気を競っていた人気バンド。 人気の根源ははイメージ的に不良性があるショーケンこと萩原健一。 バンド名の由来は、太陽の誘惑から付けた。 バンドの前身は(エレキ・インスト・バンド)大宮西高校の高久 昇と田中俊夫ら4人で、近所の寺の境内で練習している時に、田中俊夫の小学校時代の同級生の松崎由冶が遊びにきて意気投合し加入する。 '66年3月、大宮『大蔵』のディスコに出演中、飛び入りでリトル・リチャードの大ヒット曲「マネー」を歌いメンバーに加わったのが萩原健一(当時、東京の荒川区の私立聖橋中学3年生)である。 メンバーは、松崎由冶(Lg)、田中俊夫(Sg)、高久 昇(Bg)、大口広司(Ds)、萩原健一(Vo)の5人。 同年10月、恵比寿の中川五郎ディスコティックのオーデションに合格し専属バンドとして活動する。活動拠点は、新宿、恵比寿、銀座のディスコ『ステップ・ヘヴン』で。直ぐにNo1となった。その噂を聞きつけたザ・スパイダースの田辺昭知にスカウトされ'67年5月スパイダクションとプロ契約をし16日に池袋「『ドラム』で初ステージを。 この時相対したバンドがアウトローズ(後の、石間秀樹、成田 賢を有するザ・ビーバーズ)。 8月の日劇ウエスタン・カーニバルに初出演し新人賞を獲得する。 10月25日にフィリップスより「忘れ得ぬ君」(B面は萩原健一が歌った「今日を生きよう」=グラス・ルーツの日本語ガヴァー)でレコード・デビューをする。テンプターもタイガース同様、朝の人気番組『ヤング720』でデビュー曲を毎朝放映し人気が出た。 第2弾の「神様お願い」では、萩原健一が、膝まづいて神様に祈るというアクションによって大ヒットする。"テンプターズ"の曲の殆どを松崎由冶が作詞・作曲していたが、第3弾の「エメラルドの伝説」は、作曲家の村井邦彦が行った。胸に付いていた花のアップリケが印象的である。 グループの解散は'71年のサンケイ小ホールで行ったコンサートが実質上の最後。 テンプターズがデビューから解散までにリリースした、シングル・レコードは次の12枚。 「忘れ得ぬ君/今日を生きよう」'67年10月25日発売、「神様お願い/涙を笑顔に」'68年3月5日発売、「エメラルドの伝説/僕たちの天使」'68年6月15日発売、「おかあさん/秘密の合言葉」'68年9月25日発売、「純愛/涙のあとに微笑みを」'69年12月14日発売、「雨よ降らないで/ひとりぼっち」'69年3月25日発売、「帰らなかったケーン/静かな嵐」'69年7月5日発売、「エブリバディ・ニーズ・サンバディ/君のいない世界」'69年11月25日発売、「愛の終わり/青春の叫び」'69年12月20日発売、「復活/俺のものはなにもない」'70年3月25日発売、「出来るかい?出来るかい?/愛の葬送」'70年6月25日発売、「若者よ愛を忘れるな/理由なき反抗」'70年10月25日発売(全て、フィリップスから発売) ※ザ・テンプターズの再結成は不可能となっています。田中俊夫が'97年に白血病で旅立っているので。 元テンプターズ大口広司さん死去、肝臓がん 正確なリズムを刻み豪快にドラムを叩いた大口広司が、2009年1月25日22時20分に都内の病院にて肝臓ガンで逝去。 享年58歳 中学時代からの盟友の萩原健一は、『たくさんの思い出があります。凄くセンスのいいやつで優しい人だった。母性本能をくすぐるところがあって、女性にはもて続けたなあ』と悼んだ。 音楽界から俳優業へ転身し活躍。 遺作となったしまったが2009年3月28日公開の映画『カフーを待ちわびて』(監督:中井庸友)。大口広司は、医師の役で出演。 1月25日に肝臓がんのため亡くなった『ザ・テンプターズ』の元ドラムスで俳優の大口広司の葬儀・告別式が1月30日、東京・中野区の新井薬師梅照院大悲殿で営まれた。 ミュージシャンのムッシュかまやつ(70歳)ら約120人が参列。ムッシュらと結成したバンド『ウォッカ・コリンズ』の曲が流れ、大口さんが描いた絵画十数点が祭壇脇に飾られた。喪主を務めた妻の以知子(いちこ)さんは「広司は男にも女にもモテる最高にかっこいいヤツでした。どうぞ夢の中でも酒を酌み交わしてください」とあいさつした。 2007.10.01 画像アップ完了
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