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カテゴリ:音楽
タイムスリップ! 若者たちがキラキラ輝いていた'70年音楽シーンへGo!
日本コロムビアよりリリースされたアナログ・シングル盤の「愛は傷つきやすく」(文中敬称略) このシングル盤は、'70年5月25日リリースされた、A面は、「愛は傷つきやすく」、B面は、「涙をうばって」が収録。 この「愛は傷つきやすく」は、中村 泰士が創った名曲(作詞は、橋本 淳)、チャートの第1位にランクされ65.5万枚のセールス。 後に、岡 俊彦&佐久間 レイ、ちあき なおみ、トワ・エ・モワ、優雅がカヴァーしています。 ヒデとロザンナは、男女デュオの頂点を極め(極上でソウルフルな歌声とビートにのったダイナミック感!)音楽シーンで一世を風靡した。 ヒデは、水木 英二の名で日活第6期ニューフェースに合格後、『霧子のタンゴ』などに出演しつつ、'62年に東芝音楽工業より「東京ロマンチックガイ」でレコード・デビューしています。 名を、出門 英に改め、'67年に佐藤 ユキとデュオ(ユキとヒデ)を組んで渡辺 貞夫が創った「白い波」(日本グラモフォンよりリリース)で再デビュー。 ※佐藤 ユキは、その後名を藤 ユキと改名し、日本ビクターから'67年に「あなたと二日いたい」で再デビューし、更に名をアン真理子と改め日本ビクターから'69年に「悲しみは駈け足でやってくる」で再々デビュー。 ヒデは、水木 英二の名で、「白い波」の詞を創り、大勢のシンガーに楽曲を提供しています。 主な作品は、河島 英五「野風増」、小柳 ルミ子「星の砂」、森 昌子「彼岸花」などなど。 ロザンナは、ロザンナ・ザンボンは、イタリアヴェネト州スキオ出身のシンガー。 デュオの結成の経緯は、ヒデがロザンナのステージを観て、彼女とデュエットを組みたいとオファーし、その出逢いから5ヵ月後に「愛の軌跡」をリリース。 美男美女のデュオで、瞬く間に音楽シーンの頂点に駆け上がりました。 色々な噂(二人の関係)が飛びかいましたが、(↓ボクが所有している資料から引用)、 初のデートは、鎌倉へのドライブだったそうです。 デートの帰り際にロザンナが大好きなバラをヒデは“これがボクのいまの気持ち”と言いプレゼントしたそうです。 ヒデとロザンナを結成して、6年目にハワイで挙式を。二人の男の子と一人の女の子に囲まれて幸せな家庭を築いていました。 が、 46歳のときに、いままでに体験したことのない腹(腹にシコリが)痛がヒデを襲います。 家族が心配する中で、それを察し(説得に応じた)'90年に1月に検査入院を。 しかし、 悲しい報告が、医者からロザンナに告げられました。 病名は、結腸がん しかも、末期だったそうです。 治癒する確立は、手術しても10% 決断し、 託します、医学療法に! がんの摘出手術が行なわれました。 ヒデが順調に回復の兆しがある中の、 2月15日。 この日が二人の結婚記念日(15回目の)でした。 ロザンナは、ヒデに手紙を書き渡しています。 数日経って、ヒデから返事の手紙と共に、15本のバラが贈られました。 永眠する3ヶ月前に、 こんなことも入院中にありました。 ヒデが経営する。ゴルフショップの開店に日に、医者から許可をいただきセレモニーに出席。 だが、 このセレモニー後に、病院に再び。 この頃には、結腸から肺に、がんは転移していたんです。 悲しい別れが訪れます、 家族に囲まれて、 '90年6月17日に逝去 享年47歳 ビデさんが亡くなってから、もう20年経つんですね(泪) ヒデとロザンナについては、←のウィキペディアで。 ヒデとロザンナ名曲の歴史については、←を ユー・チューブ→「愛は傷つきやすく」←素敵な名曲です……絶対に……未来に残したい音源です。 日本最大のクリック募金は、文字数オーヴァーにより割愛しました。 ← 音楽大好きで札幌を拠点に活動するMakiさんが管理しているブログ ← ギタリストの『ZUN』さんが管理している“NOLANS”のHP 東京の天気は、朝から超快晴の超高温で超々蒸し暑かった超炎暑の1日。 P.S.:もし、お時間があれば、 『you tube』→『水平線の彼方から』、 『憩いの館』へも訪問していただければ幸いです。 も、更新を。 ショックです。ミュージシャンじゃないが、洋楽に精通していた今野 雄二(音楽、映画評論家)さんが自宅の室内で自ら命を絶ってしまった。 加藤 和彦さんとの音楽談義を思い出しています。髭が似合っていて、服装もお洒落で、喋りも饒舌でした。 心からご冥福をお祈りいたします。 合掌 映画評論家の今野雄二さん、自宅で自殺 ↓ 映画評論家の今野雄二さん(66)が東京都渋谷区代官山町の自宅アパートで死亡していたことが3日、分かった。渋谷署によると、2日夕、室内で首をつっているのを関係者が発見、自殺とみられる。 同署によると、今野さんは1人暮らし。遺書はなく、死後数日たっていたとみられる。 今野さんは北海道出身。平凡出版(現マガジンハウス)に勤め、雑誌「平凡パンチ」「アンアン」の編集部を経て独立した。ソフトで洒脱(しゃだつ)な語り口が人気を集め、映画や音楽の評論家として「11PM」などのテレビ番組で活躍。英国のミュージシャン、ブライアン・フェリーの詩集の翻訳や、ヒット曲「CHA-CHA-CHA」の訳詞も手掛けた。 1984年にはベストドレッサー賞(日本メンズファッション協会主催)に選ばれた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月03日 21時40分34秒
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