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『せかいでいちばんつよい国』
デビッド・マッキー作 なかがわちひろ訳 光村教育図書(株)から出ている絵本。 以前から気になっていたけど、やっと読んだ。 多くの人の頭の中に思い浮かぶんじゃないかな。 これって「あの国」や「この国」が風刺されているんじゃ?と。 「あの党」や「この党」にも置き換えられるかな。 他にも色々。。 でもそうやって「自分は違うところにいるもんね」と線を引くと 大抵の場合、学びが浅くなる。そして自分は偉いと変に誤解する。 あんまり自分を高いところに置かないほうがいいみたい。 去年の今頃、灰谷健次郎さんの『太陽の子』を読んだ。 読んだことを上司に話すと「あぁ、昔流行ったよ。『兎の眼』とかね」 (昔なのかぁ)と思いつつ、流行から遅れついでに一年置いて、 今年は『兎の眼』を読んでみた。 読後感。。 明るい兆しが見えて終わっているのだけど、1つスッキリしないこと。 それは、「自分は違うところにいるもんね」と線を引く人の存在。 う~ん、、何と言ったらいいんだろう。 種類が2つあって。 まず、(自分はその問題に関係ない)と無関心な人がいる。 これは、イジメ問題などでよく言われる「傍観者」というような立場で 明らかに、改善の余地あり、と読者に感じさせるもの。これはわかりやすい。 もう1つが、(今まで見えなかったものが見えるようになった自分とは分かり合えない)と あきらめているような、、これも人の絆を切るほうにいっちゃう。 本当は自分だって、少し前までは(見えなかった側)にいたのに。。 せめて自分に近しい人ぐらいは、簡単にあきらめないで、つながりを切らないでと思う。 そんなに世の中、悪い人はいない。 そして、そんなに世の中、立派な人もいない。 何かと出会って、触れて、少しずつ変わっていく。 わかんないけど、さっちも母などに対して (昔ふうの教育を受けてきたから、何か考え方に根深い違いがある)と思う。 でも、母から昔の話を聞いてみると、理論はなくっても生活の中に (すごいなぁ)と感じる事実がある。 母のそのまた母の時代のことなども、聞くと面白い。 面白がると、母も面白そうに話す。 例えば、ハンセン病。強制隔離とか、さっちたちは勉強し(酷い)と思う。 そして(たぶん母たちも差別意識ありありなんだろうな)と思い込む。 うん。ここ↑が落とし穴。何だかね、その時代の人々を一緒くたにしちゃいがち。 でもよく聞いてみると 昔、母の実家の近所でハンセン病の人を匿っておられたそうだ。 エエッ!ばれるでしょ?とさっちなぞは思うのだけど 「そこの家の人たちが、いないと言うんだから隠したいんだろう」と 村中の暗黙の了解で、誰も告げ口しなかったそうだ。 かと思うと「ハンセン病だけど普通に農作業して働いていた人もいた」 エエッ!どうして?いいのかいそれで、、ってさっちはまた思うのだけど 「そこの家の人たちが、違うって言うからそれ以上詮索しなかった」 。。。いい具合に大雑把で、好きよ。 そういうやり方、ある意味冒険だけどさ(笑) 国がどうこう言う前に実感として近所の人たち、 別に感染もしないし大丈夫っぽい、と何となくわかるんじゃないかな。 さっちには、できないかもしれないな。 すごい。と思った。 家族が当たり前に一緒に暮らせる世の中には、本当にはまだなっていない。 子育ては無理では?と、例えば障害を持っている人から我が子をやんわり?引き離したり。 進みたい人生に、身を置けたらいいな。邪魔者は、やさしい顔してるかもしれない。 それにしても 同時期に読んだ2冊は混じる。 さっちの頭の中は、渦を巻いているんでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年12月01日 00時59分07秒
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