毎年大晦日は母と一緒に過ごすんです。
で、新年明けてからテレビを見るでも無しに流しながら
母が買ってきたお節料理を食べている時に
急にポツポツと昔話をし始めました。
母は子供の頃、家族と一緒に樺太に住んでいた事は知っていたんですが
たまにソ連兵がきてなんとなく親しくなったそうです。
そのソ連兵が自分の名前を母に教えようと
何度も「ハラーウジャ」(実際の発音は知りませんw)と言うのですが
なにしろ子供だったし発音も難しかったらしく
「はらうじゃ」と言うとそのソ連兵は「Het(No)」と言っては
また自分の名前を言う、そんな事を繰り返すのが
面白かったと言ってました。
しかしそのソ連兵はお酒が入るとかなり乱暴になり暴れまわるので
怖かったとも言っていました。
大東亜戦争の終わり頃に内路村(ナイロムラ)に住んでいた母達の所にも
いつソ連軍が攻めて来るかもしれないので逃げなければと
船で日本に帰ろうと、港まで列車が出ている駅に近い
敷香町(シスカチョウ)に向かう事にしたそうです。
そうそう、荷物もそれほど持って行けないし、ラジオ等は
日本人達がどう逃げるか放送で知られてしまうので
泣く泣く壊して逃げたそうです。
内路村は山の方にあったそうですがかなり歩いた所で
母の母、つまり僕の祖母が「大切なチョッキを忘れた!」と言い出し
母の父、つまり僕の祖父の止めるのも聞かずに山の方に戻ってしまい
その間ずっと皆が待っていたり、いざ駅に着いたら荷物に内路村と
書いてあったので駅長から「内路に戻れ!」と叱れら戻ったりと
かなり無駄な時間を費やしてしまったそうです。
結局乗船する予定だった船は出港してしまって乗れませんでした。
しかし、その船が敵国(何処だかは分からなかったそうです)の攻撃により
沈没してしまったと後から聞かされて九死に一生を得たそうです。
「あの船に乗っていたらお母さん死んでたんだよねぇ。
それにしても今年の御節は美味しくないね」
不満そうにぼそりとつぶやく母(^^;
今年は北海道に行きたいと言うので
「連れて行ってあげようかなぁ」と思った、そんな年明けでした。