太子の謎開封第十四部
第二章:調子丸の事 『太子傳記』では調子丸の死後、2月30日(56歳)で死亡したことになっているが、筆者の手元にある古文献『斑鳩古事便覧』(大和斑鳩寺 釈覚賢・著)には異なる内容が書かれている。 『皇極天皇3年甲辰84歳而死。住宅在鵤宮西北角法隆寺之東』(皇極3年[644]に84歳で死亡する。住まいは斑鳩の宮の西北の角で法隆寺の東である) だが、太子が13歳(584年)の時に調子丸が18歳だったという『太子傳記』の記述を信じると、皇極3年当時の調子丸は78歳となるはずで、年齢にズレが生じてしまう。甲斐の黒駒が太子に献上されたとき(推古6年、598)太子は27歳である。この時調子丸は32歳ということになるが、その年から馬の扱いを太子に教えてもらい、一から覚えたというのは不自然ではないだろうか。それに馬という生き物は、生まれた時から手なずけてなければなつかないと言われている。この事から考えると、調子丸は甲斐の黒駒が献上されたときに、その黒駒の世話を心得たものとして太子に仕えたのではないだろうか。調子丸の年齢が太子と近いものであったとするのは、太子との密接な関係を印象づけるためであったのかもしれない。調子丸が黒駒の飼育係りとして甲斐から黒駒とともに上京してきたとするなら、『斑鳩古事便覧』の主張する年齢から割り出した年齢、38歳で27歳の太子に仕えたと考えてもおかしくはないだろう。調子丸は百済からの渡来人を称しているが、甲斐・信濃に古くから住み着いていた渡来系部族の馬飼いだったのかもしれない。 ~完~