2312592 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

売り場に学ぼう by 太田伸之

PR

Profile


Nobuyuki Ota

Calendar

2021.10.22
XML
5年間の休止期間はありましたが、このブログはこれまで220万以上のヒット数、多くの方々に読んでいただきました。ビジネススクールやファッション専門学校の教え子を対象に始めたものですが、いつの間にかメディア関係者や経営者の方々にも広がりました。また、このブログの一部に加筆した書籍まで出版させていただきました。これまでのご声援に感謝申し上げます。

しばらく充電期間をいただいてリセットしたいと思いますので、本日分が最後となります。これまでお付き合いくださり、心より御礼を申し上げます。

*   *   *

10月、気温が下がって秋らしくなるといつも思い出します。オヤジが倒れた日のこと、そしてその30年後の京大検査入院のことを。今日はとっても内輪の話ですみません。

私がぼんやり大学受験を考えはじめのは高校3年生の夏休み明けでした。それまではサッカーがすべて。朝から夕方までボールを蹴っていました。疲れきってろくに勉強したこともないんですから、受験しても恐らく失敗して浪人だろうなあ、と想像していました。その頃、車を運転して帰宅したオヤジが腹痛を訴えて救急搬送、自分の中で大きな変化がありました。

翌日、家業テーラーのお客様でもある総合病院の外科部長から「見ておきなさい」と切除したオヤジの十二指腸を見せられました。広げて見せたくれた十二指腸は大きい穴がいくつもあり、複数の穴はストレスが原因との解説でした。このとき、オヤジが死んだら浪人なんてできなくなる、やったことがなかった猛勉強をここから開始。2カ月半は寝る間も惜しんで受験勉強、どうにか大学3つ合格しました。担任の先生もこの結果には驚いていました。

当時オヤジはテーラーを地元で開き、同業の仲間と別の紳士服事業を県内他都市に開き、百貨店の名古屋店と大阪店ではイージーオーダー納入業者として走り回っていました。弟子に任せたらいいのに、お客様の型紙制作とカッティングは必ず自らの手で行う。大半のお客様はお隣の愛知県、ご自宅に伺って最終フィッティングですから休む間もなく働きっぱなしでした。

無理がたたって急性十二指腸潰瘍と腹膜炎併発の手術、このとき受けた輸血が原因でB型肝炎、のちにC型、肝硬変、肝臓癌と悪化、入退院を繰り返しました。三人の子供を大学卒業させるまではと病と闘いながら仕事も頑張ってくれました。近年、予防接種などが原因でC型肝炎になった人を救済するテレビCMが頻繫に流れていますが、当時はそんな救済策はありません。「運が悪かった」と諦めるだけでした。

学生時代、帰省した日にも救急車が我が家に。痛いおなかを押さえながら「おまえはいったい何になりたいんや」と訊くので「マーチャンダイザーになりたい」と答えたら、「それはどういう仕事なんだ」。そんなやりとりをするうちに救急車が到着でした。ロンドンのサビルローに修行に出し、将来テーラーを継いで欲しいというオヤジの願い、でも私はニューヨークに渡ってマーチャンダイジングを習得する道しか考えていませんでした。

オヤジの弟子のご縁で晩年は京都大学の先生に肝臓癌の定期検査をしてもらうことになりました。当時から京大は免疫療法でも有名だったので、オヤジに京都行きを勧めました。季節はちょうど気温が下がり始めたいま頃、結果的に生涯ラストになった定期健診でした。珍しく入院が長引くことになり、京大病院の真ん前の旅館にオフクロを宿泊させ、我々兄弟は順番に京都に様子を見にいきました。

そして1月下旬、オヤジは肺炎に。院内感染でしょう。見舞いに行ったら、呼吸用の管を入れられ意識がもうろうとする中、力を振り絞って書いた「にいちゃん、ありがとう」のメモを渡されました。字が綺麗なオヤジでしたが、まるで幼稚園児が書いたような字、これが絶筆です。私が京都から東京駅に着いたところで訃報、逝く瞬間は傍にいてやれませんでした。でも悔いは全くありません、絶筆をもらったんですから。

テーラー廃業したあとも、オヤジは生地をなるべくカットしないパターンで重量感のない着やすい服の研究を続け、自らパターンを引いて自ら縫ったジャケットを我々に送ってきては「どうやった?」と感想を聞いて喜んでいました。私に代わって一度家業を継いだのちデザイナーアパレルで生産管理をしていた弟に何かを伝えたかったのかもしれません。オヤジと弟はメンズブランドのパターン改良研究を廃業後も保存していた大きなカッティングテーブルでやっていましたから。

縫製は自転車の運転みたいなもの、しばらく乗らなくても操作を忘れることはないけれど、パタンメーキングは自動車の運転と同じ、しばらく乗らないと腕が鈍る。オヤジから何度も聞いたセリフ。だからでしょうか、その職人魂から引退後もずっとパターンを引いて研究していました。衣食住どんなジャンルでも研究熱心なベテランは年を重ねても進化する、死ぬまで研究するテーマがあってオヤジは幸せでした。

子供の頃、オヤジはとても厳しく怖かった。うちの若い職人たちを叱り飛ばす、あるいは鉄拳シーンを何度も見ました。勉強しない私にも容赦なくゲンコツ。さらに、最悪の教育パパ、「勉強しろ」としか言わなかったので正直言って煙たい親でした。勉強せずサッカーに没頭したのもオヤジへの反発かな、と。

大学卒業後の進路では意見が分かれ、私は長男でありながら「分家」にされ、渡米前に親戚縁者を集めて分家の儀式もありました。だから、オヤジの告別式では弟が家族を代表して参列者の皆様にご挨拶しました。発病後も仕事を続けるオヤジを弟は傍で助けたので、オヤジは命を縮めずにすみました。わがファミリーにはありがたい弟です。亡くなってからオヤジの生き方を理解できるようになりました。われわれのために精一杯働いてくれたオヤジのおかげでいまの自分がある、といまではしっかり自覚しています。

紺屋の息子が洋服屋になりたいと修行に行き、のちに東京洋服専門学校(テーラーの後継者の多くが学んだ学校)でパタンメーキングの勉強、終了後はそこで講師。そして徴兵されて激戦のインパール作戦。終戦後数年はビルマ(ミャンマー)の収容所で暮らしました。祖父の手元にはなぜか戦死通知が届いたそうですが、祖父は息子の無事を信じて洋服地を大量に買い込み、いつ帰還してもすぐテーラーが開業できるよう蔵に積んでいたそうです。

私はマーチャンダイジングのプロを目指して渡米、8年間ニューヨークで取材活動をして帰国、いろんな仕事をさせていただきました。カエルの子はカエル、ずっとファッションに関わる領域でキャリアを積むことができました。マーチャンダイジングの基本を日本の業界に広めたい、と人材育成にも情熱を傾けました。教え子はいつの間にか数千人、でもどこまで私の指導が浸透したかはわかりません。彼らがマーチャンダイジングの基本に忠実に仕事をしてくれたらなあと願っております。


これからもショーや展示会の視察は続けます(写真は本日お邪魔したANREALAGEの展示会)。マーチャンダイジングの指導はライフワーク、ずっと続けます。が、もうブログにアップすることはありません。長い間、ありがとうございました。







Last updated  2021.10.23 10:29:18



© Rakuten Group, Inc.