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カテゴリ:ファッションビジネス
大分類をやり直して1階から5階までを全面改装、ゼロに等しかったパリコレ人気上位ブランドを一気に導入し、2001年春「+F」をキャッチコピーに新生松屋はオープンしました。売り場で古屋社長夫人が「本当に松屋は変わったんですね。お友達に胸を張ってお買い物に来てねと言えます」と笑みいっぱいに声をかけられたことをいまも鮮明に覚えています。
大改装とオープニングでは外部のグラフィックデザイナーとディスプレイデザイナーに協力してもらいました。外壁LED照明でぼんやり街を照らすアイディアはグラフィックの原研哉さんのアドバイスです。古屋勝彦社長はこの二人にお礼がしたいと系列のイタリアンレストランで会食がありました。 最初にシャンパンで乾杯したあとテーブルに2本赤ワインが運ばれてきました。お二人の誕生年(1950年代)に醸造された超年代ものワイン、古屋さんはユーモアいっぱいに「みんなで飲んだら記念にボトルだけ差し上げます」。こういう配慮をサラッとなさる人でした。 「平成おじさん」として有名な小渕恵三さんは「ブッチホン」と渾名されるほどの電話魔、学習院中等部の同級生だった古屋さんにもよく電話がかかってきました。どうして仲良しだったのか、小渕さんのWikipediaを読むと想像がつきます。小渕さんは群馬県の製糸業の次男、軽井沢に疎開中だった学習院の教授の勧めで学習院中等科に編入するため東京北区王子に引っ越し。Wikipediaには以下の文章があります。 ところが、学習院に編入したものの、周りは名家の子息ばかりだったことから、地方出身の小渕にとっては決して居心地の良い環境ではなかったらしく、クラスメートからはいじめの対象となり、「群馬」という渾名を付けられていたという。 恐らく古屋さんはいじめられていた小渕少年の数少ない友人だったのでしょう。小渕さんが都立高校に進学したあと亡くなるまでずっと親交がありました。 ![]() 古屋勝彦さんの近影 小渕総理大臣が急逝した直後、社長室に呼ばれました。「小渕が死んで娘さんは大変だろう。長女はアーティストなんだよ、研究所でしばらく面倒を見てやってくれないか」。小渕暁子さんは東京生活研究所のリビング雑貨チームのコーディネーターとして働くことになりました。総理大臣の娘さんとは微塵も感じさせない人柄、デザイナーらしくセンスの良いスタッフでした。 次女の小渕優子さんが初めて衆議院議員選挙に立候補するときも、研究所のファッションディレクター関本美弥子に「選挙に出る女性候補者に相応しい服を一式見繕ってやってくれ」と連絡が入りました。関本は、派手な原色を好む国会議員のおばさまたちとは違う、でも地味ではないシックな服を選挙用に選びました。友人の子女のことを心配する優しい人でした。 また、こんなこともありました。社長室に呼ばれ「僕の(学習院大学)後輩が帯広で百貨店をやってるんだが、ブランドの交渉なんかで苦労してる。助けてやってくれないか」。私はすぐ帯広市の藤丸百貨店に出張、藤本社長からヒアリングしてわが研究所で応援することになりました。松屋ニューヨーク研修に藤丸の若手女性社員を参加させてマーチャンダイジングのイロハや売り場の見方を教え、社員を帯広に駐在させてお手伝いしました。 松屋の前社長山中さん(東武百貨店会長)が亡くなったあと、松屋がお得意様のために企画した屋久島クルージングに古屋さんは山中夫人をお誘いしました。ご主人を亡くしてさぞ寂しいだろうから気晴らしに奥様をお誘いしてくれ、古屋さんの気遣いでした。 私の兼務が終わったあとも古屋さんからいろんな相談がありました。「ちょっと来てくれないか」と呼び出されたら、「こんなものが内容証明付きで届いたんだけど、どう対応すればいいと思う?」。あるヨーロッパブランドのジャパン社から、本社(多くの外資系とは本国と交渉していた)が松屋と結んだ契約を修正したいと既存の契約書のあちこちに赤ペンを入れ、ジャパン社に有利な更改案が届いていました。これにサインしてくれたらさらに長期契約を約束するとありましたが、内容証明付きとはあまりに挑戦的な姿勢でした。 そのまま封筒に入れて内容証明付きで送り返してはどうでしょう、仮に決裂してショップがなくなってもいいじゃないですかと進言したら、いつも通りのセリフ「わかった」。腹の座った経営者だからブランド側と決裂しても慌てないはずなのでそう進言しました。後日古屋さんから連絡があり、「先方が謝りに来たよ」と嬉しそうでした。サラリーマン体質の百貨店社長ならビビって更改案にサインしたでしょうね。 ![]() 社長のリーダーシップで銀座らしい百貨店に 幕末若い下級武士を活用して徳川幕府を倒した薩摩藩と長州藩の藩主は性格が対照的だったと言われています。薩摩の殿様は自分自身で次々命令を出して西郷隆盛ら下級武士を動かした俺について来いタイプ、一方長州の殿様は桂小五郎ら家臣の意見に対して異議を唱えることなく「うん、そうせい」と返した部下に任せるタイプだったとか。古屋勝彦さんは明らかに後者の殿様、進言にはいつも「わかった」でした。 私はそんな殿様に拾われた若い下級武士、気を遣ってくれる優しい人柄だったので気持ちよく仕事できました。心よりご冥福をお祈りします。 ーーこの章おわりーー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.02.16 18:17:20
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