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Nobuyuki Ota

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2019.09.14
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パリコレを四半世紀以上にわたって牽引してきたフランスモード界の寵児ジャンポール・ゴルティエさんが久しぶりに来日、ゴルティエ展覧会のオープニングレセプションが昨日開かれました。冒頭の挨拶で、「オンワード樫山に採用されなかったら、今日の私はなかった。当時、服をつくるにもお金が全くなかったから」、と。どんなに有名になろうが恩を忘れない、だからゴルティエさんはみんなから愛されるスーパースターなんですね。



1970年代中頃、オンワード樫山は国内アパレル有数の企業に成長、パリの高級紳士服合同展示会SEHMに参加することになりました。せめて会社の名前くらいは来場バイヤーに覚えてもらおうと、SEHMのブースでシャンペンをふるまったそうです。結果は受注ゼロ。パリ駐在所長の中本佳男さんは創業者の樫山純三さんに報告したら、「紳士服がダメなら婦人服でやってはどうか」と自社婦人服ブランドの海外販売を命じたそうです。

このとき中本さんは(紳士服メーカーとして成長したから)婦人服はもっと厳しいでしょうと答えたら、樫山さんは「どうすれば売れるようになるんだね」。パリのことを知っている優秀なデザイナーを採用する以外に方法はありませんと答え、パリに戻ってさっそく若いフランスのデザイナー30人ほどを面接、ほぼ候補者を絞り込んだところに面白い若者がやってきました。まだ無名のゴルティエ青年でした。あの頃のパリは超人気だったケンゾー風、クロード・モンタナ風やティエリー・ミュグレー風を描く若いデザイナーばかり、でもゴルティエは◯◯風ではなく独特のデザインだった、と中本さんから伺いました。



無名の若者、ギャラはかなり安かったそうです。工場に職だしするとき、従業員がほとんどいなかったのでゴルティエ青年と中本さんは二人でボタンの数を数えて袋詰め。大きなショーをやるにも本社から与えられる予算は限られている。そこで、中本さんは知り合いのデザイナーたちに「みんなで仮設テントを建てて施工費を割り勘にしないか」と説得して歩き、大型テントでのショーが始まりました。

シーズンを重ねるごとにゴルティエの評価はうなぎ登り、気がついたら人気ナンバーワンの地位に。当時のオンワード樫山婦人服担当役員のTさんから「経費の追加を何度も要求され、中本は全部ゴルティエにつぎ込んだ」と伺ったことがあります。その甲斐あってパリコレの代表的ブランドに成長しました。

本社からの送金で最大のつかい道は、ギャラリー・ヴィヴィエンヌに建てたジャンポール・ゴルティエ直営店の施工費、そしてその盛大なオープニングパーティーだったでしょう。開店日は周辺の道路を封鎖(よく警察が許してくれましたね)、会場にはメリーゴーランドが設置され、道路のあちこちで大道芸人がパフォーマンス、私がこれまで見たどのストアオープニングよりも規模は大きく楽しかった。

昨日、ゴルティエさんに、「あのオープニングのとき、あなたはスカートをはき、中本さんは紋付袴だったことをはっきり覚えています」と話しかけました。あのときの紋付袴の中本さん、滅茶苦茶カッコ良かったなあ。それから数年後に中本さんはオンワード樫山を離れ、リボンのMOKUBAのフランス進出などを支援、短期帰国中の健康診断で癌が見つかり、その3ヵ月後日本で亡くなりました。パリに行くたびいろんなことを教えてもらい、私は日本の業界リーダーを彼に紹介した関係だったのでとてもショックでした。



東京都とパリ市は姉妹都市、毎年交互に文化交流イベントを開催しています。歌舞伎、大相撲や日本の花火などがパリで行われたりしますが、1988年にパリ・オートクチュール協会から大きなファッションイベントを東京で開催して欲しいと頼まれ、1989年日本武道館で大規模なイベントFIMAT(東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、東京ファッションデザイナー協議会の4団体共催)をやりました。私は現場責任のプロデューサー、このときフランスのデザイナーではゴルティエさんただ一人FIMATに来てくれました。なので昨日は30年ぶりの再会でした。

FIMAT当日、日本武道館にはゴルティエファンが殺到、警備員が彼をガードできずパイプ椅子が数脚倒れるなど大混乱、武道館側から私は厳重注意を受けました。なんと言っても当時ジャンポール・ゴルティエはパリコレ人気ランキングで第一位をずっとキープしているトップブランドでしたから。また、あの頃、服飾専門学校の学生たちはゴルティエのプロジェクトに関わりたくて多数オンワード樫山の新卒採用に応募したそうです。



昨日も展覧会会場に熱烈なゴルティエファンが駆け付け、ゴルティエさんは彼らに手を振ったり、握手したり、一緒に記念撮影したり、終始ニコニコ顔で応対していました。人柄ですね。このイベントに合わせてゴルティエさんが過去のコレクションから選んだ数点(下の写真はそのスケッチ)を再現した商品には特別な織ネームがついています。ゴルティエファンにはたまらないでしょうね。



EXPANDING FASHION by JEAN PAUL GAULTIERの詳細は以下のサイトでご覧ください。
https://www.kashiyamadaikanyama.com/

会場:KASHIYAMA DAIKANYAMA(渋谷区代官山町14-18)
本日夕刻、トークイベントにゴルティエさんは登場です。






Last updated  2019.09.15 00:16:05
2019.09.02
建築家の平沼孝啓さんに誘われ、昨年の伊勢神宮大会に続いて今年も「建築学生」(主催NPO法人アート&アーキテクトフェスタ)ワークショップの最終発表会に参加しました。今年の会場は島根県出雲大社の境内。これまで高野山金剛峰寺、比叡山延暦寺、平城京跡、琵琶湖竹生島、明日香村古墳、伊勢神宮と歴史的な場所で開催されてきましたが、今回は日本神話の聖地、私には初めての訪問でした。

このワークショップは全国の大学、大学院から応募して選ばれた学生たちがランダムにグループ分けされ、開催地の歴史や風土、文化、地場産業などをまず調べ、設計するフォリーのコンセプトをグループで話し合います。次にデッサンを描き、中間発表でプロの建築家や構造家のチェックを受けて修正、途中グループ内で激しく議論するようです。

最後に現地に乗り込んで約1週間合宿しながらフォリーを製作、プレゼン当日一般の方々にもお披露目します。フォリーの製作には地元建設業者の方々が素材の加工や技術面で献身的にサポート、事務局運営は応募してきたボランティアの若者や学生さんたち、手作り感満載のイベントです。

大学でも教鞭をとっている建築家や構造家の先生方の熱血指導も実に素晴らしい。中間発表、公開日前日の施工時も熱心に指導され、ときには学生と一緒になってフォリーを組み立てる先生もいます。自分の学校の学生でもないのに、まるで担任の先生みたいに。そして当日プレゼンでの、超辛口なんだけど愛情たっぷりの講評、これが非常に感動的なんです。

  

  

今年の出雲大社は、日本書紀にも登場する国つくりの原点。祭祀を行うトップの名称が一般的な「神主さん」ではなくて「国造(こくそう)さん」と呼ぶ、読み方変えたら「くにつくりさん」、しかも千家さんと北島さんと2つの家が代々務めてきました。ネット解説によれば南北朝時代に2家に分かれたんだとか。大きな屋根、言い伝えられる長い階段(出雲大社見学が初めての私は長〜い階段があるものと想像していましたが、実際は違いました)、それらを支える巨大な柱、巨大しめ縄、石州瓦、ほかにもこの地方には因幡の素兎や神在月(神無月に全国の神様がここに結集するので)の逸話があります。これらを学習して参加学生はデザインしています。

  
   (最優秀賞)

8つのグループは合宿の宿舎でもあった公共施設で自ら材料を加工し、組み立て実験をしてから会場の出雲大社境内に搬入、自分たちが選んだ地点にフォリーを建てます。建てながらあれこれ修正を加え、どうにか発表の前日に完成させます。発表当日、まず講評者が8つのフォリーの前で各グループから製作意図や苦労をヒアリング、そして審査会場に移動して学生のプレゼンを受けます。グループ長はテーマを決めた理由、原材料選択や製作の苦労話をデッサンや模型を見せながら発表、1グループごとに講評を受けます。

そして、今年最終的に最優秀賞に選ばれたのはは、木材をボルトで止めたフォリー(写真上)を製作したグループ、写真のように建島哲さん(多摩美術大学学長)から賞状を贈られた3人組でした。メンバーはたったの3人、グループ発足当初は他のグループ同様5人のメンバーでしたが、作業が進行する途中で意見が対立して2人が離脱、残された3人でなんとか作り上げました。ワークショップ世話人である平沼さんは、上級生が抜けて分裂状態になってしまい、場合によっては他のグループにメンバーを吸収させようかと思っていたとか。3人でよく頑張りましたね。

  
   (最優秀賞の学生たち)

惜しくも次点は薄い鉄板で(写真下)組み立てたグループでした。実は途中休憩の時間にこのフォリーを巡って講評者の間でちょっとした議論がありました。鉄板使っていいのか、鉄板加工処理の問題、構造物としてどうなのか等々。私も採点時に最優秀賞のグループに最高点を入れようか、それともこの鉄板グループにしようか迷いました。が、私も鉄板フォリーのグループは減点、理由は2つあります。

  
   (第2位)

プレゼンでは、製作中に鉄板で腕や指に怪我をする苦労がありました、と。怪我をしてまで頑張ったんですから立派なんです。でも、このフォリーはそれほどに危険な箇所があります。当日境内を走り回る一般参拝者のお子さんたちが怪我をしないような工夫が施してあれば拍手なんですが、それはありませんでした。仮にここでお子さんが怪我をして救急車で運ばれたら、会場提供の出雲大社に大迷惑がかかります。建築家はひとりよがりではダメ、と私は思います。

もう一点、この鉄板のトンネルは本殿に向かってだんだん狭くなっています。個人的にこれがどうにも納得できず「向きは反対では?」と質問しました。これに対して、トンネルをくぐる参拝者が歩き進むうちに気持ちが本殿に集中できる、と説明がありました。参拝者を起点に考えればそれもありでしょうね。

しかしながら、出雲大社本殿の大きなオーラ、御利益をトンネルを行く参拝者がありがたく受け止める、つまり起点を本殿に置いて考えれば、本殿側が広く入口側が狭い設置方法ではないでしょうか。建築にも宗教にも見識のない私の全くの個人的な意見です。


大社を軸に考えてフォリーを設置するか、それとも参拝側(あるいは製作者側)を軸に考えるかによって、設置ポジションは違います。もちろん、どっちでもいいじゃないかという意見もあるでしょうが、日本神話のルーツでもある聖地に建てるフォリーならば大社を心より敬い、「大社ファースト」で設計あるいは設置すべきじゃないかと思うのです。

だから、このフォリーの存在感、製作の苦労は十分認めながらも、作り手の自尊心みたいなもの(言い方もあるでしょうけど)にちょっと嫌気がさして最高点を入れませんでした。将来建築家を目指す若者には「作り手ファースト」には絶対にならないで欲しいのです。住宅で暮らす人、建物で仕事する人の立場になってデザインを考案して欲しいなあ。

  
   (布で出雲の雲を表した作品)

最後のプログラムは講評者の総評。私は建築の専門家ではないので、「ファッション同様、造形力だけではダメ。美しいものにはワケがある」を説明しました。美しいもの、感動させるものには境内を歩く参拝客のお子さんたちもが寄ってきます。お子さんたちはフォリーをただの遊具と思うかもしれませんが、彼らにとって魅力的なものにしか集まってきません。人を惹きつける美しいものを学生さんには将来建築家として作って欲しい。

それともう一点、布を壁素材として使用しているグループが2つあり、苦言を。どちらも生地の活かし方に工夫が足りません。布の材質(雲を表すならもっと透けた布を)、布の裾はフラットなカット、これでは面白くも何ともない。布をランダムに切るも良し、ドレープやシワを施して切り刻んでも良し、布の貼り方を工夫し留め金が見えない処理も考えて欲しかった。布は木材、竹、鉄板と違って柔らかいので自由自在、だからこそ自分たちの手でいかようにも変形させられます、と。

  
   (来年開催予定の東大寺)

来年、建築学生ワークショップの舞台は大仏様で有名な奈良東大寺です。東大寺のお坊様は昨年伊勢神宮、今年出雲大社にいらっしゃいました。ご自分の目でイベントの様子を確かめ、奈良時代から続く由緒ある場所を提供するに値するイベントなのかどうか、トラブルが起こらぬよう特にどこに何に配慮しなければならないのか確認なさっていたのでしょう。でも、非常に前向きに考えていらっしゃいます。

挨拶のスピーチで面白いことをおっしゃっいました。今回のフォリーの中に大きなしめ縄のような藁使いの作品がありましたが、「東大寺なら鹿が藁を食べてしまわないか心配ですが....」、と。これには場内大笑いでした。きっと来年も東大寺そのものや奈良の歴史、文化を調べ上げ、ユニークなフォリーが数体境内に登場することでしょう。

それにしても、平沼さんはじめこのワークショップを手弁当で支えている建築家、構造家の先生たちには本当に頭が下がります。よくここまで親身にできるなあ、です。また、ボランティアでこれに関わる若者や現役学生の皆さんも立派、その献身的な姿勢を見ていると誰もが応援したくなります。参加する建築家予備軍はここで貴重な体験を積み、それが血となり肉となるはず、素晴らしい試みです。

昨年も思いました。ファッションの世界にもこんな素晴らしいワークショップ型のイベントがあったらなあ、羨ましいです。事務局ボランティアの皆さん、熱き指導をなさった先生方、数ヶ月ワークショップで経験積んだ建築学生の皆さん、そして出雲の協力者の方々、ホントにご苦労様でした。






Last updated  2019.09.03 00:51:00
2019.08.22
数年前、マツダがロードスターのリモデルを進めていた頃、広島本社工場を視察する機会を得ました。本社隣接のミュージアムでまず歴代車種を見学、次に開発担当から同社のものづくりの考え方や新型ロードスターのプロセスなど説明があり、工場見学もさせてもらいました。そのあとテストコースでの試乗会、でも私は免許を持っていないので乗れませんでした。

この視察時いろんな驚きがありました。

  


その1、ミュージアムの展示品。入口に飾ってあったのは最初に開発した自動車ではなく電機メーカー(確か東芝)の白熱電球、その名も「MAZDA」でした。ゾロアスター教の経典に由来するネーミングだそうです。マツダの英語表記が、"MATSUDA"ではなく"MAZDA"になっている理由はこの電球にあると初めて知りました。

その2、カーデザインの原点。デザイナーによると、世界の名車ランボルギーニのデザインは究極のミニマリズムだとか。前輪、ドライバーの頭部、後輪の3極を結ぶ線の内側にエンジンなどすべての部品が収まるのがカーデザインの理想。ドライバーシートが倒れていればドライバーの頭の位置は低くなり、3極を結ぶ曲線は緩やかになって流線型ボディになります。ドライバーの頭が高い位置にセットすれば曲線は勾配があってボックス型ラインになります。カーデザインをする立場から見て、ランボルギーニは3極を最短で結ぶ理想の流線型と伺いました。

その3、顧客マーケティングからの結論。消費者アンケートをしたところ、マツダを愛用するお客様は車に燃費とか買い替え時の下取り価格なんてことは期待していなかった。期待されているのはドライブしていて楽しい、つまりCMのセリフのように「FUN TO DRIVE」と判明。トヨタなど大メーカーには燃費や下取り条件を期待するそうです。お客様は意識しているものと勝手に想像していたことが、実は違っていた、お客様はドライブ以外余計なことはマツダに期待していなかった。このズレがわかったことでマツダはふっきれ、楽しいドライブの提供こそがマツダの使命と考えるようになった。

その4、デザインの工程。IT時代ですからカーデザインは最初からコンピュータグラフィックと思っていましたが、マツダのデザイン現場はプリミティブな仕事ぶりでした。最初に自動車には全く関係ない彫刻オブジェを粘土で、次に金属で成型します。このオブジェ、美術館に展示したら一般的彫刻作品と思うでしょう。そのオブジェでカーデザインの基本ラインを決めます。それをもとに、ここから実際の車体を粘土で作っていきます。電子レンジで粘土を温めてボディに貼り付け、粘土が冷え固まったらカンナのような道具で削ってミリ単位の調整が始まります。この作業を繰り返すうちに粘土の車体が完成、それを今度は鉄板に置き換える。いまも原始的な作業の繰り返しの中からデザインが決定している、意外でした。

  
   (ROADSTAR)

前職でセミナーで全国を回るとき、世界に日本の商品を売るならブランディングが最も重要と言い続けました。「性能良い割に安いんです」、「品質良い割に安いんです」、これまで日本企業の多くはこのセリフで世界市場を攻めてきました。しかしこれからは「カッコイイから高いんです」、「品質良いから高いんです」を主張しなければ世界では売れない、と。そのためにはブランディングが重要です。

燃費が非常に良い、下取り価格が高い、お値段リーズナブル、でも一目見てどの自動車メーカーの車なのかはわからない。そして1社でたくさんブランド(車種)があり、その違いははっきりしていない。つまりブランド戦略があるのかないのか、これがこれまでの日本です。

一方、ドイツの高級セダンやイタリアのプレミアムスポーツカーはどうでしょう。シリーズ名はいくつもありますが、メスセデスのブランド名はメルセデスベンツ1本、BMWもアウディも同じですよね。メルセデスはそれぞれ大衆車価格のものからラグジュアリー価格まで販売していますが、ブランド名は1つです。ベントレー、ジャガー、フェラーリ、ランボルギーニも同様にブランド名は1つ、そして車体の「顔」も1つ、会社のマークがなくてもどこの車か誰の目にもわかります。

日本の自動車メーカー、軽自動車メーカーはどこもブランド数はたくさんありますが、どれも車体に特徴的な「顔」がありません。軽自動車で言うなら、目の前を通過した車がスズキ、ダイハツ、ホンダ、三菱のいずれかは車に付いている会社ロゴを見なければわかりません。ロゴを見なければどの会社の商品かわからない、言い換えればブランドになっていないんですね。(巻末注:いかに車種が多いか)

  
   (MAZDA3)

日本のパソコンも携帯電話もそうでした。パソコンなら会社ロゴを見なければ、携帯電話であればシリーズ番号の頭に付いているN、F、P、T、SHなどの記号を見ないと、それがNEC製なのか、富士通、パナソニック、東芝、シャープ製なのかはわかりません。一見して製作社名がわからないものは特徴のあるブランド商品とは呼べず、日本のパソコンや携帯はブランド品ではなかった。だから勝ち残れなかったとも言えます。

ブランド品でなければ、市場で競争が激化すると価格だけが論じられ、やがて値段の高いものは淘汰されます。しかし競合他社よりも値段が割高なAppleコンピュータやiPhoneがシェアを広げることができたのは、ブランド品としての地位を確立したから。「カッコイイ割には安い」路線に行かなかった、これが成功要因ではないでしょうか。

久しぶりにマツダ本社からカタログが届きました。カタログを見ながら、いまマツダはこれまでの国内自動車メーカーとは違う路線、ブランディングの道を突き進んでいると思いました。最近テレビCMでMAZDA 2やMAZDA 3を見かけますが、いよいよマツダは「MAZDAの顔」を明確にしようとしているんだなと感じます。従来のように車種ごとにバラバラな名称、バラバラな車体の顔ではなく、ブランド名はMAZDA1本、車体の顔も1つにして、世界で堂々と戦って欲しいですね。



(注) カーマニアでなければ見分けられないくらいに車種多い日本。

トヨタの主な車種
カローラ、カローラスポーツ、プリウス、アクア、ヴィッツ、パッソ、マークX、カムリ、クラウン、レクサス、センチュリー、スープラ、ハリアー、ノア、タンク、スペイド、ボルテ、ルーミー、アルファード、ヴェルファイア、ヴォクシー、エスクァイアー、エスティマ、シエンタ、86など。

日産の主な車種
デイズ、ノート、マーチ、キューブ、ジューク、フーガ、シーマ、シルフィ、ティアナ、スカイライン、フェアレディZ、GT-R、エクストレイル、エルグランド、セレーナ、NV200バネット、e-NV200など。






Last updated  2019.08.24 14:13:47
2019.08.20
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CFDから一般企業に転じて以降しばらくの間、霞が関との関係がなくなりました。経済産業省のファッション関連の諮問会議に出席していたときの所管は「繊維製品課」、しばらく役所とは没交渉だったのでファッション関連の所管が「繊維課」になったとは知りませんでした。

 

ある日ビジネススクール設立時にお世話になった方からセミナー講師を依頼されて出かけたら、もう一人の講師がたまたまその繊維課の課長でした。山本健介課長と名刺交換したらその後電話があり、「お手間とらせませんからちょっと協力してもらえませんか」、と。繊維課が進める繊維製造中小企業の自立支援事業の審査でした。

 

沖縄返還の犠牲になった日本の繊維産業(日米繊維交渉によって対米輸出できなくなった)への補助金の余剰が150億円程度あり、これを産元商社やコンバーター依存から脱却して自ら販売チャネルを開拓する勇気のある中小企業を支援するプロジェクトでした。地方の組合や繊維の団体への補助ではなく、ストレートに個別企業に補助金を渡す、そのことで繊維業界の構造改革ができるという計画、その民間審査員をして欲しいと頼まれました。

お役に立つならと引き受けましたが、
これが大変な重労働、「お手間とらせません」なんて簡単なもんじゃなかった。各審査員には審査対象の中小企業およそ50社分の資料が段ボール5箱程度届き、各申請者の自立事業計画と過去3年の決算書類の分厚いファイルを読んで細部に点数をつけ、そのあと各審査員がつけた点数の上位企業経営者の面接、とんでもなく手間と時間のかかる作業でした。

 

しかも、国のお金ですから責任重大、審査員はインチキ臭い申請を厳しくチェック、30分の経営者面接では本当にやる気があるのかどうか、成功しそうな事業かどうかを問い詰めました。中には補助金が出たら高級外車を購入しそうな経営者もいれば、日本のものづくりを支援する補助金なのに中国や東南アジアに建設する工場に当てるのが見え見えの申請もありました。面接のやり取りで怪しいと感じたらきっぱり「不合格」、本気で自立を計画している前向きな事業者だけを選びました。

 

自立支援事業の採点と面接は結局4年間お付き合いし、合計すると自分が担当した事業者の数十件に「合格」を出しました。この中にはいまも強く記憶に残っている事業者が数社あります。

 

オブラートのように超薄手で軽く透けているポリエステルを面接会場に持ってきた天池合繊(石川県七尾市)、1メートル4,000円の値段にはびっくりしましたが、羽衣伝説のような不思議な布は魅力的でした。自立事業採択後、米国デザイナーがディレクターを務めていたラグジュアリーブランドLがパリコレで、オペラ座の衣装担当クリスチャンラクロアがオペラのコスチュームで真っ先に起用しました。

 

第一織物(福井県坂出市)の高密度ポリエステルとナイロンの開発、こちらには3年連続して支援決定。一見ただの化合戦なんですが、手に取ると肌触りが素晴らしく、布の落ちが良くて美しかった。社長自ら海外ブランドに直接アポを取って売り込む姿勢はまさに自立事業そのものです。ダウンのリーディングブランドMを始め、ヨーロッパのトップブランドがアウター用素材に起用してくれるようになりました。

 

非常に魅力的なベロアを持ってきた青野パイル(和歌山県高野口)の社長さんとは面接後休憩時間のトイレでばったり。本当は名乗っていけなかったかもしれませんが、トイレで名刺交換し「うちにサンプルを送ってくれませんか」とお願いしました。当時私はアパレルの社長、部下のデザイナーたちにこの薄いベロアを見せてやりたかったのです。薄さとぬめり、肌触りが半端なかったです。

 

渡邊パイル(愛媛県今治市)の申請資料の中の「取引先」欄にはなんと我が社の名前がありました。面接に来た社長は私の顔を見てこの取引先の社長とはわからなかったようです。なので、すっとぼけて質問しました。「この会社、いくつかブランドがありますが、どのブランドとお仕事なさっていますか」、と。しかし社長の回答は「ブランドまではわかりません」。面接後に社に戻り「渡邊パイルに仕事頼んでいるのはどのブランド?」と調べました。

 

渡邊パイルは銀行の貸し剝がしにあって当時経営は楽ではなかった、と後年社長自身から伺いました。しかし自立事業採択後に新しい機械を導入、意欲的な素材開発を進め、いまでは世界に冠たるラグジュアリーブランドCにファッション用、雑貨用ともに素材提供しています。

 

先日、その渡邊パイルに出かけました。数年前にお邪魔したときにはなかった新しいショールーム、業績が急上昇していることがわかります。ここで同社の生地で作られたCのシューズを拝見。貸し剝がしに苦しんでいた地方の繊維製造会社がいまでは世界のトップブランドと取引を増やしている。もしもあのとき補助金が出ていなかったら、おそらく現在の活躍はなかったでしょう。

 
  

新ショールームの前で社長のお子さんと記念撮影しました。姉の有紗さんはロンドンのセントラルセントマーチン校から帰国、弟の文雄くんはニューヨークで米国デザイナーらに日本製生地を売る会社で経験を積んで帰国、二人とも父親の仕事を手伝っています。近年地方の製造業では後継者問題に悩む会社が多いと聞きますが、子供が二人とも家業を継承してくれる、なんと素晴らしいことか。

 

ほかにも、自立支援事業補助金によって自ら販路を開拓し、世界のビッグブランドに織物やニットを納入している繊維会社が増えました。補助金は珍しくちゃんと結果が出たのです。あの自立支援事業は繊維中小企業に向けた最後の補助金でした。審査員は厳しく審査したので20億円ほどあまりが出たので将来繊維業界のためにつかえると思っていましたが、政権が民主党に交代すると例の仕分けで「埋蔵金」と見なされ没収されたようです。

前職でも度々セミナーで申し上げました。いくらコストが上がろうが、値段が高くなろうが、他社にはできない差別性ある良いものをつくっていれば世界は必ず認めてくれます。そのためにはメードインジャパンの火を消さない、素材だけでなく日本のファッションブランドにも強い思いを期待したいです。







Last updated  2019.08.20 11:22:26
2019.08.15

8月6日、9日、15日は日本人にとって特別な日。今日15日は太平洋戦争が終わった記念日、あの日玉音放送を聴いた日本人は少なくなりました。戦後生まれの最年長がもう75歳、私も含めて多くの日本人は戦争を知らない世代です。

 

先日帰省したらあいにくテレビアンテナの調子が悪く、ほとんどテレビを観ることができず、この夏はYou TubeNHKの新「映像の世紀」などを観ました。戦争を知らない世代だからこそ知っておかねばと「映像の世紀」のビデオは全巻持っていますが、「新映像の世紀」はまだ観ていないものもあってYou Tubeで今年しっかり観ました。

 

ナチスから逃れてアメリカに亡命したアルベルト・アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に原爆製造を進言する手紙を書いたこと、そして戦後彼が湯川秀樹に原爆投下を謝罪し、原爆反対運動に走ったことくらいは知ってますが、知らなかったことがあまりにいっぱい。

 

フェルディナント・ポルシェ、ポルシェの創業者がヒトラーに命じられて設計した大衆車がフォルクスワーゲン(ドイツ語で大衆車の意味)、ワーゲンはナチス政権下の国有企業だったとか。しかし第2次世界大戦が始まるとワーゲンは民需の大衆車ではなく軍用車の製造にシフト。また、ポルシェは戦車の設計もナチスから依頼され、そのため彼自身は政治に関心なかったようですが、大戦後ナチス協力者の戦犯として投獄されました。

  
   (ポルシェ設計の戦車)

 

いまも世界で人気のあるポルシェですが、創業者はナチスに加担して戦車を設計、戦犯投獄されていたとは。自動車通の方ならご存知の話なのかもですが、私は先日映像を観るまで全く知りませんでした。ナチスとスポーツカーのポルシェ、なんだか意外な気がします。ファッションの世界でも、世界的人気の某ドイツブランドはかつてナチスの軍服を製造していました。

 

ケネディ大統領が唱えたアポロ計画を指揮したヴェルナー・フォン・ブラウンはナチスの下でロンドン攻撃のために弾道ミサイルを開発した工学者でした。ナチスの弾道ミサイル開発技術がのちにアメリカのアポロ11号月面着陸に活かされているとは、ヘェーです。月面着陸のニュースのときそんな報道ありましたっけ。まだ高校生だったので私は関心なかったのかもしれません。

  
   (フォン・ブラウンらが設計した弾道ミサイル)

ナチスの下で研究開発していた優秀なドイツ人工学者や科学者は戦後ソ連とアメリカが争奪戦、その後の両国の原爆、水爆、大陸間弾道ミサイル、ロケット開発競争激化の背後には元ナチス関係の学者の存在があったようです。彼らはどんな思いで兵器開発していたんでしょう。

アインシュタインの提案で進められたマンハッタン計画(原爆製造)、その責任者だったロバート・オッペンハイマーもドイツからの移民ユダヤ人の子供でした。ナチスのユダヤ人迫害の報には複雑な思いだったでしょう。自ら開発した原爆によって多くの日本人の命が奪われたことで、アインシュタイン同様原爆反対運動に走り、アメリカ政府からは危険人物としてマークされていたという話もあります。

 

戦後長らくアメリカは日本に航空機の製造を許可してくれませんでした。戦時中米国空軍はゼロ戦にさんざん痛い目にあったからです。もしもソ連とアメリカがドイツ人の学者を奪い合わなかったら、ボーイングに対抗する旅客機はいま頃ドイツ製だったでしょうし、日本も優れた旅客機を自前で製造していたはず。ドイツ、日本とも敗戦国だから仕方ないことですが。

 

昨夜はガダルカナル島の戦いをNHKの深夜放送で観ました。当初アリューシャン諸島アッツ島に配属されるはずでグアム島待機していた一木支隊に急遽ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還命令が下ります。この無謀な計画によって部隊全滅、長く作戦失敗の責任は一木清直大佐にあるとされてきたようですが、結局のところ陸軍と海軍の覇権争いと本部の戦略戦術のなさが原因。ご遺族にはあまりに気の毒なストーリー、一木大佐の娘さんの複雑な表情が印象的でした。

 

うちのオヤジが参戦したインパール作戦もこのガダルカナル奪還作戦の失敗も、戦後の企業活動で活かされていないような気がします。戦略なき根性論、勝算なき楽観論、失敗の隠蔽工作、ここ数年間に滅んでいった大企業は日本軍と同じ過ちですね。おそらくこれからも日本で同じような崩壊劇は続くのでしょうが、先人たちの失敗に学ばないといけません。

 
  
   (ガダルカナル島の玉砕)

戦争を知らない私たちはあの悲惨な出来事のことを書籍やドキュメント映像でもっと勉強すべき、そんな思いからあまり語られてこなかった戦前の日本やナチス台頭の背景の歴史書をたくさん読みました。が、それでもまだ知らないことがいっぱいあります。勉強、足りません。







Last updated  2019.08.15 17:36:21
2019.08.11

  ​
   (ヴィトラミュージアム正面、フランク・ゲイリー作)

ドイツの最南西部スイスとフランスとの国境に近い町ヴァイルアムラインにある家具のヴィトラ社の広大な工場敷地、ここにインテリアデザインの領域では世界で最も重要なヴィトラ・ミュージアムがあります。​

 

キャンパス正面にはフランク・ゲイリー(カナダ出身、米国拠点に活躍)設計のミュージアム、その左横には安藤忠雄設計の会議場、右横にはヘルツォーク&ド・ムーロン(スイス)設計のショップとカフェ、敷地後方にはザハ・ハディド(イラク出身、英国拠点に活躍)設計の消防署とアルヴァロ・シザ(ポルトガル)設計の工場と、歴代プリツカー賞(建築界のノーベル賞とも言われる)受賞アーキテクトたちの手による建物が並んでいます。

 

巨匠たちの設計した建物だけでも十分見応えありますが、一番はなんと言っても有名デザイナーやアーキテクトがデザインした家具や照明の収蔵物です。チャールズ&レイ・イームズ、ジョージ・ネルソン、ロン・アラッド、イザム・ノグチや倉俣史朗、柳宗理、SANAA(妹島和世、西沢立衛)らの作品がズラリ、展示公開している100年にも及ぶイスのコレクションは圧巻です。

 

​​ヴィトラ・キャンパスへはスイスのバーゼル駅からトラム、バスを乗り継いで行きます。例えて言うなら、荒川区から都電とバスを乗り継いで1時間ほど行ったって感じでしょうか。のどかな河口湖周辺の広大な敷地にモダンな建物群がドーンと現れたような印象でした。世界中から視察者が訪れるデザイン界の殿堂は、決して足の便がいい場所にあるわけではありませんが、「来て良かった」を実感できます。

  
   (ヴィトラのイスコレクション)

  
   (ちびっ子デザインワークショップも)

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なぜこんな不便なところに足を伸ばしたのか。それは近未来日本に建築ミュージアムをつくりたい一心だからです。ファッションの仕事をしてきた私がなぜ建築ミュージアムなのか。それは、プリツカー賞を受賞した日本人アーキテクトが7組8人(丹下健三、槇文彦、安藤忠雄、SANAA、伊東豊雄、坂茂、磯崎新)もいるのに、世界が認めたクリエイターの仕事をまとめて検証できる場所が国内どこにもないからです。

 

​数年前、青森県弘前市を初めて訪問したとき、市役所の方に案内されて前川國男が設計した古い建物を視察しました。前川は建築界の巨匠ル・コルビジュエの門下生、戦後のモダニズム建築の旗手として日本の建築界を牽引した人であり、丹下健三の師匠です。市役所の方に聞けば、弘前市には前川設計のものがいくつもある。調べたら、新潟県出身なのにどういうわけか前川が設計した建物は弘前市に7つもありました。戦後の日本建築界を牽引したアーキテクトの作品が東京から遠く離れた地方都市にいくつもあるとは知りませんでした。

  
   (前川國男設計の弘前市立博物館)

 

まずは設計者と建造物情報を集積して建築INDEXを作り、戦後の建築界を牽引したアーキテクトたちのことをもっと日本の若い世代に知らせたい。プリツカー賞8人と他国より飛び抜けて受賞者を出している一級国なのに、ニュートラルな(ここが重要です)建築ミュージアムがないのは情けないではありませんか。

 

プリツカー賞受賞者以外にも日本には世界でいい仕事をしているアーキテクトはたくさんいます。日本人アーキテクトの情報を集積し、彼らの仕事を検証できるイベントができる発信拠点をつくれば、世界の建築ファンや建築家予備軍を日本に呼ぶことができます。つまり建築はインバウンドの目玉になる強力な日本コンテンツ、と私は思います。

 

そんなことを友人、知人に話し、彼らとともに構想を練っていたら、賛同者が増えていよいよ具体的なプランを立てる段階まで来ました。このままうまく運べば、そう遠くない近未来、日本のアーキテクトを一堂に検証できる建築ミュージアムが足の便がいい都心部に誕生するかもしれません。私は建築の門外漢なので運営事業の基盤をつくるお手伝いしかできませんが….

 

規模はヴィトラ・ミュージアムには及ばないかもしれませんが、日本のアーキテクトの情報を一堂にまとめ、彼らのクリエーションを世界に向けてカッコよく発信できる拠点を何としてもつくりたいです。

 <文中敬称略です>







Last updated  2019.08.23 11:15:52
2019.07.24

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今月初めパリ出張の際にPRADAフォーブルサントノーレ店に立ち寄ったときのこと。ショップに入ってすぐの一番目につく棚とガラステーブルに新しいカジュアルバッグがズラリ並んでいました。販売員によると、2021年には従来からのナイロンバッグは完全に製造中止、今後はこの再生ナイロンに移行する予定と説明してくれました。長年PRADAのナイロンバッグを愛用してきた私にはちょっとショッキングな話。

帰国して顔馴染みのPRADA販売員にそのことを話したら、従来のPRADAナイロン廃止のことはまだ本社サイドから知らされていない、と。ちょっと意外でした。そこでサイトを開いたら、以下がもう記載されていました。

     *     *     *     *

  


Re-Nylonは、本当の意味で永遠に存続するものとして、「タイムレス」の概念を見直します。

Re-Nylonは、2021年末までにプラダのすべてのバージンナイロンを再生ナイロン繊維ECONYL®に転換することを最終目標とした、完全なるサステナブル化の実現に向けた大胆な取り組みです。そこには、社会への価値還元という考えを日常に取り入れながら、持続可能なバランスを目指す企業文化の促進に重点を置くプラダ・グループの姿勢が反映されています。

織物用糸を生産するアクアフィル社とのパートナーシップにより採用されたECONYL®は、海から集められたプラスチック廃棄物、漁網、繊維廃棄物を再利用、浄化して作られています。解重合と再重合のプロセスによって、ECONYL®の糸は、品質を損なうことなく無限にリサイクルできます。

意識向上と責任の重要性に対する裏付けとして、プラダRe-Nylonカプセルコレクションの売り上げの一部は、環境の持続可能性に関連するプロジェクトに寄付されます。またプラダは、ユネスコとのパートナーシップにより、数カ国の学生が参加するプラスチックと循環経済をテーマにした授業計画を実行し、学生にインスピレーションを与える教育活動を展開します。このプログラムのアプローチは学習と行動の2つを軸にしており、学生が考案した啓発活動が成果の1つとなる予定です。

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正直言って再生ナイロンはちょっぴりゴワゴワしてて個人的にはこれまでのPRADAナイロンの触感の方が好きです。が、地球環境のことを考えればPRADAの決断は受け入れなければならない、愛用者としては賛成しなきゃいけないんでしょうね。

昨秋サンフランシスコのEVERLANE店でも、サステイナブルなものづくりを目指すために近未来ポリエステルの起用を廃止するとうたっていました。また、今年に入ってフランス政府は売れ残り衣料品の廃棄を禁止と発表しました。これまで大量生産、大量販売、大量廃棄をしてきたファストファッションブランドまでもが一斉にサステイナブル路線にシフト、これからファッションの世界は捨てない、地球を汚さない方向にどんどん進みそう。

随分早くから地球環境の保全をうたってきたPATAGONIAのサイトを覗いてみました。ものづくりの姿勢や独自の労働環境の考えについて丁寧な記述がありました。

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化学薬品と環境インパクトのためのプログラム

パタゴニアのフットプリントの主要部分を占めているのが素材のサプライチェーンです。パタゴニア製品の製造には大量の水とエネルギー、そして化学薬品を要するため、サプライヤーの操業は環境や工場労働者、さらに消費者を保護するために管理されなければなりません。そこで世界中のサプライチェーンにおいて化学薬品と環境への影響を管理するよう、パタゴニアは化学薬品と環境インパクトのためのプログラムを開発しました。このプログラムは環境管理システム、化学薬品管理、廃棄物管理、水消費と排水、エネルギー消費、温室効果ガスやその他の大気排出の全側面をカバーし、地元の法律を遵守することだけでなく、最も厳格な国際消費者製品基準に遵守することを要求します。さらにベストプラクティスを実行するサプライヤーを環境に責任を持つサプライチェーンのパートナーとして認識することにも役立ちます。

パタゴニアの化学薬品と環境インパクトのためのプログラムはヒグ・インデックスの「施設環境モジュール」と「化学薬品管理モジュール」の両方を含む最新の業界全体をカバーするツールを利用し、〈サスティナブル・アパレル・コーリション〉や〈アウトドア産業協会〉の化学薬品管理ワーキング・グループなどすでにパタゴニアが投資する協同グループの仕事を活用します。

パタゴニアの化学薬品と環境インパクトのためのプログラムは2000年以来、私たちがブルーサイン・テクノロジーズと共同で取り組んで来た仕事を足場としています。パタゴニアは2007年には現在300社以上もの製造業、ブランドと化学薬品サプライヤーを誇るブルーサイン・システム・パートナーに公式に参加した最初のブランドとなりました。私たちはこれらの多くの会社がパタゴニアのサプライヤーであること、そして彼らが資源を節約し、化学薬品の影響を最小化することで環境への影響を継続して改善させてゆくというパタゴニアの忠誠に協調してくれていることを誇りに思います。

     *     *     *     *

昨日、あるテキスタイルデザイナーさんから、日本における再生繊維の現状と日本環境設計株式会社が推進する「BRING回収プロジェクト」のことを教えてもらいました。大手繊維メーカーが再生ポリエステルや再生ナイロンの工場を中国に建設してペットボトル繊維などの再利用を進めていたところ、中国政府が再生用原料の輸入を規制したため工場は完全にストップ、しばらく機械を動かしていないので錆ついてしまって工場の再稼働は難しいかもしれない、と。中国政府にすれば「資源ゴミを中国に送ってくるな」ということなんでしょうね。

    *     *     *     *

服の回収にご参加ください
BRING
とは?

世界中でつくられている衣料品、その6割(毎年約4500万トン)は石油由来のポリエステル原料でできています。BRINGは古着を服の原料にすることで、石油の使用削減に貢献します。
日本国内でも年間およそ170万トンの繊維製品が廃棄され、そのうちおよそ8割が焼却もしくは埋立されています。まだまだリサイクルは進んでいないのです。わたしたちはこんなかわいそうな繊維製品をリサイクルに繋げます!

BRINGは、繊維製品を地球の資源へとリサイクルするために、様々な企業同士が連携し、お客さまと一緒になって取り組むプロジェクトです。"リサイクルしたいお客さま""リサイクルしたい企業"をつなげ、リサイクル活動を広めたい、それがわたしたちBRINGの願いです。

プロジェクト参加企業は、お客さまが店頭などに持ち込んだ繊維製品を回収します。
回収した繊維製品は、使えなくなってしまった物は服のポリエステル原料やジェット燃料、バイオエタノールなどにリサイクルし、まだ使える物は寄付やリユースしています。
(日本環境設計のサイトより)

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中国での再生ができないとなると日本国内で再生ポリエステル、再生ナイロンの生産工場を造るしかありません。加えて、ストップ・ファストファッションの奨励、過剰生産の中止、廃棄処分やゴミを少なくすることはとても重要であり、我々も消費意識を変えないといけません。長い間、服や生地をバンバン捨ててきた日本企業、考えを改めないと取り残されてしまいそうです。

 







Last updated  2019.07.24 16:17:39
2019.07.14

  (マジソンアベニュー旗艦店)

いよいよそのときが来たか....。今日時事通信がバーニーズ・ニューヨークのチャプター11(日本では事実上の破産と訳される)申請検討を報じました。かつてお手伝いしたことのある個人てきには特別な店、複雑な思いでこのニュースを読みました。

2017年秋ニューヨークを訪れバーニーズ発祥の地7番街17丁目の新店に立つ寄ったとき、ほとんどお客さんのいない状況から、先は短いかもしれないなあと同行者に言いました。そして2018年秋シアトル出張の際、アマゾン本社シアトル移転の特需で賑わうノードストローム本店とは対照的に隣接バーニーズに人影は保tんどなかった。このとき破綻は時間の問題かな、と。

今日の報道、「破産申請を検討している」であって、これから救済の手を差しのべるグループが現れるかもしれないので破産が決まったわけではありません。1996年に一度破綻したときだって再建に手をあげた会社は現れましたから、まだ破産と決まったではないでしょう。が、全米小売業の現状を考えると、果たして救世主は登場するのだろうか、今度ばかりは楽観視できないかもしれません。

ニューヨークで仕事をしていた1981年春、バーニーズ・ニューヨークの三代目ジーン・プレスマン氏に頼まれ彼らと一緒に来日しました。当時バーニーズは7番街17丁目に1店舗の大型ファッション専門店、ここにTOKYOという名のインショップを作って日本人デザイナーを一挙に導入する計画でした。

このときジーンから3つのことを打診されました。(1)TOKYOに導入する日本のブランドの発掘、(2)バーニーズ日本進出の可能性を探る、(3)ジーンが手がけるアパレルブランドBASCO(元々はBARNEYS ALL AMERICAN SPORTSWEAR COMPANYの略。最初は自社プライベートレーベルだった)の日本パートナー探し、でした。

1つ目のジャパンブランド発掘は引き受けましたが、同店の日本進出とBASCOのパートナー探しは断りました。すでに日本に進出していた米国小売店ブルックス・ブラザーズ、ポール・スチュアート、J・プレスはトラッド専門店、コンセプトがはっきりしているから日本展開は比較的簡単。一方、バーニーズ・ニューヨークはトラッド売場もあればアルマーニなどデザイナーブランドの売場もある、どうやってストアの特徴を出せばいいのか私には想像できませんでした。BASCOもデザイナーブランドのように強い個性があるわけでなく、長く続くブランドとは思えなかったのです。

どういうルートでたどり着いたのか知りませんが、私の帰国後、バーニーズ日本展開では伊勢丹をうまく口説き落とし、新宿に1号店をオープン。と同時に600億円以上の米国出資を伊勢丹から引き出し、彼らはシカゴ、ビバリーヒルズなど全米各地に多店舗化を進め、この資金で現在のマジソンアベニュー旗艦店もつくりました。正直言って、「伊勢丹は危ないなあ」と思いました。ニューヨークのダウンタウン1店舗のファッション店、ブランド価値が600億円以上とはとても考えられませんでした。

伊勢丹が出資して多店舗化したあとバーニーズ・ニューヨークは破綻、創業一族は追われ、伊勢丹が大きなヤケドを負ったのはみなさんご存知の通りです。

  
  (7番街17丁目ダウンタウン新店入口)

  
  (人影がなかったダウンタウン店)

確か米国のファンドが経営権をとって一旦は再建しましたが、旗艦店のマジソンアベニュー店にはかつての輝きを感じられず、創業の地に出したダウンタウン店は閑古鳥状態、前述シアトル店は隣接ノードストロームとは賑わいの点で大きな開きがあり、このままでは両店とも存続は厳しいと予測してました。

長年「敵情視察」を多くの若者に教えてきましたが、売場はホントに正直です。売場調査のコツを覚えると、お店を歩きながら、「この店は近未来破綻するだろうな」と読み取れる、つまり売場は破たんをささやくのです。カルバン・クラインを発掘した高級店ボンウィットテラー(ティファニーの隣、現在トランプタワーの場所に本店)、その跡地に進出したフランスのギャラリーラファイエット、一時期百貨店のお手本と言われたブルーミングデールズ(一度破綻し、再建されて現在も営業している)もそうでした。売場が破綻近いことを教えてくれました。

直近では、あのワールドトレードセンター再開発後に出店したサックスフィフスアベニュー新店、視察同行した部下に「ここは継続が無理」と言いましたが、結局オープン3年も持たずに閉店。サンフランシスコ・ユニオン広場周辺のいくつかの百貨店も、ビバリーヒルズの百貨店数店も、そして渦中にあるバーニーズのシアトル店も、視察したとき売場のささやきが聞こえました。敵情視察を長く指導してきた人間の目にはこれらが絶望的と映りましたが、売場はウソをつきません。いくら大企業のチェーン店でも、いくら世界のトップブランドを集積していても、いくら過去業界に君臨してきた企業でも、売場が閑古鳥では末路ははっきりしています。

都内の商業施設でも「これはアカン」は少なくありません。いくつかは時間の問題でしょう。賑わいを作る具体策をトップマネジメント(自社の売場を一人で歩く経営者が少なくなりましたね)が打ち出せば回復は期待できるかもしれませんが、それがないならそう遠くない将来、規模縮小、業態変更、身売り、閉店もしくは倒産があるでしょうね。しかも数年以内に。

最後に、今後バーニーズ日本法人はどうなるか。タリーズコーヒーは米国本体はすでに倒産していますが、日本法人は元気です。これと同じくバーニーズ本体が仮に倒産しても、日本法人は営業を続けられると思いますし、そうあって欲しいですね。






Last updated  2019.07.16 12:39:57
2019.07.10
パリ出張から戻って深夜テレビのチャンネルをいじっていたら、NHK「逆転人生」という番組に行き当たりました。最近電撃結婚して注目を浴びた南海キャンディーズ山里亮太さんが司会、そこに獺祭の旭酒造桜井博志会長が出演していたので途中から観ました。桜井さんには前職で大変お世話になり、お手伝いしているJFW東京コレクションのスポンサーでもあります。

 

山口県岩国市、当時酒どころとして認知されていなかった地域に旭酒造の本社はあります。新潟や秋田など地酒で有名な地方都市なら売り込みに行ってデパ地下バイヤーも居酒屋の店主もすぐ受け入れてくれたでしょうが、岩国の小さな蔵元ではほとんど相手にされず、一度は挫折して地ビール醸造に転身。しかし地ビールも拡販できず、酒造りの杜氏は退職してしまう、桜井さんがどん底を味わった話は有名です。

 

杜氏がいなくなったあと、旭酒造はもう一度日本酒造りを再開、杜氏抜きで室温や湿気などを科学的に管理しながら現在の獺祭を生み出しました。酒造りの職人がいない常識外の生産体制、結果的にこうれが奏功します。

テレビの解説で知ったのですが、売上1億円程度の零細企業がいつの間にか135億円なんですね。私が初めてお会いした6年前はまだ5億円ほどでしたからここ数年で急成長、現在は白鶴、月桂冠、宝酒造、大関、日本盛に次いで売上第6位でしょうか。兵庫県の灘、京都府の伏見のような酒どころではない地方の零細蔵元が、テレビCMを打ってきた伝統ある大手酒造メーカーと肩を並べるまでに成長、その要因は海外展開へのあくなき挑戦でした。

 
  


NHKの番組では、桜井さんがニューヨークに一人乗り込んで自作の吟醸酒をレストランに売り込むシーンや、フレンチの巨匠ジョエル・ロブション氏にアポを入れて試飲してもらい6年後にやっと採用されたシーンがとても印象的でした。英語もろくに話せない地方の経営者、普通なら食品専門商社や酒問屋に任せるでしょうが、桜井さんは最初から自分で売り込んで海外販路を開拓。番組を観ながら、黎明期のソニーのことを思い出しました。

  
  (パリのジョエル・ロブションとの合同店)

前職で日本酒はクールジャパン最強のコンテンツの1つ、ただしパッケージデザインやボトルのクオリティーを高級シャンパン並みにあげないことには高く売れない、4号瓶入り純米吟醸酒を100ドル未満で売ってはだめ、といろんな蔵元に改善を提案してきました。

日本国内は人口減少、将来国内の酒市場はもっとシュリンクします。販路を広い海外に求める以外に日本酒ビジネスが伸びることは考えられません。しかも現状、全国の蔵元の醸造用タンクは多くが空きのまま、つまり使用していないのです。既存のタンクをフル稼動させるためにも海外展開は必須、旭酒造はそのお手本なのです。

でも、中には保守的な蔵元がたくさんいて、獺祭のように杜氏がいない科学の酒は日本酒ではないと陰口たたく人もいれば、日本酒の本当の味を知らない外国人に売ってどうするんだと海外展開を批判する人もいます。同じく、批判的な長老たちの若手後継者(蔵元の専務たち)は旭酒造を見学して桜井さんから学ぼうとする人も増えてきました。

若い後継者たちがその気になってお酒そのもののグレードをあげ、パッケージやボトルデザインを工夫してブランディングを敢行し、おまけしないで強気の価格設定できるのであれば、あとは販売チャネルの整備です。前職では5年以上内外のいろんな食ビジネス関連企業に日本酒海外展開の可能性を打診しました。ワインをフランスから運ぶ会社、航空会社の商事部門、免税店、食品商社、酒問屋、現地の小売店など。そしてついに香港や中国でフランスワインなどを卸売する会社の買収に成功、これで日本酒を海外に流せる太いチャネルができました。

かつての地酒ブームに大貢献した新潟、石川、秋田などメジャーな県以外にも、福井、富山、山形、岩手、福島県などに海外展開に意欲ある蔵元がそれぞれ数軒あります。我が故郷三重県にも小さいながら隠れた銘酒を造る蔵元があり、四国でもびっくりする無名の吟醸酒を飲んだ経験があります。こうした地方の小さな蔵元がブランディングをしっかりしてくれたら、前述チャネルを通じて日本酒を世界にもっと多く、もっと高い値段で出せます。

NHK「逆転人生」6月24日放送「逆転の日本酒  世界に羽ばたく」、オンデマンドかYouTubeでぜひ観てください。お酒の世界だけの話ではなく、日本のテキスタイルやファッション、あるいは伝統工芸品の海外展開でも勇気付けられる実践論ですから。







Last updated  2019.07.11 09:58:01
先週出張中、Facebookでつながっている元部下から珍しくメールが届きました。転職の報告。彼の仲間から「あいつ、退職するかもしれません」とは聞いてはいましたが、やっぱり退職でした。次は外資ブランドへ。彼は学生の頃から洋服が大好きでなかなか面白いキャラでした、残念です。「ここまでやってこれたのは、太田さんからマーチャンダイジングの面白さ、楽しさを教わったから」、そして「教わったことを新たな職場で浸透させたい」、嬉しいコメントが書いてありました。

彼が次に行く外資のジャパン社には20年前にIFIビジネススクールで指導した教え子が卒業以来ずっと頑張っています。この教え子と転職する彼が力を合わせ、マーチャンダイジングの基本を舐めることなく店頭をしっかりリードしてくれたらいいなあと思います。

  
  (パリ、ギャラリーラファイエット新店)

先日、旧知の販売スタッフが漏らした言葉が気になっています。「最近本社の営業が売場に来ないんです」。ファッションビジネスで担当営業がお店に足を運ばない、一番悪いパターン。自分のデスクに座りパソコンをパチパチやって仕事した気分になっている、これでは市場の動向は見えませんし販売現場の声もお客様の様子も本社には届きません。売場と企業との距離が長くなると、お客様のクレームには鈍感になって対応が遅れて熱烈ファンを失い、販売スタッフの抱える悩みは発見できず退職者が増えます。ろくなことはありません。

確かに、最近売場でアパレルの営業担当や販促担当と遭遇しなくなりました。「どうして来ないの?」とスタッフに質問したら、「どこを見て、何を言ったらいいのか教育されていないのかもしれません」。「へぇー、そうなんだ」、でも、これでは先が思いやられます。

売上管理も在庫管理もパソコンでできる世の中、アパレルメーカーの本社スタッフが店頭に足を運んで「御用聞き」のように情報を売場で集めなくてもすむようにはなりました。が、パソコンのEXCELの表の中には売れた売れないの「結果」は現れても、買われ方の「経過」は出てきません。プロセスなんて必要ないとお考えの方もいるでしょうが、パソコンがどんなに進化しようがお客様に向き合うビジネスではプロセスが重要と私は信じています。

例えば、ある品番がコンスタントに売れていることは本社パソコンでもわかります。しかし、お客様はほかのアイテムと組み合わせてこの品番を買ってくださっているのか、単品でお買い上げのお客様が多いのか、あるいは色違いで2枚買ってくださる中の1枚なのか、販売スタッフから聞かなければわかりません。

また、試着なさって即決断後購入なのか、迷いに迷ってのお買い上げなのか、これも現場のスタッフに聞かなければわかりません。お買い上げまでのプロセス、お客様の思いや様子は次のシーズン以降に役に立つ貴重な店頭情報、本社スタッフは現場から吸い上げるべきです。

最近百貨店のVPがどこも荒れている(言い方変えれば醜い)のは、本社の担当営業や販促、MD職が売場を巡回しないことに起因、もしくは店頭で何も言わずに帰るからかもしれません。基本もへったくれもない、ただマネキンに服を掛けて並べているだけじゃないかと言いたくなるVPがあまりに多過ぎます。かつて指導した会社も同じ、残念ながらVPの組み合わせにストーリーを感じません。本社の各部署から店頭に頻繁に来ているならば、誰かが気づいて組み合わせ方を修正するはずなんですが....。

先月繊研新聞社主催VMDセミナーで講師をした元部下のHくんの話をセミナーに参加した部下が詳しく報告してくれました。Hくんは丁寧にVMDの基本、心得を指導していたそうですが、受講者はすぐ売場に出かけて自社のVPをチェックしたのでしょうか。セミナーは参加することに意義があるのではありません、即実践してこそ意義があります。

流通業というのは常に売場に成功、失敗の要因があり、そこから遠ざかってはいけません。まして世界中で昔のように簡単に服が売れない世の中、もっと店頭に足を運び、販売スタッフの声に耳を傾け、VPや定数定量も含め売場環境を整え、お客様の動きを注視することが以前よりも重要です。

これから順次どの館でも秋冬シーズンが立ち上がります。立ち上がりの売場巡回はもちろんのこと、営業、販促、MD担当は時間を作って売場に行く頻度を上げて欲しいですね。「営業が売場に来ないんです」なんて台詞を販売スタッフに言わせてはいけませんよ。






Last updated  2019.07.10 11:10:27
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