世の中には、本間に暇な暇人が結構居て議論好き、論議好きな人はこのインターネットの中なんかにも溢れて居ます。ラッキーも血気盛んな頃は、そんな暇人を相手になんの得にも成らない時間を過ごしたことがありるから、哲学的なことは生き方とは全く無関係だとはっきり言い切れるんですが、ラッキーの話しは殆んど真理をいろんな方面から講釈している話しですから、極端な言い方をするならば信じる必要もないと言っても良い話しです。
真理とは、信じる必要は無いものなんです。例えば、地球は丸いと聞いて疑う人が今の時代にどれくらい居るでしょう。このことは客観的な事実として皆さん当たり前に受け入れて居て疑う人は居ないでしょう。信じるとか疑うとかと言う次元では無いことが解るでしょう。だから、ラッキーなどは、批判したかったらどうぞ批判してくださいと言う姿勢で、疑う人を相手にする気はありません。これは、お釈迦様も同じ姿勢だったようです。
ラッキーが書いて居る真理については、現在では物理学の先端では殆んど理論的に疑う学者は居ない話しが殆んどで、投げたものが帰って来ると言うのは、素粒子の原理法則が解れば納得出来る話しです。幼稚な知識であれこれ言う暇があるのならば、その辺りを真剣に学んで貰いたい。証拠のある話しを疑うのは知識と知恵が無い証拠で、例えば、神仏は居るのか?宇宙に生命体が存在するのか?この様な話しでは、客観的な証拠を出すのは難しいから、信じる、信じないと言う話しに成るでしょう。
そして、いろいろ言う暇人などは放って置いたら良いんです。そんな暇つぶしの話しの相手をする暇があるのならば、自分が幸せに成れる真理を実践する事です。暇人を幸せにして上げたいのならば、暇つぶしに付き合って哲学者に成れば良いんですが、哲学者に成ると言うことは幸せに成ることは諦めたと言うことでもありますから、その辺りを良く考えて此れからの自分の方向決めたら如何でしよう。人間の世の中は、二人以上集まれば必ずいざこざが生れるものなんです。一番解りやすい例としては、時は、元禄十四年三月十四日の江戸城は、松の廊下で、浅野匠頭が吉良上野介に斬りかかった一件で、起きるべきして起きた解りやすい事件です。
お放し下され梶川殿、五万三千石、首領も捨て家来も捨てての刃傷で御座る、武士の情けご存じあらば、その手放して、今、一太刀討たせて下され梶川殿・・・・この話しは次回と言うことで、今日はちょっと見たいテレビがあるのでこの辺りで閉店と致します。
あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v
【ラッキーの一言】自分が幸せに成れることから目指せ、暇人の幸せなんかは後回しでいいんです。
ラッキーでした(^O^)/
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最終更新日
2013.10.11 22:12:58
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