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カテゴリ:歴史
大河ドラマでも概ね人物像は合っている。
![]() 頼朝からの援軍要請を当初はきっぱりと拒否、後に従うもののノロノロと合流。結果頼朝に遅参を激怒され平伏せざるを得なくなるが、明らかに頼朝を甘く見ていたのは確か。結論から言えばそれが原因で後々粛清される羽目となる。 平家に対抗出来る存在、頼朝を貴種と仰ぎ馳せ参じる武将がいる一方、広常のように頼朝を快く思わない武将もいた。源氏平家双方を裏切る者(源頼政)すらいたため珍しくもなかったが広常はそれがとりわけ激しかった。 頼朝がいないとすぐに頼朝の悪口を連発(京や朝廷の事ばかりに腐心し鎌倉や鎌倉武士の事を蔑ろにしている、など)、または頼朝に対し他の御家人が馬から降りて礼をしたのに広常だけは馬に乗ったまま礼をし、無礼だから降りよと言われるや、先祖代々馬から降りて礼はした事がないとして拒否しただの。挙げ句の果て、幕府へは常に派手な服で出仕し、それを見て怒った頼朝に袖を刀で斬られ「義盛(和田義盛)などは善悪もつかぬほどだが、質素倹約に務めるなど財の使い方をわかっている。しかしお前はそれをわかっておらぬ」と叱り飛ばされたなど。 もちろん喧嘩の仲裁に入ったのに喧嘩をした側に混じって叱られる和田義盛など他の鎌倉武士にも問題が無いわけではなかったが、広常の行動は一目瞭然。これで頼朝を鎌倉殿と仰いでいるとは到底思えない。先に書いたもののこれらが祟り、頼朝の命を受けた梶原景時により双六中に斬り殺されている。 源平合戦後広常のように粛清される武士が相次ぐが、頼朝にはこれ=粛清しか鎌倉武士を従えさせる手が無かったとも取れる。
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最終更新日
2022.04.14 15:46:48
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