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カテゴリ:自分を見つめる
昨日書いた律の話ですが。
実は少し前からその頭に思い描く「型」を崩すというか、壊すための働きかけ、というのが半年くらい前から行われています。 例えば、高野山に行った時に、掃除と化しているおじさんとお話しをしたのですが。 この方の半生がハッキリ言って、全然型どおりじゃなかった。 思い描いている「きちんとした人生」というのは、幻想かもしれないという感じだった。 でも相手は男性だからできるよね、って思っていた。 次に着物の着付け。 着物の着付けに関しては色々とルールがあって、きちんと決められた通りにやらないといけないって思っていたのです。 が。 私が紹介で行ったところは全然そんなんじゃなかった。 必要最低限のTPOは必要だけど、普段着るには好きに着て良いんだよ、っていうところだった。 でも巷には着物の「常識」というのが、流布されている。 それに沿ってみたくなるのだけど、やっぱりそれは普段着るには全然入らないものでもあったりする。 そして一昨日の勉強会では、本当に全て捨ててやり直した人がいた。 その人の話を聞くと、やっぱり自分の中の制限というか、枠組みが外れていくのを感じる。 枠組みや制限を何故作ったのだろうね。 もちろん誰かの都合の良いようにするためもあるんだろうな、というのは分かるのだけど。 でもそれを自分の中に取り込んで、自分で自分を縛ることにしたのは、何故なんだろうね。 こうやって考えるとやっぱり、スピ的な 「自分で制限があるというのを体験したかったため、そう選んできた」 としか言いようがないんですよね。 そしてその制限や枠も、人によって何に対しての制限を体験するか、によって色々違うプログラミングをされている気もする。 自分で自分を苦しめてみる、ってMじゃん、って思うけど。 でもそうしたら今生きている人達、殆ど全員Mってことになるな 苦笑 そしてそのプログラミングは自分で簡単に外せるはずが、こんがらがって、外せなくなって余計に苦しめている気もする。 それに気づいたらやっぱり一個ずつ外していかないとな。 こんがらがってしまったアレコレを、丁寧にほぐしんながら、やっていくしかないんだろうな。 でもやっぱり囚われる。 だからこそそこから放たれた人がいて、「大丈夫だよ」と言ってもらうために、出会っている感じもするね。 言われてもそう簡単に、私の中の彼女は納得しないんだけど。 少しづつ言い聞かせながら、外していきたい、と思う。 そしてその制限や枠組みで囲った中に、一体何を後生大事に守っているんだろうな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.13 20:48:25
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