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カテゴリ:自分を見つめる
ふとした瞬間に、ある言葉や文章の意味を、雷に打たれたように深く理解することがある。
思わず感激して涙を流したり、深く納得したり、時にはその事に怖れを抱いたりする。 以前に某神職の方が、スピ業界のスピリチュアルリーダーの方々に、怒りを抱いていた。 当時は私はなぜそんなに批判するのか分からなかったが、最近深く自分の闇を見つめるうちに、その理由が把握できた。 確かにそりゃ怒りたくなるし、批判したりしたくなるよねぇ。 善・光信仰の落とし穴と言うか、恐ろしさを知れば知るほど、中途半端なものがいかに人を歪めるかが分かると、批判の一つや二つしたくなるだろうなぁって思う。 そう言う私もその穴からはなかなか這い出せなかったりするのだけど。 昨日気付いたのは「宇宙の絶対法則」の中の一つ。 何を選ぶのも自由だけど、その結果をとことん本人に見せつける。 そこに情や酌量の余地は何もない、と言うこと。 良く言われているがその本当のところが分かって居なかった。 ハートでそれが分かると、その恐ろしさにぞっとした。 免除、と言うのも法則にはない。 選んで望んだとおりに、全てが動いていく。 堕ちたければ、何処まででも堕ちることもできる。 歪みたければ、とことん拗れて歪んでいくことも可能。 それは本人が『それまで』と望まない限り、どんどん続く。 そしてそこから出るためには、自分が堕ちた分、捻じれた分を自分で上ろう元に戻そうとしない限りそのままである。 そしてそれは自然に何もせずに元に戻る、何て事は一切ない。 良く反動がでる、とはいうが、それはただ単にちゃんとバランスを取ろうとする力を持っているモノの話。 そうでなければ反動なんて無い。 落ちたりねじれたりした歪みに対する支障が出てくるだけ。 これも結局結果として。 誰もそれに対して修正しようとしたり、勝手に治したりなどしない。 それが望んだとおりになる、という自由と結果。 宇宙はただそれを黙って受け入れてみているだけ。 どんなありようも許すけど、それに伴う結果は必ず本人ところに現れる。 その恐ろしさは、なんともし難かった。 そこには人の望みや呪いなどは無く、ただ単に人がどう動いたか、にしかなく。 その結果はすぐに出る時と出ない時があり、直ぐに出なくても必ず本人がその結果を受け取る。 上手く書けないけど、そう言う事を突然理解すると、しばらく呆然とする。 なんとも言えなくなる。 後からそれまでの分かったつもりのいい加減さに呆れかえる。 でもそんなもんかもしれないな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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