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カテゴリ:自分を見つめる
ふと、今日思ったんだが。
去年は一度今まで良しとしてきた事を、一度全否定してみた年だった。 そして否定してから、別に否定しなくて良いじゃん、と一つ一つ結局OKを出していき、個人的には今年は取りあえず何でもあり、でのスタートになったと思う。 結局何をしたかっていうと、価値観の見直しやら意味の再考やらそーゆーことだと思う。 新しく見えた者もあるし、見え方が同じでも許可の出し方が違ってきているかな。 何が良くて悪いのかと言うのも、一度見直すと、誰かからのコントロールからの脱却になっている気がする。 無条件に良し悪しの価値観を受け入れるってことは、誰かのコントロールの下に無条件で入るってことだと感じた。 そうじゃなくて、何でもありにしてから、もう一度構築し直すとその誰かのコントロールが効かない感じになる。 で、思ったのだが、規律とか規則って誰かが自分の思い通りに人を動かすためにあるんじゃないかって感じた。 全てOKにすると、誰かの思惑を超えていくので、それを押しとどめるためにあるのではないかって感じた。 その根っ子にあるのは多分恐怖。 自分の思惑を超えてどこか行かれると、自分の意図と違う方へ行く可能性があり、それを辞めさせたいとか、その他諸々。 上手く言えないが。 後は劣等感。 何かが自分より優れていくことを恐怖して、自分より上を許さないという傲慢さもある気がするな。 そうじゃないよな、って何時も何処かで思う。 何でもそうだけど、認めてしまえば「その」力は大きくならない。 認めないからこそ、「その」力は膨張して多くなって、自分を蝕み、より人として限界を作って身動きが取れなくなってしまう。 悪循環。 で、私としてはそれらの悪循環も、劣等感も、醜さも、良さも、輝くところも、闇に沈んだところも、全部持って認めていこう、と言うのが今年の信念だな。 もちろん自分の都合の悪い所を切り捨てたい気持ちも、共に認めてって感じで。 欲も劣等感も優越感も見ないふりしてる所も全部。 格好つけに見えるかもしれないが、私の本当の気持ちとしてはそんなところだ。 その為には誰かのコントロールや思惑は打破しないとやって行けない。 それらを全部引き受けて歩かれると困る誰かってのは、いつも居るのだけど、その人の思惑に乗らないようにするのが目標。 または乗ってしまったとしても、気付いて降りるようになること、だね。 気付きながら必要で乗ることもあるけどな。 それも全部自分の選択と判断で、やって行けたらいいな、と思う。 そうはいってもあって間に分裂人格の思惑にかっさらわれて、全然違う事をやっていたり、カルマまみれの思考に持ってかれるんだけどね。 でも自分の根っことしてはそっちの方向で。 歩いて行けたらいいなって思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.01.03 19:53:36
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