懐かしの家族HP

2019/06/01(土)13:06

武士の情けを見せた我が旧軍。

戦記(43)

対する我が日本軍はどうだったか。例えば、日露戦争で、第二艦隊司令長官の任にあたった上村彦之丞(かみむらひこのじょう)という人がいた。一等巡洋艦出雲に座乗し、濃霧の日本海に出没するロシアのウラジオ艦隊撃滅の任につき、軍務全うに専念していた。 だが、なかなか敵艦隊捕捉の機会に恵まれず、そうこうするうちに、常陸丸(ひたちまる)を撃沈され、これには近衛師団の将兵一千人余りが乗っていたこともあり、我が国民の痛烈な非難を浴びるつらい思いもした。上村長官の東京の自宅には、頭に血がのぼった者共が石をぶつけ、罵倒し、夫人たちも、有形無形の被害を耐えていた。 あげくは、「露探」(ロシアのスパイ)との汚名まできせられ、「濃霧、濃霧と言いつくろうが、逆さに読めば無能なり」とまで心無い連中に侮辱の言葉を投げかけられた。 だが、雌伏の数ヶ月後、遂にウルサン沖でウラジオ艦隊を捕える機会が訪れた。敵艦「ロッシァ」、「グロムボイ」、「リューリック」は、ものの30分で、上村艦隊満を持した攻撃により、ぼろぼろになった。うち、ロッシァとグロムボイは、ほうほうのていでウラジオストックへ逃げ帰った。砲弾がないとわかり、上村長官は追撃中止を命ずるや、もはや逃走能力を失ったリューリック乗組員救助命令を発した。 上村長官は「捕虜を侮辱するな。武人として扱え。生きとし生けるものは小鳥でも救い上げろ」と命じた。結果、ロシア兵624名を救い、又、長官命令通り、犬・猫・カナリアまでが救助された。 無能・露探とののしられた上村彦之丞長官は、受けた屈辱を忘れたかのように、戦闘遂行し、目的達成ののちは、無駄な殺生をせぬ、武人の精神を体現してみせた。 彼の武士の情けは日露戦争クライマックス日本海海戦に於いても表われている。 ロシアの軽巡洋艦イズムルードが、快速にものをいわせて逃走を開始した。上村長官はとっさに「撃て」と命じたが、参謀の佐藤鉄太郎中佐が「長官、あれはネボガトフ提督が、皇帝に最後の上奏をするために出した使者ではないでしょうか。もはや一隻ぐらい逃してもかまうまいと思います。武士の情けです」といさめると、みるみる後悔の情を浮かべて、 「気がつかんじゃった、撃っちゃいかん」と大声で言った。 それほどに、日本海海戦はパーフェクト・ゲームだった証左でもあるが、先のウルサン沖海戦に於ける上村長官の行為は、「日本武士道の精華である」との報が、海外に走ったという。 日露戦争をまで、今の歴史教育では、侵略戦争だったという評価にまでおとしめているが、このかたがたの必死の行為は、そんな扱われ方で許されるはずがない。 我が静岡県を含む広域が遠からず大震災に見舞われるおそれありと言われ出して既に久しいが、私は己れの価値なき命も含めて、いっそ第二次関東大震災・東海地震・東南海地震・南海地震が一時に襲って、我ら一同腐った根性ごと海のもくずと消え、凄まじい天災地変に果てて、かつて我が国存亡危急の国運をかけた日露戦争で、必死の思いで戦い、人間の情けまでをも示してくれた多くの先人への罪滅ぼしをさせられても、仕方ないとさえ思うのだ。 旧帝国陸海軍の感動の逸話はまだまだ枚挙にいとまがないほど、数多くある。今後しばらく、心を込めて、できるだけ資料をもとに、つづっていきたい。なお、今回の本文参考資料は、新人物往来社刊・「日本陸海軍名将名参謀総覧」及び司馬遼太郎氏著「坂の上の雲」である。 繰り返すが、今月五月二十七日は、「海軍記念日」である。

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