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2003.05.13
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カテゴリ:戦記
既に書いたかもしれぬが、多くの唱歌・軍歌が、現在著作権消滅している。「広瀬中佐」という歌がその一つかどうかわからぬが、広瀬中佐は、日露戦争で旅順口閉塞戦にすすんで参加し、ロシア砲台の弾に当たって失せた。彼の人徳・勇猛・遺徳を偲んで、その名もズバリ「広瀬中佐」という歌が出来た。

1.轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸
荒波洗う(あろう)デッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野はいずこ杉野はいずや」
2.船内くまなくたずぬる三度(みたび)
呼べど答えずさがせど見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよあたりに繁し(しげし)
3.今はとボートにうつれる中佐
飛び来る弾丸(たま)にたちまち失せて
旅順港外うらみぞ深き
軍神広瀬とその名残れど

広瀬武夫少佐(日露戦争当時)は身の丈176cmの偉丈夫で、柔道の高段者でもあった。つとに日露戦争があるものと判断し、かねて命はないものと妻帯していない。

ところが戦争前、彼は駐露大使館付武官の任務を帯びて、ロシアに滞在した。任務の性質上、ロシア社交界にも出入りしなければならず、ダンスも踊らなければならない。

並み居るロシア海軍独身士官の中で、広瀬少佐はロシア海軍少将コヴァレフスキー伯爵の娘で、アリアズナ・ウラジーミロヴナという美少女に激しく慕われた。彼女は広瀬以外の男を考えられなくなった。彼も遂にアリアズナの思いを知って、ただならぬ気持ちをようやく覚えた。彼女との往復書簡が残っていることからも、うかがえる。このことは、前東京大学教授・島田謹二氏著「ロシアにおける広瀬武夫」(朝日新聞社)に詳しい。が、残念ながら私はこの一書を持っていない。

アリアズナとの恋は広瀬の帰国で終わったが、更に彼は、あるロシア人の少尉候補生からも兄のように慕われ、ようやく覚えた日本語で「タケニイサン」と呼ばれた。

広瀬はいよいよ帰国という時の送別会で、この青年ボリス・ヴィルキツキーと以下のような約束をした。

「ロシアと日本の間に将来砲火を交えるような不幸が来るかもしれない。その時は互いの祖国のために、全力をあげて戦いぬきたいものだが、しかし我々の友情は友情として生涯大事にしたい。戦争になっても互いの居場所をなんとか知らせ合おう」。

この青年はのち少尉に任官し、戦艦ツェザレウィッチに配属された。早速彼は広瀬に手紙を送った。「私は今旅順にいます。戦艦ツェザレウィッチに乗り組んでいます」という文面であった。

広瀬もこれを受け取り、返事を送った。
「今、不幸にして、貴国と砲火を交わす関係になったことはまことに残念である。しかし我々はそれぞれの祖国のために働くのであり、個人としての友情には少しも変わりがない。・・・中略・・・今又、閉塞船報国丸を指揮し、旅順口を閉塞しようとしてその途上にある。我が親しき友よ、健やかなれ」

広瀬武夫少佐は第二回閉塞戦で福井丸を指揮して猛進し、港口付近で閉塞船・福井丸爆沈を果たしたが、ボートに移る際の点呼で、親しき部下・杉野孫七上等兵曹がいないのを知るや、沈没しつつある船内に戻って三度(みたび)その名を叫びつつさがしたが果たせず、やむなくボートに移ったとたん、飛来した敵弾を受けて、戦死した。享年36。戦死後中佐に昇進、軍神として永く敬仰された。

広瀬神社が九州大分県竹田市にある。
広瀬武夫中佐の時代まで私たちは日本人であったのに、今そうでなくなったのはなぜか。

開国して学ぶに、我が国古典を捨て、西洋に学ばんとしてその皮相をまねするのみで果たせず、「にせ西洋人」すなわち「にせ毛唐」になったからである。
その一端を茶髪に見ることができる。どいつのつらを見ても、頭にこやしをかぶって見えるのは私だけだろうか。ならば衆寡敵せず。

しかし、にせ毛唐は、本物の毛唐に及ばぬこと、茶髪・金髪振り乱して聞き取れぬでたらめ英語まじりの歌をがなる今の歌い手が見事に証明している。
ついでにヒゲも、まるっきり似合わぬ。広瀬中佐その他の明治の軍人の見事に決まっているヒゲをよく見よ!!
恥ずかしさに気づく者はまだましである。即刻さっぱりそり落とすがよい、としか云う。

文中、前後文脈の都合そして、至らぬ文章力のゆえ、軍神・広瀬武夫中佐を呼び捨てにせざるを得なかった。

参考・引用文献、司馬遼太郎氏著「坂の上の雲」及び、山本夏彦氏著「夏彦の写真コラム・良心的」。





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最終更新日  2019.06.01 13:07:27
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