2/12 二期会「ダフネ」
東京文化会館 14:00~ 4階右翼 二期会については、もうプロとは分類しない、ということで、取り上げないことにしていましたが、チケットは買ってしまっていたし、まぁ行って来ました。 そんな事情だからあまりどうこうは言いませんが、公平に言って、歌手陣についてはコシ・ファン・トゥッテのど素人集団とは段違いであったと言っていいでしょう。少なくとも声量は相応にあった。 ただ、演出は、かなりの問題を含んでいます。一言で言えば、相変わらず「二期会は何も考えてない」という演出内容。 この公演、舞踊集団であるH・アール・カオスの出演を仰いでいて、演出も任されています。最初に言えば、その点に於いては演出家や舞踊家に問題があるわけではないのです。 で、彼女らの舞踊がかなり取り込まれていて、それによって舞台も進んでいきます。彼女らの舞踊は大変インパクトのある説得力のあるもので、主人公であるダフネの姿を4人の舞踊家によって表現したり、冒頭、本編には現れないエロスを登場させてみたり、幕切れでダフネの化身に躍らせたり、と、縦横無尽の大活躍でありました。 でも、問題は、これがあくまでバレエではなくてオペラとして上演されることにあります。 バレエを例に取れば分かりやすいのだけど、踊りというのは、それ自体で物語や心情表現を伝えるに十分なほどの雄弁さを持っています。一方、オペラは、あくまで音楽、この場合は管弦楽だけでなく歌唱でもってそれを表出する形式です。オペラの中にも踊りが取り込まれることは少なくありません。ただ、それは、必ずしもドラマの中での重要な部分を占めているとは言えません。 いわゆる「パリ版」でのバレエの追加というのも含めて、大抵のオペラでは、踊りは「添え物」として扱われます。ドラマ上踊り自体が重要な意味を持つケースは、例えば「タンホイザー」の冒頭、ヴェーヌスベルクの場面でのバレエがありますが、あそこには声楽は登場しません。「カルメン」第2幕では、冒頭と後段のドン・ホセを前にカルメンが踊るシーンがありますが、ここの冒頭は、魅力的ではあるけれど踊り自体がドラマ上大きな意味を持つわけではない。後段のカルメンの踊りは、踊りによって何かを表現するためではない。「ドン・ホセのために踊る」という情景を見せるのが目的。まぁことほど左様に、オペラの中で踊りそれ自体に表現させるというのは殆ど無い。 それは、本質的に、オペラの中で踊りによって何かを表現させよう、という考えが無いからです。オペラでの歌唱・音楽に、踊りを加えると、雄弁がぶつかってしまう。 今回の公演で言えば、最大の問題は終幕です。ダフネが自らの願い通り樹木へと変化していく。その場面に於いて、既にダフネの歌は歌われてしまい、今は恐らくはダフネの安らぎへ向けての音楽が奏される中で、ダフネを表現する踊り手が現れ、激しい踊りから最後樹木へと変化する様を描いてしまう。それは、踊り手としては正しいのです。でも、既に現世の葛藤に別れを告げた音楽に乗せて踊られるそれは、さっき既に見たダフネの姿を再演しているに等しい。 それはやっぱりおかしくないか? ある方が仰っておられましたが、「これはもうバレエにしてしまって、歌手はピットででも歌わせればいいんだ。」という考え方があります。私も、これには賛成。 でも、くどいようですが、これは「二期会」の公演なのです。オペラの公演。見る方はそれでいいんだけどさ。二期会の皆様、あんたら、本当にこれでいいのか? 今回は日本初演だそうで、ご丁寧にチケットにもそう書かれていましたが、現代に於いては初演のなんのというのはそもそも自分達のレパートリー、自分達の音楽をきちんと確立出来ている状態で、新しくレパートリーに加わるかも知れません、という意味で初めてわざわざ言う価値があるので、「レパートリー」と言えるもの、自分達の音楽というものが確立出来ていない大半の二期会会員にとっては、どんな演目だって殆ど初演じゃないのかしらん。主役級の2,3人くらいか、それにしたって「レパートリー」の磨かれ方はいかばかりか。 演奏そのものは決して悪くないだけに、この辺の相変わらずの甘さと言うか定見の無さが見えてしまう公演でした。変わったことやれば助成金は取りやすいんでしょうけどね。 唯一?「初演」みたいな言葉を口にする資格があるであろう若杉弘の音造りは、東フィルの演奏と合わせて上等でした。要するに「二期会の姿勢」以外は良かったわけです。踊り、オーケストラ、歌手、の順に。 少なくともさ、この程度歌える人間をきちんと出せば、取り敢えず目は瞑ろうと思うけど、それにしたって見識が無さ過ぎますよ。