邦楽特集 追悼 高橋幸宏/坂本龍一
邦楽特集追悼 高橋幸宏/坂本龍一高橋幸宏と坂本龍一の音楽 をどうぞ・・・70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集『~どうぞ』シリーズ 今回は・・・20世紀を代表するアーティストの訃報が続きますYMOのメンバーとして知られるアーティスト高橋幸宏氏が1月11日誤嚥性肺炎で亡くなりました。70歳でした。そして後を追う様に坂本龍一氏が3月28日直腸がんで亡くなりました。71歳でした。高橋幸宏氏は2020年に脳腫瘍の手術を受けて以降復帰に向けてのリハビリを続けてTwitterでは 状態は好転しているという旨のコメントを残していた所の突然の悲報でした坂本龍一氏は2014年に中咽頭がん治療が寛解した後2020年に直腸がんと診断され闘病生活を続ける中近年は全世界配信のピアノコンサートや6年ぶりとなる最新アルバム「12」のリリースと全身全霊で音楽活動を続け最期まで音楽に情熱を捧げた静かな死去でした今回は最期までドラマーとしての復帰を切望し、ピアニストとして音楽家として最期まで音楽に捧げた、ミュージシャン高橋幸宏/坂本龍一を偲んでドラマーとしてキーボディストとして作曲家としてアレンジャーとして 二人が参加した楽曲を特にYMOの仲間達との共演作にスポットを当ててドラマー高橋幸宏、キーボーディスト坂本龍一の功績を振り返ってみたいと思います-----------------------------------------------------------------------------------■ もくじ ■M1 (1981)『GIGI, LA DANSEUSE』M2 (1980)『Aino Sono』M3 (1975)『Time To Noodle/Suki Suki Suki』M4 (1979)『KILYN』M5 (1980)『RADIO JUNK』M6 (1983)『City of Beauty』M7 (1981)『Last Pretender』M8 (1978)『Jikanyo Tomare』M9 (1985)『Imadakara』M10 (1978)『This Could Be The Night』------------------------------------------------------------------------------------ 音楽解説 ------------------------------------------------------------------------------------▲目次へ▲△▼ △▼ △▼加藤和彦 - 浮気なGigi (1981)Kazuhiko Katō - GIGI, LA DANSEUSE収録アルバム『ベル・エキセントリック』この時期のドラミングをフィル・コリンズがパクったらしいフォーク全盛の60年代からフォークの造りでロックを感じる楽曲を制作し歌謡界に於いても歌謡曲とロックとの橋渡し役を果たし日本の音楽にロックの精神を根ざす事に貢献したアーティスト加藤和彦の80年代テクノブームを牽引してきたYMOが全面参加し欧州音楽を歌謡曲に落とし込みながらロックの言語で演奏する実験的精神の一つの成果の現れとした作品からの坂本龍一による先進と退廃が同居する「世界系」な乾いたサウンドに高橋ユキヒロらしい独特のフィルインを効かせながら斬りつけるYMOのテクノサウンドとは又違った坂本龍一と高橋幸宏のプレイを聴くことが出来るナンバーです■加藤和彦本曲制作時 YMOは「BGM」発表の時期に当たりYMOが牽引したテクノポップが過渡期にあった時期もありYMO自身もマンネリから脱却する様に短い繰り返しを音楽に落とし込むミニマム・ミュージックに活路を見出そうとしつつ実験的な音楽を追求していた事も加わりこの時期テクノに傾倒していた加藤和彦もその風潮を察知して加藤和彦の持ち味のロックをベースにしたシンセサウンドという形でYMOには無かった「闇」の面を浮かび上がらせる様な退廃的空間系が得意な坂本龍一の全体的に重めのサウンドを効かせた摩訶不思議な世界観のYMO系では余り耳にしない個性的な音でレコーディングしております前作『うたかたのオペラ』では急病で不参加だった坂本龍一はラストナンバーの『ジュ・トゥ・ヴー』で加藤の作品では無いエリック・サティ-のピアノ曲を演奏するなどもはや加藤和彦のソロ・アルバムという意義を越えた所の欧州三部作となった「コンセプト・アルバム」としての音楽制作に対して存在を見せ付けた参加となりました高橋幸宏は3枚目のソロ『ニウロマンティック』をロンドンで録音中でもあり加藤和彦のパリでのレコーディングには中断しての参加でした高橋幸宏が使っていたスタジオはビートルズのプロデューサージョージ・マーティンが作った「エアー・スタジオ」でしたがそれを押さえた状態で参加するという日米貿易摩擦が起きる程の経済大国となっていた当時の日本の音楽界の金に糸目をつけない贅沢な采配だったと言えます高橋幸宏がロンドンで録音していたのは加藤和彦から受けた「その場所に行かないと自分がやりたい音楽は作れない」というアドバイスからでロンドンは湿気が多くドラムの様な楽器はチューニングが狂い安く音が大きく鳴り響きやすいドライな環境のアメリカとは大きく異なりその為アメリカではナチュラルに録る事に対してイギリスでは音を調整して加工する傾向が生まれて音楽の方もイギリスでは加工されたものが流行るという事が実感して分かったそうですこのアルバムでの高橋幸宏のドラムはタム類の上面のみにヘッドを張ったエッジを効かせたサウンドで独特のタイミングの斬り込む様なフィルインを随所に入れた特徴的なドラミングを演奏し楽曲のアレンジの一端を担っております▲目次へ▲△▼ △▼ △▼西城秀樹 - 愛の園(1980)Hideki Saijyo - Aino Sono収録アルバム『ベスト・ヒット/西城秀樹』他「眠れぬ夜」にも「おどるポンポコリン」にも無い意外性パワフルな歌唱が特徴の昭和を代表するTOPアイドルの一人で『傷だらけのローラ』『ヤングマン』などの数々の大ヒット曲を持つ2018年に63歳で惜しくもこの世を去った国民的シンガー西城秀樹のパワフルな歌唱とは異なるささやく様な歌唱のアプローチで全編シンセサイザーの演奏によるキャリア中 非常に珍しい楽曲となりながらもオリコン7位の大ヒットとなったシングル曲です■西城秀樹本曲は西城秀樹の32枚目のシングルとしてリリースされスティービー・ワンダーの1979年に発表された映画音楽『シークレット・ライフ』の収録曲のカバーとして制作されたオリジナルも日本語歌詞で作られているという洋楽のカバー曲としては非常に珍しいタイプのメッセージソングとなっています1973年の『情熱の嵐』から始まり『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』『 ホップ・ステップ・ジャンプ』までの国民的大ヒットを飛ばしてきた西城秀樹に取っては80年代に入り英国発の新たな音楽ムーブメントニュー・ウェイヴ・ミュージックが日本に上陸し折しも新たな表現を求めていたフォーク・ミュージックが「ニュー・ミュージック」へと様変わりをした時期と重なった事もあって前年度の国際児童年宣言で制作されたゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』の大ヒットなど日本経済の世界的大躍進を受けて日本の音楽界が世界を視野に入れた動きを意識した次のフェーズに至る一環とした72年のデビュー・アルバム『ワイルドな17才』でポール・サイモンの『母と子の絆』のカバーをする程元々がバンド志向で洋楽に精通している事を兼ねた世界平和や人種問題に関心の深いアーティストとして知られるスティービー・ワンダーのバラード曲の中でもメッセージ性が強くボーダーレスな宗教心を感じる本曲を「世界平和」への関心の高まった当時の世相を考慮してシングル曲に選んだ理由があったと言えます又、本曲は当時の音楽番組でのパフォーマンスでは珍しい間奏パートをカットしないで放送し本曲の持つエモーショナルな側面が削がれる事無く演奏された数少ない楽曲でもありました■松武秀樹本曲は編曲を坂本龍一が担当しシンセサイザーの巨匠冨田勲に師事しYMOの世界ツアーでも同行したシンセサイザープログラマー松武秀樹がシンセのプログラミングを担当したこれは当時のオリコン大ヒット曲となった歌謡曲としてはおそらく初となった唄以外は、冒頭の鳥のさえずりの効果音を含めた全編シンセサイザーのみで作られた楽曲となりました本曲の最たる特徴としては礼拝堂で賛美歌を唄っている様な印象の多分に「宗教的」イメージが強い事でも異色で教会堂のパイプオルガンを思わせるシンセにより荘厳な礼拝を思わせる演奏を再現しています坂本龍一は東京芸術大学音楽部の学生だった当時クラシック音楽には発展性は無いと考えて民族音楽に傾倒し宗教を含めた人間学に興味を持ちその後の音楽活動へ影響を与えた事から賛美歌が礼拝をより豊かにして会衆を一つにする様に主を褒め称える聖書の詩篇の様な歌詞で作られた本曲を「愛」というワードで 聴く人々を一つにする為のある種の「儀式」を思わせる音を意識しながら本曲の編曲を仕上げたと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼サディスティック・ミカ・バンド- WA-KAH!CHOCO/塀までひとっとび(1975)Sadistic Mika Band - Time To Noodle/Suki Suki Suki収録アルバム『ホット・メニュー/黒船』今にしてみれば3代目ミカが木村カエラだったという不思議先程の加藤和彦が率いる伝説的バンドサディスティック・ミカ・バンドがピンク・フロイドのエンジニアリングでも知られるクリス・トーマスをプロデューサーに迎えて制作された『黒船』『ホットメニュー』リリース時のイギリスのTVに出演した時の貴重な映像からの非常に卓越しハイクオリティーなパフォーマンスになります■サディスティック・ミカ・バンド学生時代からスタジオ・ミュージシャンとして活動して来た高橋幸宏は『学生街の喫茶店』で知られるフォークグループ「ガロ」のバックバンドを経て同じくバックバンドでベースの小原礼と共に20歳の頃 加藤和彦に誘われてミカ・バンドに加入しますミカバンドには後に80年代のフュージョンブームを牽引するギタリスト高中正義小原礼が脱退した後は沢田研二の「TOKIO」のアレンジャーとしても作曲家としても知られるベーシスト後藤次利が在籍し当時の日本のロックバンドとしては非常に高度な演奏力を誇る集団でもありましたミカバンドは当時欧米で流行だったグラムロックを日本の音楽に落とし込みファンクのリズムを日本の祭り囃子と掛け合わせながら日本語によるロックの可能性を拡げたバンドで加えて欧米の人気フュージョン系グループ『ウェザー・リポート』『マハビシュヌ・オーケストラ』の様な高度でテクニカルなフュージョン楽曲もこなす日本人ミュージシャンが欧米に引けを取らない演奏で音楽を演れる事を世界に証明したバンドとしても日本の音楽史に名を残す歴史的ロックバンドとして現在も語り継がれる唯一無二な音楽集団でしたしかしミカバンドが活躍した70年代当時の日本は折しも時代が「大学紛争」での騒乱にロックが関わっているという誤った認識と偏見がまかり通っていた事から「ロックは不良」「ロックは反抗」というロックミュージックに反社会的イメージが付いていた時期でロックがまだ一般リスナーにまでは浸透していなかった為にミカバンドがどれ程の高いクオリティーで音楽を演っているのかという事が殆ど理解されて無く日本国内での評価は海外での反響に対して非常に低いものがありました例えば今回紹介している英国の音楽番組に出演した時の演奏には一曲目の演奏中ボーカルのミカがポラロイドカメラでメンバーの撮影をしている所が映っていますこれは現在であればバンドのビジュアルをファッショナブルに演出する為の「パフォーマンス」という言葉で説明できるこの行為の主旨も70年代当時の一般の日本人がこの映像を観たとして「あのドレスの女は演奏中一体何をやっているんだ?」とおそらく誰一人理解出来る者は居なかったと思いますこの様な音楽とビジュアルをファッショナブルに演出する試みは全米公演で赤い人民服風コスチュームで演奏し東洋と電子音楽を思想的文脈でビジュアルに落とし込みセンセーショナルな世界デビューを飾る事に成功したYMOへと受け継がれるまで今しばらくの時間が必要でしたしたがって日本でのミカバンドの評価は欧米での人気が高まった事で逆輸入する形でようやく注目される様になったという経緯があり日本でのロックの定着がヘビーメタルブームからの80年代以降からという歴史があった事からもミカバンドの評価が低かったのは理解されない音楽性にあるのでもましてロックが不良の音楽だと嫉まれていたからでも無くそもそも日本にロックが受け入れられる土壌が無かった所に理由がありました故に日本においてミカバンドとは登場が10年早かったバンドであったと共に逆に10年早くミカバンドがあった事が80年代に起こるロックブームを一足先に道を拡げていた形で爆発的に広がる事に繋げるという日本の音楽を次のフェーズに移す事に貢献したバンドでもあったと言えました■ミカバンドが画期的だったのは当時の日本の音楽界が曲の編曲を全て譜面におこして譜面に書かれた通りの演奏をしていた時代に現在では当たり前となっているスタジオにメンバーが籠もって曲を作る「ヘッドアレンジ」を既に行っていた所やデビュー当時メンバー全員でロンドンの雰囲気を味わうというただそれだけの為に2、3ヶ月滞在しに渡英したりと各メンバーの音楽性を高める事に努め高橋幸宏は従来のロックドラマーにあった体育会系体型で無骨なイメージを払拭し線が細くイヴ・サンローランの靴を履きドラムを叩くファッショナブルなイメージを音楽界にもたらすなどそれまでの日本の音楽界の常識を覆してサウンドだけでは無く行動やファッションまでも音楽へと昇華し日本の音楽をスタイリッシュな方向に導いたミカバンドの功績は計り知れないものがあったと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼渡辺香津美 - KILYN (1979)Kazumi Watanabe- KILYN収録アルバム『KILYN』清水ミチコのユーミンネタでギターを弾いてました日本を代表するジャズギタリスト渡辺香津美の、坂本龍一を共同プロデュースに高橋幸宏、矢野顕子、小原礼、村上(ポン太)秀一、マライアの清水靖晃他錚々たるメンバーによって制作された「ジャズ」と「テクノ」という2つのジャンルを前半後半に振り分けて2つのジャンルをまたいで演奏する渡辺香津美のギターを堪能できる多分に実験的傾向が強いフュージョン系アルバムでの当時スポットを浴びていた「レゲエ」のラテン系音楽の硬めのリズムをマーチングバンドなどで演奏されるスネアドラムにスティックを細かい跳ねでロールする「パラディドル」奏法で流麗に演奏し土臭いラテン系音楽に気品と知性をもたらしたコチラも「ラテン」と「ジャズ」をまたいで華麗に演奏するフュージョンドラマー高橋幸宏のプレイが光るナンバーになっております■渡辺香津美 (画像参照: wikimedia)高橋幸宏はYMOが1978年にデビューした後も自身が加入するバンド「サディスティックス」での活動を続けながら並行してセッションの仕事も行っていたというそんな非常に多忙な時期のレコーディングの一つが渡辺香津美のアルバムの「テクノサイド」での参加でした渡辺香津美の特徴は正確なピッキングでなめらかなフレージングを奏でるクリアながらも流麗で粘りのあるギターサウンドにあります渡辺香津美の代表作 (80)『TO CHI KA』の一曲目の「リキッド・フィンガー」というタイトルが現している様に割りと硬めのリズムとキーボードをバックにウォームでキレのあるギターでサウンドに拡がりを与えてギターの存在感をアピールするスタイルで日本の「フュージョンギター」を決定付けたギタリストだと言えます渡辺香津美は元々細野晴臣のファンで細野のセッションにはまだYMOが無かった頃から度々参加しておりそれがきっかけでYMOが世界ツアーに出る時に矢野顕子と共にサポートメンバーとして誘われる事になります当時のシンセは「MIDI」企画以前の複数のキーボードを同時演奏する技術がまだ無かった為YMOがライブをするには坂本龍一以外の演奏者にもキーボードパートを演奏して貰う必要があった事とシンセの音色を瞬時に変更出来る技術も未発達だった事もありレコードと同じ音での演奏が困難だった事からサウンドの欠落を物理的に埋める為のキーボードよりも柔軟な対応が出来る楽器を要していた事で「テクノ」というジャンルがまだ馴染みが無かった欧米でグローバルな楽器である「ギター」がその橋渡しになるという期待から思いっきりアドリブでソロを取って欲しいと言われた事で参加を決定します渡辺香津美は「テクノ」のシンセ音との「ギャップ」を埋める為ウェーブ系や空間系のエフェクターを駆使してライブで違和感無く浮かないギターを目指しながらギターの存在感を観客にアピールして演奏しましたこの時の演奏は後日ライブ盤としてリリースされるのですが渡辺香津美がYMOとは異なるレーベルに所属していた関係からギターの演奏を使用出来なくなり代わりに坂本龍一のキーボードに置き換えられたものが『パブリック・プレッシャー』というタイトルでリリースされましたその後、坂本龍一がDJを担当していたFMラジオ番組「NHK サウンドストリート」内で『ライディーン』他、ギター入り演奏がオンエアされた事がありましたが1990年に入って資本会社が変更し販売元がYMOと同じになった事で91年に2枚組CDで『フェイカーホリック』というタイトルで渡辺香津美ギター版がめでたく日の目を見る事となりました▲目次へ▲△▼ △▼ △▼シーナ&ザ・ロケッツ - RADIO JUNK (1980)SHEENA & THE ROKKETS - RADIO JUNK収録アルバム『真空パック』シナロケのアルバムと言うよりほぼYMOとのコラボ1979年のアメリカ公演から凱旋帰国したYMOの日本公演でオープニングアクトを務めた事でも知られる九州福岡出身のギタリスト鮎川誠とシーナとの夫婦デュオシーナ&ザ・ロケッツのYMOとの共演作となった代表作的アルバムからの高橋幸宏が手掛け YMOのライブ人気曲としても知られるナンバーです■シーナ&ザ・ロケッツ70年代後半、九州から上京して出演したステージが演歌レーベルの「エルボンレコード」の社長に気に入られたという変わった経緯でレコードデビューした「シーナ&ザ・ロケッツ」は当時イギリスの音楽シーンでウィルコ・ジョンソンなどが牽引したパブ・ロック・ムーブメントの新たな騎手として見出されたエルビス・コステロのオープニングアクトを務めた事で東京公演を観に来ていた高橋幸宏の目に留まりそれがきっかけでYMOのアルファレコードへの移籍となりYMOのプロデュースで代表作となる『真空パック』のリリースへと繋がる事になりますここでのYMOはプロデュースに加えて「参加」となっていますが事実上の「コラボレーション」であり実際には「シーナ&ザ・ロケッツ」を素材とした細野晴臣の作品と言っても良い程シナロケには無い「テクノ色」が強い作品となりましたコステロとのツアーでも音楽性に付いて楽屋でコステロとやり合う様なシナロケの様なパンクなロックバンドが他人の手によってバンドのサウンドが変わってしまう事に抵抗を感じたのではと思われる所ですがリーダーの鮎川誠は「真空パック」制作時に細野晴臣から「楽曲を素材に料理させてほしい」という要望を受け入れて自分たちの楽曲が「YMO」のエッセンスが入って行く事に面白みを感じたと言いますこれに付いて面白く感じなかったのはむしろロックファンの方だった様で反響が大きかった分 大きな論争にも発展しました一方、鮎川にとって音楽は「アーティスト活動」というよりは「生活の一部」で次のステージがあるかどうか、生き残れるかが重要でありリリースするアルバムの成績やライブでの周りの反応を気にするよりも子供が通う学校の同級生の親達にロックファンが居て鮎川夫婦がレコーディングで忙しいのを察して子供の面倒を代わりに見てくれたりと音楽を演る上での日常生活を家族や手伝ってくれる友人仲間達で乗り切る事の方に大きな意味を感じている様でした最近のインタビューでも鮎川は誰かが経験したことを皆で共有し違う人間が同じパターンの人生を送る世の中になり皆萎えてしまっている と語りロックとは正解を見せる事では無く 息が合う瞬間を生むことだと答えています好きなアーティストの曲に似るのは誇らしい事でありコードなんて借り物だと開き直ってギターを弾く上の世代から受け継いだものに自分たちの思いを重ねるだけというそれが鮎川が感じる音楽であり細野晴臣にどれだけ料理されようともYMOの音楽的実験台にされたと揶揄されようとも『RADIO JUNK』に至っては演奏がYMOでほとんど高橋幸宏の作品だと言われようとも誰の手が入ろうとも自然体がそのままロックとなる鮎川の揺るがない圧倒的存在感があったからこそ「真空パック」がシナロケの代表作となった大きな理由があるのだと思うのでした鮎川誠1948 - 2023▲目次へ▲△▼ △▼ △▼郷ひろみ - 美貌の都 (1983)hiromi go - city of beauty収録アルバム『比呂魅卿の犯罪』当時YMOが郷ひろみが組んだらしいという噂は知ってました50年ものキャリアを持ち現在も現役で活躍する大スター郷ひろみがデビューから11年となる83年に坂本龍一をプロデューサーに迎えて高橋幸宏を始めとするYMOファミリーが総出演する楽曲提供に忌野清志郎、中島みゆき、矢野顕子、糸井重里、筒美京平という錚々たるメンバーによる大ヒット異色アルバムからの作詞 中島みゆき 作曲 筒美京平 演奏 YMO の豪華共演となった大ヒットシングル曲です■本曲は坂本龍一が好みとするデカダンス的ロマン主義を感じるサウンドに高橋幸宏の硬めのラテンリズムに太くうねる細野晴臣のベースが絡み艶のある郷ひろみのボーカルを引き立てる事に専念した作品でシナロケの時の様な「オーバープロデュース」は止めて高音でよく伸びてリズムに乗りキレのある特徴的な郷ひろみの唄の良さを引き出す事に徹しいつものテクノサウンドは鳴りを潜め「歌謡曲」の様式に務めるプロフェッショナルな側面を持ったYMOの演奏が聴ける貴重なナンバーとなっております■郷ひろみこの時期の郷ひろみは 90年代にバラード歌手として再ブレイクする前のデビューから10年が過ぎた歌手としては過渡期に当る節目の時期にこれまでにも西城秀樹や前川清、桑江知子やサーカスなどに編曲、楽曲提供をして日本の歌謡界に新風を巻き起こしてきた坂本龍一を始めとするYMOファミリーに白羽の矢を立て音楽的にもキャリアとしても新たな飛躍を目指し話題性に溢れる異色作としてリリースされました本アルバムは坂本龍一が好む欧州デカダンス満載のそれまでの歌謡曲には無い浮遊感溢れる個性的なサウンドで占められたクオリティーの高いシティーポップな仕上りとなったという点ではYMOの面々は最高の仕事をしたと言えますが規制のジャンルを破壊して再構築しながら「遊び」の精神を忘れない奔放で予測不能でパンクより過激なYMO音楽の良さは封印された様な郷ひろみの更なる飛躍を目論みながら大胆な変化は求めない当時の歌謡界の保守的な体質へ忖度した内容と捉えても興味深いアルバムだったと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼ピンク・レディー - ラスト・プリテンダー (1981)PINK LADY - Last Pretender収録アルバム『PINK LADY』ケイちゃんの中ではこの曲は抹消だったそうですミーチャン、ケイチャンの愛称で知られる伝説的アイドルユニットピンクレディーが解散宣言後にリリースした21枚目のシングルとなった楽曲です本曲は作詞 糸井重里、作曲 高橋幸宏によるこれまでにないテクノポップサウンドでリリースされた意欲作で硬質なテクノサウンドに加工された歌声でダイヤの様に映るガラス玉の様な想い出を捨て偽りの愛にピリオドを打ち未練を残さず去って行くヒロインを描いたピンクレディーの解散を予見する衝撃的な内容の話題性の高い楽曲としてリリースされましたしかし解散後ソロになった未唯mieが今もステージで本曲を歌っている事に対してケイこと増田恵子にとって本曲は、なぜ今この曲なのかという自身の境遇に当て付けられたかの内容に感じられたのか受け入れられない「抹消」した曲となった様でコンビ間での温度差が顕著となった知られざるシングル曲となりました事実本曲はピンクレディーとしてライブで唄われる事は無くオリコンチャートでも85位と全く振るわずセカンドシングル以降オリコンラン1位を独占して来た大人気女性アイドルだったとは思えない寂しい最終章となりました■ピンクレディーリアルタイムでピンクレディーの快進撃を観て来た熱狂的ファン以外の一般視聴者が持つピンクレディーに対して持つ「感覚」はどこかの時点でピンクレディーが消えてしまったという「空白」だと思いますこれはおそらく「カメレオン・アーミー」を堺にその後のヒット曲が思い出せない感覚を指し「カメレオン・アーミー」がリリースされたのが1978年12月でピンクレディーが米国のTV局でレギュラー出演する為に渡米するアメリカ進出と共にピンクレディーが日本のTVから消えたと感じたその様な「空白」だと言えます実際には79年の3月に『ジパング』がヒットしており続く5月は『波乗りパイレーツ』をリリースB面のUSAサイドにはビーチボーイズがコーラスで参加するという超豪華な楽曲となり同年5月に全米進出となった「KISS IN THE DARK」が9月に発売されているので間断なくリリースはされている様に見えますしかし『ジパング』を堺に子供達が唄って踊れるあの愉しいピンクレディーは全米で活躍中の9月に子供のニーズ路線を中止した事で消滅しますその後70年代後期に全米でブームとなっていたディスコミュージックを導入した「大人路線」へ切り替えピンクレディーの2人も納得となった『マンデー・モナリザ・クラブ』をリリースしますが「KISS IN THE DARK」の全米チャート37位という日本音楽界にとっての快挙を成し遂げた事とは裏腹に従来のファン層だった日本の「家族層」には耳慣れないディスコミュージックは不評だった事と子供が観るには相応しくない本来の「セクシー路線」に戻った事で主な購買層だった「家族層」の全て失った事に加えて渡米した事で日本国内でのTV番組から消えた事などそれら全米進出に纏わる「路線変更」の全てが裏目となり人気は急激に下降します実際は79年4月の「東映まんがまつり」内での『ピンクレディーと春休み』と題した短編映画公開の時点でファン層だった子供達の心が既に離れ始めていたという証言もあり折しもピンクレディーがTVから消えた後様々なアイドルがお茶の間のTVを賑わせる様になり世間の関心がそちらに向かって行った事で1980年5月にピンクレディーが帰国した頃には完全に忘れ去られた存在となる事で決定的となるのでした帰国後リリースしたシングル曲は大きく順位を落とし再び日本のメインストリームへ返り咲く事は叶わないままピンクレディーは日本の音楽界の居場所を失い9月には引退を余儀なくされる事になるのでした当初見積もった半数以下の1万5千人の動員止まりとなったみぞれ混じりの雨の中で決行された後楽園での引退コンサートは「旬を過ぎた」タレントの末路を見る様な後に、ブームが衰退してまるで捨てられた人形が雨ざらしになって必死に踊っていると評される様に悪夢の様な出来事として歌謡史に刻まれる事となるのでした■ピンクレディーのブームが去ってしまった要因は世の中のニーズを悪い意味で裏切った結果だと言えますが引退した後度々復活を繰り返して2010年の解散やめ宣言の後は全盛期と変わらないシェイプを保ったスタイルで唄って踊るピンクレディーが完全復活し往年のファンを湧かせます従ってデビューから追いかけてきたファンの目から見れば「引退コンサートは終わりでは無く新たな始まりだった」という言葉もうなずけるものがありピンクレディーの二人にとって「引退」とはこの先ずっと無理のない形の活動を続ける為の「ブーム」という余計なしがらみを捨て去る「リセット」だったという見方もあるのかもしれません■本曲の高橋幸宏作の楽曲が起用された経緯は知る由もありませんが元々は元ポニーテールのRAJIE (ラジ)に提供した「偽りの瞳」を原曲としたものに人気コピーライター糸井重里が新たに歌詞を付けテクノサウンドにアレンジしたテクノ歌謡となったもので当時ブームとなっていた「テクノ」に目を付けた事務所の棚ぼたヒットを目論む一環の中でのダメ元のリリースだった事は想像に難くなく、おそらくそうだと思います81年当時のYMOは飛ぶ鳥を落とす勢いでブーム真っ只中の時の人となっていた時期でしたが一介のミュージシャンからスターとなり自宅から出るだけでファンに注目されこれまでの「自由な生活」が破壊された事にストレスを感じていた坂本龍一の「毒気」が創作に影を落としていた時期でもあり世間の高まる人気とは裏腹にメンバー間がギクシャクした中でのタイミングの悪いオファーだったと言えますその「毒気」を作品やパフォーマンスに投影して「スネークマンショー」の様な企画が生まれて武道館公演では自称「プール」と呼ばれた水溜りを作り観客が水遊びをしながらコンサートを観て愉しむと称してお笑いの演目を続けてYMOが最期まで登場しない「過激な悪戯」を世の中に仕掛けていた頃に当たりそんな悪ノリをしていた当時のYMOのプロダクションにその様なオファーがあったのなら当然センセーショナルな仕掛けを求めていると捉えて高橋幸宏の過去楽曲に敢えて「引退」をほのめかすセンセーショナルな歌詞を付けてピンクレディーの楽曲提供を行った可能性もありそんな楽曲に対するピンクレディー側の温度差と楽曲提供に対しての思惑が噛み合っていない様がレコードとなった様なチグハグさが音になった様な仕上がりになったと言えます本曲を封印では無く抹消と言ったケイこと増田恵子の真意は後に語られるスキャンダルからの実にありがちな人間関係のもつれが引き金となり信じていた「芸能界の親」となった人物に切り捨てられそうして「ピンクレディー」に居場所を失った疎外感が言わせた業界への不信感の現れであった様な印象がありましたが「飛躍」だと思い込んだ「渡米」が本来ピンクレディーが歩まなければならなかった「道」から「大きく踏み外す」結果を生んだのもピンクレディーとは当時の芸能界が生み出した「虚像」のひとつで「セクシーなお姉さんが楽しく歌って踊る」子供のアイドルだったのも本来スキャンダラスなセクシータレントが上手に世の中に中和されて見える様芸能界が企画演出する「TV」が「受け皿」として機能していた日本のTV無しでは存在し得ないものだったからと言えますそうしてピンクレディーが日本の社会に居場所を失ったのは渡米後に「大人向けのセクシータレント」へと大きく路線を変更させた「受け皿」を捨てた本来のピンクレディーを受け入れる居場所が当時の日本の社会に無かった事が大きな要因だったと思われ人間関係のもつれでピンクレディーにしか居場所が無くなった増田恵子がそのピンクレディーでの居場所を失った事で二重に居場所を失いピンクレディーをおもちゃにされた様な「Last Pretender」にはいつもの様なデュエットパートは無くケイのセリフがフィーチャーされた未唯mieが単体で唄う事実上の未唯mieのソロ曲となった事で本曲を聴く度ピンクレディーに居場所を失った事を思い知らさせる悪い思い出しか無い曲となった事がケイが本曲を抹消しなければならない理由なのかもしれません■▲目次へ▲△▼ △▼ △▼矢沢永吉 - 時間よ止まれ (1978)Eikichi Yazawa – Jikanyo Tomare収録アルバム『ゴールドラッシュ』このセッションが後のYMOに繋がる事になるのでした70年代の日本の音楽シーンにロックを根付かせる立役者となった一人で既に50年ものキャリアを持ち70歳を越えた現在もトップアーティストとして日本の音楽シーンを牽引する大スター矢沢永吉のキャロル時代からのトレードマークだった「リーゼント族」「革ジャン」「バイク族」という「不良」のイメージを払拭させ一般リスナーに「アーティスト矢沢永吉」を認識させた矢沢永吉にとってもターニングポイントとなった大ヒットシングル曲です現在でこそ矢沢永吉は社会的にも支持される程の日本を代表するトップアーティストの一人となりましたがデビュー当時はロックに理解の無い社会の中で偏見という洗礼を受けながら独自の道を進むという社会が矢沢永吉の音楽に追い付くまでは「いばらの道」を進む様な決して平坦な道のりでは無かったと言えます70年代当時、矢沢永吉率いる「キャロル」の登場はロックが一部音楽ファンが好むマニアックなものからメジャーなものへと引き上げるだけで無く日本語によるロックの一つの形を提示しこの後訪れる空前のロックブームをも予見する様な鮮烈な印象を与えるものでした一方キャロルの評判は音楽ファンと世間との間には大きなギャップがありイギリスのリバプール発信の本格ロックバンドが日本に誕生したという評価から熱狂的なブームとなって行った音楽ファン層の盛り上がりに対して革ジャンにリーゼント姿で激しいロックを演奏する反抗的なイメージから「不良の音楽」のレッテルを貼られ当時激化して社会問題となっていた「学生運動」で過激派の学生達が好んで聴いていたのが「ロックミュージック」だったという理由で「学生運動」と「ロック」が同一視された事で「社会の敵」扱いにされる事になりますその様な「キャロル」に対して世間が下した評価は多くは偏見によるものではありましたがコンサート会場ではバイク族が親衛隊に付いた事で喧嘩や騒乱が絶えずキャロル周辺で過激なファンが実際に引き起こした数々のトラブルは当時問題視されそれによって世間と音楽ファンとの間の温度差が天と地程の差があった事でも当時の日本に「ロック」が「不良」のイメージが先行しブルースから派生した伝統的音楽ジャンルとして欧米の様に正しく社会に根付いて行かなかった様を物語るものがありますそれ故にキャロル時代は不良の代名詞の様に語られながらも攻める姿勢を崩さない矢沢永吉の音楽は見た目で判断する当時の社会の世相に斬り込む様な力強さを持ち音楽に思想を投影していたフォークムーブメントの延長にあった様な日本語でロックを演る事に限界を感じていた当時の日本の音楽界で不良のビジュアルでアメリカン・ロックをカヴァーしていたハンブルグ時代のビートルズの様に登場しメッセージ性や思想を投影せずに、音楽に乗る歌詞を感覚的にチョイスして日本語のロックを目指し「不良」という要素をロックに投影させた刺激的なビジュアルで暴走族など「アウトロー」を自称する当時の若者層に絶大な支持を得るだけで無く女性層、子供層を含めた一般層の支持を得た事で日本でのロック層の幅を広げる事に努めましたやがて社会にもロックが浸透して行くに連れ矢沢永吉の音楽の激しさが決して反社会的なものでは無くストイックで繊細な神経質な性質が投影された怒りと悲しさを秘めた激しさにある事が見えて来る様になるとこれまで過激なファンが起こして来た問題もロックを敵視して来た社会をも甘んじて受け入れ包み込む矢沢永吉の大きな人間的魅力と優しさの存在に気付きそんな矢沢の音楽に人々は魅了されて行くのでした■矢沢永吉矢沢永吉は誰もが認める日本でも屈指のカリスマ性のあるアーティストとして知られていますが激動の半生を送ってきた自身の人生観から生まれる歯に衣着せぬ様々な言動による独特の持論が「伝説」として残っている事でも良く知られていますそれらの多くは世に物申す様な心に刺さるものの他熱烈なファンによって話が過剰に盛られて行った正確な語録では無くなってしまっているものや真意が定かではない殆ど「都市伝説」と化した様なものも含まれるなど情報が錯綜している事でも有名だと言えます例えば『赤いポルシェで迷子』の話ではコンサートツアーの移動で矢沢が赤いポルシェに乗ってスタッフが乗るツアートラックの前を先導する形で走っていたら飛ばしすぎてトラックとはぐれた時に地元の暴走族に声をかけ矢沢のポルシェを先導して国道まで案内してもらったという地元ファンとのややヤンチャではあった当時ならではの豪快な触れ合いのエピソードがいつの間にか『赤いポルシェで暴走族を先導』に変わっていたり良く知られる『矢沢の2秒』発言などは「お前の年収矢沢の2秒」だったり「お前の人生矢沢の2秒」だったりと人によって言う事が異なり、元々の話が高学歴を鼻にかけ高い地位を笠に着てマウントを取って話をする音楽関係者の高飛車な言動にキレた言葉という様な言動に至る「真意」があってもその切り取られ方次第で「批判」を生む様な言動に受け取られてしまう事もしばしばある事でも知られています■「時間よ止まれ秘話」に付いて■本曲の制作秘話に付いてもCMプロデューサー大森昭男の話と音楽プロデューサー関口直人の話と歌謡曲愛好家の濱口英樹の著書「ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人」を元にしたwikiの解説とは食い違いがありどれが本当の話なのか判断に困るものがあります資生堂のCMプロデューサーだった大森昭男の話では送られてきたデモテープはギター一本で仮歌の英語の歌詞を弾き語りで唄ったものと作詞のイメージを語ったメッセージが加えられていて「パシフィック」と言うワードも入ってこんな感じで唄いたいという山川啓介に向けたプロデューサー視点のものだったそうで後日山川啓介は難しかったが愉しい仕事だったと語る程のクリエイティブなものだったとの事です音楽ディレクターの関口直人の話ではスタッフとの合同打ち合わせの席で矢沢がギターを持ち込み生で弾き語りをしてそれを録音したものを作詞家の山川啓介に送ったとなっておりデモテープの話が生歌に変わっています一方の濱口英樹の著書によれば音楽プロデューサー酒井政利の談として完成した歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」と断ったとしておりいきなり話のトーンが変わっております更に担当者が何度も説得してようやく矢沢が「条件がある。矢沢、この歌は一生歌わないよ」と条件付きでOKしたとなっているので話が根底から覆っている印象があります矢沢永吉本人はと言いますと2022年6月のインタビュー記事で「いい鍵盤弾きがいるよって教えてもらったら、面白い詞を書くヤツいるよって聞いたら、すぐに飛びつく。それが当時まだ世間的には無名だった坂本龍一であり、5年前に他界された作詞家の山川啓介さんだった。」とし「デモテープには曲だけじゃなく、僕が求めるイメージや気持ちまで吹き込んで、まだ会ったこともなかった山川さんに送ったんだ。」と本曲制作の時点で山川啓介とは会っていない事や山川啓介を信頼しきって依頼している様が受け取れて矢沢本人の話が真実だとしたら一体どこから「歌いたくない」という話が出てきたのか一方で実名を出して語っているエピソードの真意を確かめる術も無し と関係者によって本人によっても話が違う所が悩ましい所ではありますw45年も前の出来事の為にそれぞれの記憶違いという可能性もありますがこれはおそらく人によって話が違うのではなくて、話の順番が人によって違う為に起こった錯綜なのでは無いかという印象がありますつまり関口直人が最初に会議の席での矢沢の生歌を聴いてその模様を録音したテープが大森昭男に渡りそのテープが送られてきた山川啓介が歌詞を書いたというのが正しい時系列なのではと思われます矢沢の「まだ会ったことも無い」発言に付いては本曲のシングル盤B面「チャイナタウン」の作詞も山川啓介でこちらは1977年4月21日にリリースされた3rdアルバム『ドアを開けろ』の収録曲という本曲よりも半年も前に作られた楽曲になるので「まだ会ったこともなかった」はおかしな印象がありますがこれも文字通り捉えれば実際に会っても会わなくても依頼に応えてくれる山川啓介とのクリエイティブな関係を語った「実際の出会い」があったかどうかを語っている訳では無い言葉だと捉える事が出来ます一方、濱口英樹の著書のwikiの解説に付いては著者が当事者では無く一介のライターによるものという性質から先程の「まだ会ったこともなかった」という切り口で山川啓介をリスペクトした矢沢永吉の口調からも上がってきた歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」とひと揉めあったエピソードはいわゆる「矢沢伝説的」過ぎますし実際には「チャイナタウン」で既に山川啓介を起用しておりますので辻褄が合わない印象は拭えません更にこの著書ではこの件に付いて「ところが、2009年の紅白歌合戦に特別出演した際彼はこの歌(時間よ止まれ)を歌いましたね。ファンの要望が一番多かったようです」とまるで2009年に封印が解けたかの様な文脈で書いておりますので実際には本曲がリリースされた1978年の全国ツアー「GOLD RUSH '78/'79 CONCERT TOUR」でも83年の「EIKICHI YAZAWA I AM A MODEL CONCERT TOUR」でも86年の「FEELIN' COME HA~HA EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '86」でもその後も数多くのコンサートで「時間よ止まれ」は唄われている事や「チャイナタウン」も同様に78年のライブから唄われている事からも「人の歌は歌いたくない」という話は道理としておかしい事になりそもそも「攻め」を信条に「弱み」を持つ事を嫌い有言実行する「あの」矢沢永吉が、貫けない様な事を口にするのは考えにくいものがあります又この話が実話だとしても信憑性に欠ける印象があるのはおそらくこの語録だけでは重要な要素が欠けていて話が「不正確」だからだと言えます・・・これは想像、というかお得意の「妄想」になりますがw「人の歌は歌いたくない」「矢沢、この歌は一生歌わないよ」というのは事実で本当にあった事であれば「説得した」「条件がある」というくだりに説明が足りない「不正確」さがある様な印象がありますこれは山川啓介の歌詞が自分がとても書けない様なくやしい位に良い出来だった事をこの様なひねくれた形で「称賛」したという話だと 想像して・・・これは矢沢永吉に取ってみれば歌詞は素晴らしい出来のものが上がってきたものの今回の仕事は広く世に出る千載一遇の好機だと言う事もありそんな楽曲ならやっぱり自分で歌詞を書くべきかもしれないと土壇場で思い留まって一旦保留を口にした・・・そんな可能性が考えられますそれは矢沢永吉にしてみれば「(やっぱり)人の歌は唄わない(方が良いかもしれない)」という方向で一度「考慮」してみようとした程度のニュアンスで口にしたアーティストとしての「性(さが)」による単なる「一考」だったのかもしれません一方で、一分一秒のスケジュールで動いている関係者からしてみれば矢沢の言葉はそのまま「人の歌は(やっぱり)唄わない(唄いたく無くなった)」という一大事に映ったと思われ「スターのワガママを何とかしなければ仕事が崩壊する」という思考で必死に「説得」する流れへ繋がったと捉える事が出来ます関係者がその様な尋常ではない空気を出したのならば矢沢永吉が軽く思い付いたひらめきに対してのリアクションとしては余りにも温度差があり過ぎると言えますその場合は矢沢永吉はそんな関係者から感じた「異変」に対しその程度の創作上の「機転」も与えられない「不自由さ」を感じて若干の「不信感」を持った可能性が考えられるので「ボクは良いけど矢沢はどうかな」エピソードでのホテルの指定した部屋を取りそこねた関係者に対しての自分に対しての扱いを「試す」言葉の様なニュアンスで「ファンが望むなら応えるが矢沢からは唄わない」というまだまだアーティストの扱いを心得ない当時の関係者に向けてのある種の「洗礼」と「線引」を行ったのが「矢沢この唄は一生唄わない」発言の真意だと思われその真意が人伝に行くに従って話が変わって行ったというのが真相という印象があります従ってなぜこの様に矢沢永吉のエピソードが人によって話が変わり錯綜するのかというのはまず矢沢永吉自身がこの様な話が出ても否定も肯定もしない所にあると言えますただ、この様に自身の語録やエピソードが一人歩きをして話が大きくなる様な現象に付いては必ず新聞を読み情報収集に余念のない矢沢永吉自身が一番気に留めているのでは無いかという印象があります従ってこれらの話に付いての言及をする事が殆ど無かったのは全ては自身が招いた事として静かに受け止めている証でもある様なそんな印象があります本曲に付いては芸能生活50周年となった節目として自身のナンバーワンヒットとなり転機にもなった事で近年のインタビューでは成功に至った秘訣を「怖がり」という言葉で表し「怖いから必死で探る、調べる、計算する。臆病はある種、俺にとってはレーダーなんだ」と語っている事からその「勘」に基づいた感性で坂本龍一を見出し、山川啓介と出会い高橋幸宏がメンバーだったミカバンドのアレンジ術に衝撃を受け本曲が誕生し真のビックスター矢沢永吉が覚醒したという「全てを受け入れる」真摯な姿勢に矢沢永吉がトップアーティストであり続ける真の理由があるのかもしれません■高橋幸宏と矢沢永吉との関係は73年頃ミカバンド時代に日比谷野音や西武劇場などのイベントでキャロルと共演して以来74年にはジョイントツアーとしてキャロルと共に全国を周った旧知の仲で矢沢永吉がソロに転向した時は1976年にリリースした初のライブ版『THE STAR IN HIBIYA』でサディスティックスのメンバーとしてライブをサポートし矢沢永吉の3枚目のアルバム77年にリリースされた『ドアを開けろ』ではレコーディングにも参加高橋幸宏は初期の矢沢永吉作品のサウンドを支えたドラマーの一人であり盟友でもありました高橋幸宏はキャロルに付いて各地をミカバンドで一緒に周った思い出深いバンドだと語りリバプールを思わせるリーゼントに革の衣装でカッコ良く「ルイジアナ」「ヘイ・タクシー」などの初期の時代が好きだとコメントしております本曲では坂本龍一も参加しており高橋幸宏はこの後の1978年2月19日に77年に制作された細野晴臣のアルバム『はらいそ』での参加がきっかけで細野に呼び出され、こたつを囲んで細野からYMOの構想を聴かされた事で『イエローマジックオーケストラ』が始動する事になるのでその誕生前夜となるレコーディングだったという意味でもこれまでスタジオミュージシャンとして「裏方」だった高橋幸宏、坂本龍一にとっても表舞台に出る直前の重要なレコーディングとなったと言えるのかもしれません▲目次へ▲△▼ △▼ △▼松任谷由実 小田和正 財津和夫 - 今だから (1985)Sadistic Yumi Band - imadakara収録アルバム:シングルアナログレコードのみ ※未CD化トリは「はっぴいえんど」でした■本曲はニュー・ミュージックの大物 松任谷由実、小田和正、財津和夫が1985年に東芝EMI 、EXPRESS、ファンハウスというレーベルの壁を超えてコラボしリリースした楽曲でニュー・ミュージックからJ-popへのムーブメントに向かう当時の日本の音楽界で国連が提唱した「国際青年年」を記念した音楽イベント『ALL TOGETHER NOW』に繋がる話題作となった楽曲です■作詞と作曲は三人の共作ですが実際の作業はユーミンと小田和正で進められ財津和夫のタッチは無かったと聞きますこの楽曲の編曲とキーボード演奏を坂本龍一が行いドラムが高橋幸宏、ベースに後藤次利、ギターが高中正義と「サディスティックス」の3人が担当『ALL TOGETHER NOW』ではこの楽曲を唄う三人に加藤和彦を加えた「Sadistic Yumi Band」 が 一つの呼び物となりました本曲のアレンジはどこからともなく響いてくる空間系サウンドと意図的に隙間を生む硬質な音を同居させて新しさを感じさせながら古いものが消えていく中でのひだまりにいる温もりを体現した様な坂本龍一らしいシンセ音に重めのサウンドにゲートを効かせて響きを切り捨てるシンプルな高橋幸宏のドラムがリズムを刻み終わってしまった恋を友人同士で語り合う様な全体的に力の抜けた大人のムードのリラックスした雰囲気の演奏を聴くことが出来ますこの楽曲が披露された『ALL TOGETHER NOW』というイベントを深読みすればこの時代の歌謡界で主流だったニューミュージックが日米貿易摩擦が生んだ内需拡大路線を音楽で体現した様な日本の音楽に洋楽の要素を加えた「J-POP」に取って代わられ過去のものへと押しやられる様を描いた様な加えてこの時代特有の「チャリティー」の機運が多分に政治的背景が濃くあり司会の吉田拓郎が開会を宣言する様はオリンピックそのもので音楽への関心がそのまま与党の支持へと若者層を取り込むという様な音楽が最も政治に近かった時代を思わせるものがこのイベントから感じられるものがあった事は否めなかったと言えます■松任谷由実高橋幸宏とユーミンとの関係は中学生時代まで遡る程の旧知の仲で高橋幸宏の父親は会社経営者で軽井沢に別荘を持つ程の資産家でもあった事から常日頃から色々な人が集まる環境にあってユーミンは高橋幸宏の実の兄で音楽プロデューサーの高橋信之がミュージシャン時代に結成していたフィンガーズのファンという理由で高橋幸宏が高校生の時には気がついたら家に中学生のユーミンが普通に居たという家族的な付き合いがある間柄でしたユーミンとの共演は高橋幸宏が高校2年生の時若者向けTV情報番組『ヤング720』での出演が最初でボーカルは「ケンとメリーのスカイライン」のCM曲で知られる『ケンとメリー〜愛と風のように〜』の東郷昌和が担当しまだ中学3年生でデビュー前だったユーミンはピアノを弾き14歳の時に作ったという「マホガニーの部屋」という曲をTVで演奏しましたこの曲は後に全面的に歌詞を書き換えて後にユーミンの夫となる松任谷正隆が編曲し76年に荒井由実7枚目のシングル「翳りゆく部屋」として発表されますユーミンは17歳で作曲家デビューした後18歳の1972年に「返事はいらない」でシンガーソングライター荒井由実としてデビューしその時も高橋幸宏はドラマーとして参加しました天才少女として謳われてきたユーミンのメジャーデビュー作としてはこのデビューシングルは全く売れずデビューアルバム『ひこうき雲』では松任谷正隆率いるキャラメル・ママで再録されたいわゆる「テコ入れ」されたものが収録されこの鳴り物入りでリリースされたアルバムはオリコン年間チャートで11位の好成績を弾き出すのでした2年後の81年リリース『昨晩お会いしましょう』ではシングル『守ってあげたい』の大ヒットを受けてオリコンアルバムチャート1位を記録1997年『Cowgirl Dreamin'』までの17年間17枚連続でオリコンアルバムチャート連続1位を獲得するという快挙を成し遂げる事になります再びユーミンのアルバムに高橋幸宏が参加するのは初シングル発表から7年後の1979年『OLIVE』まで待つ事になりますがその後ドラマーとしてユーミンの音楽を支えるのは林立夫を始めとする他のミュージシャンが務め家族的な付き合いのある高橋幸宏でしたが意外にもユーミン作品には余り参加していなかったのでした■高橋幸宏が語ったユーミンとの思い出話の中にユーミンがプロデビューを果たした時のスタジオでの作業での事簡単で単純な作業が続きまだ若かったユーミンはそれに飽きたのか「疲れたからもうやめたい」と口にした時「誰のためにやってると思ってるんだ」と高橋幸宏が怒ってユーミンはそれをずっと覚えていてその事をすっかり忘れていた高橋幸宏に「私が叱られたのは後にも先にも幸宏一人だけ」と言った事やユーミンの曲に付いて89年にリリースされたユーミン21作目のアルバム『LOVE WARS』に収録された大ヒット曲『ANNIVERSARY』に付いてその曲の行間に含まれた信じられない人をそれでも信じようとする切なさを読み取って高橋幸宏90年のシングル『1%の関係』で「夢に開く穴に落ちないで」と唄いユーミンの曲のアンサーソングを作っていた話などこれらを思い出として語る高橋幸宏はドラマーとしてユーミン作品に参加しなくてもユーミンとの間にある特別な繋がりと強い信頼関係と非常に近い距離感を感じさせるものがありましたそれは学生の頃から家族の様に過ごしてきた「兄妹」の様な関係からその様な印象を受けるものがありますが多くは高橋幸宏が人との間に築く「絆」にある様に思われます■高橋幸宏はYMOに於いても坂本龍一と細野晴臣とを繋ぐ役割を果たして強い信頼関係を築いて来ましたミュージシャン界隈で有名になっても一般人は知らない「無名」のままで前に出たく無いスターになりたくなかった坂本が全米ツアー後に有名人となりそれによって一般人にも名前と顔が知られて街を歩いていても名前を呼ばれる事がストレスとなっていた時期に世間が望むYMOを強いられる事と自由な采配で音楽をやれない不満から度々細野と衝突し険悪なムードになっていた時も「まあまあ・・・w」と仲を取り持つのが高橋幸宏の役目でした「前に出たくない」という意味では高橋も「サディスティックス」でフュージョン音楽を経験し派手にテクニックを見せるドラマーに惹かれた体験を通して音楽はサーカスでは無く難しい技をプレイする、テクニックを見せ付ける事よりもポップ・ミュージックの中でドラマーはメロディーを聴いて プレイしある程度のスキルが身に付いたら誰が聴いても分かる様な「スタイル」を身に付ける事を目指すのが重要でテクニックを見せ付けてまで前に出る必要は無くても後方に居ても自分である事が分からなければならないと言う様な「表現」する事による「責任」を負う覚悟が音楽を演る上で必要な事だと語り音楽家としては「天才」でもまだまだワガママお嬢様だったユーミンをミュージシャンとして名を馳せても社会人としての覚悟が足り無かった若き坂本を時には叱り時には諭して音楽へと繋ぎ止め「見た目」も「人付き合い」も「表現」の一つだと捉え身なりにも人間関係にも気を使いジョージ・ハリスンを理想の音楽家と敬い「目立たない主役」「目立つ脇役」を目指した高橋幸宏は自分にとって音楽にとって何が大事なのかを感覚として身に付けて自分が自分らしくありながら人とのあり方を捉える「繋がり」を大切にする人物だったと言う事なのでしょう☆▲目次へ▲△▼ △▼ △▼山下達郎 - ディス・クッド・ビー・ザ・ナイト (1978)Tatsuro Yamashita - This Could Be The Night収録アルバム『GO AHEAD!/Big Wave』坂本龍一の言う所この頃の仕事は「アルバイト」だったそうです先程の矢沢が50年ものキャリアを誇る西を代表するアーティストであるならこちらの達郎も50年ものキャリアを誇る東を代表するアーティストで洋楽に精通しポップス、ロック、オールディーズを網羅しドゥーワップ歌唱に於いては多重録音を駆使し一人アカペラをこなし世界にも類を見ない唯一無二のサウンドを誇る日本を代表するシンガー・ソングライター山下達郎の自身の転機となった代表的アルバムからのライフワークとして取り組む洋楽カバーからハリー・ニルソンの隠れた名曲で84年の記録映画『ビッグウェイブ』のサントラとしても使用された達郎作品中でもコアな人気曲です■山下達郎この作品は、当時山下達郎がレコード会社からソングライターとしては技術もあり優秀と評価されながら歌手としては売れないと判断を下されていた時期に今後は作曲家プロデューサーとして活動しようと本作を最後のリリースと決めて時間も予算もきっちり決められただけの中で使いその代わり好きに作ったアルバムとなった歌手引退作という経緯で制作されたもので制作期間内で可能な限り作曲されたオリジナル数曲と後は人に書いた過去作と本曲のカヴァーという達郎にとってこれが代表作となるとは思いもよらない中コンセプトも曲調もサウンドも揃っていないある意味バラエティーに富んだラインナップでレコーディングされました■本曲の演奏は予算の関係からか山下達郎一人で行われ達郎サウンドの代名詞の「一人多重コーラス」に加えドラム、ベース、ギター、ピアノ、コーラスの全てを担当そのパートの上に坂本龍一のシンセを被せて完成させたというほぼ手作りの楽曲となりました本曲の原曲のプロデュースをしたのはビートルズの『レット・イット・ビー』のプロデュースで知られる音の魔術師の異名を持つフィル・スペクターで重厚なサウンドに巨大空間を思わせる遠鳴りのリバーブが特徴の「ウォール・オブ・サウンド」が有名のサウンドクリエイターでした山下達郎は本曲で音圧のある生楽器の演奏に加えて坂本龍一による当時最先端となるポリムーグシンセによる綺羅びやかなストリングスサウンドの広がりを得た自分なりのこだわりで作った「ウォール・オブ・サウンド」を再現しましたPolymoog Synthesizer (画像参照: wikimedia)本曲は後に86年の記録映画『ビッグウェイブ』でボーカルとソロを新録し『GO AHEAD!』とは若干サウンドが異なったリミックスヴァージョンとして再リリースされるのでアルバムによってその違いを愉しむことが出来ますエアーブラシイラストで一世を風靡したペーター佐藤の手による3日で描いてもらったイラストをジャケットカバーに添えた『GO AHEAD!』は78年12月20日のクリスマス・シーズンにリリースされ立っている者は親でも使えと担当ディレクターまでもが演奏に参加してセールスに繋げる為にやるだけの事はやり尽くした正に総力を挙げてのアルバム制作となりましたそうして年が明けた春のある日の事、「大阪のディスコでアルバム収録曲の『BOMBER』がブレイクしている」という噂が達郎の耳に入り、元々シングル「LET'S DANCE BABY」のB面だった「BOMBER」を急遽A面にしたジャケットで再発し半信半疑でバンドを率いて大阪に向かったのが6月。関東出身の達郎にとってはかつてシュガーベイブ時代に体験した「関西の厚い壁」を思い知る東京に対する反感と言う「洗礼」を受けていただけに苦手意識のあった関西圏のコンサートでしたがこれまでの客層とは全く異なるオーディエンスで埋め尽くされた大阪サンケイホールでの意外な盛り上がりでステージは大成功となりそれが転機となって次作の79年発表の『MOON GLOW』はオリコンアルバムチャート20位ランクインの大ヒットを遂げそれまでサブカルチャー系なコアな音楽ファン御用達のマニアックな音楽に傾倒するミュージシャンだった山下達郎が新たなファン層を獲得した事でメインストリームで時代の空気を感じる音楽を自ら牽引する事に興味を持つ様になりそれが80年のオリコンアルバムチャート1位に輝く大ヒット作『RIDE ON TIME』への足がかりとなり現在に至るまで低予算、短時間、手作業で作られたアルバム『GO AHEAD!』は達郎の思わぬ 代表作 となるのでした■山下達郎はTVなどに顔出し出演しない事で有名で例外的に第33回レコード大賞で『アルチザン』がアルバム部門を受賞した時に『さよなら夏の日』をマイクに向かって唄う映像を公開した以外知る限り、奥さんの竹内まりやと結婚した時のTVのニュースで奥様をどう思われるかというキャスターのインタビューに「八頭身美人」とノロケて答えていた映像以外TVでの顔出しは無い事を徹底している事でも知られておりますが近年映画館での”シアターライブ”形式での公開やコロナの影響で配信によるコンサートが増えた時期に高音質動画配信サービス”MUSIC/SLASH”でライブ映像での顔出しステージをこなすなど時代の要求に応じてそのスタンスは代わりつつある様です山下達郎がなぜその他のアーティストの様にDVDを出したりTV出演をしたりしないのかという理由は一つは、「音響」に付いて地上波TV、DVD、Blu-rayの「圧縮音声」が納得できるものでは無い事を挙げておりアリーナクラスの会場でコンサートを行わないのも上記の「音響」が納得できるものでは無くなる事で高いクオリティーで音楽を届ける事を最優先するポリシーからそれらを行わない理由としている様ですが「GO AHEAD!」の時にレコード会社上層部から指摘された「トータルキャラクターとして捉えると数字が取れない」という判断を「タレント性に欠ける」とおそらくそう捉えた達郎が他のミュージシャン仲間が音楽活動以外の日常でTVを観たファンに追われ平穏な生活が失われている様を観て元々向いていないタレント活動で顔出しをしてもTVの影響力はリスキーなだけで自分には得はないと判断しメディアへの露出はラジオ、雑誌インタービューに留めてやらない様にしていると思われる所があります■坂本龍一の誤算となったYMOでの顔出し出演■坂本龍一が達郎のレコーディングに参加したきっかけは大学時代に小劇場の音楽を担当した事で演劇関係の人達と新宿歌舞伎町にある「新宿ゴールデン街」に出入りする様になり演劇関係と音楽関係の人脈が広がって行った頃に共通の友人を通して親しくなった事からと言います当時坂本龍一は70年代安保を引きずった様な中央線沿線に集まっていたフォークや元活動家などが混在した制度の解体や資本主義に管理された音楽の開放や人民解放に倣って音楽を労働者に開放させる事を本気で論議し「表現」とはある種「闘争」でもあるとしていた当時のカルチャーにどっぷりと浸かった青春時代を送っていましたYMOでスタイリッシュな出で立ちで世に出たとは思えない長髪にジーンズで素足に草履という昭和の若者そのものの姿で演劇の舞台に立ったり、和製ボブ・ディランと謳われた友部正人と知り合ったりする中で「演劇」と「音楽」を「シンクロ」させたり嫌いだったフォークミュージックの知らざる側面に触れ友部正人の全国ツアーでピアニストとして日本中を旅したりと音楽が本業という自覚が無いまま音楽が中心の生活を送っていたそんな頃、坂本は荻窪のライブハウスで初めて山下達郎と会い自身が音大で何年もかけて勉強した現代音楽のハーモニーを洋楽のロックポップスから正確に吸収し既に自分のものとしていてそれらの音楽的知識を共通の言語にして突っ込んだ話をする事が出来た山下達郎とすぐに意気投合しますその後山下達郎のレコーディングやライブに参加した後「はっぽいえんど」のボーカルで山下達郎の師匠とも言える大瀧詠一を紹介されて大滝詠一のスタジオで細野晴臣と出会う事になります坂本は細野が達郎同様にアカデミックな音楽教育無しに自身が勉強してきた音楽の話も出来る事に驚いてこの二人が傾倒しているロック、ポップスに対しての興味が湧き先のない西洋音楽を勉強する為音楽大学に入学し時には美術学生を率いてデモのリーダーとして闘争に参加し学生結婚して子供が出来て結婚生活は上手く行かずに直ぐに破綻しその責任から音楽を本業にして稼ぐ為に働き音楽が本業という自覚の無いまま音楽で稼ぐ事に明け暮れてきた無軌道で目的の無いこれまでの生活の事を思えばやり甲斐があるものを見つけた事を確信したこれらは全て人生の転機となる出会いだったと言えます■山下達郎はインタビューの中で60年代安保は物書きを輩出し、70代安保はミュージシャンを輩出したと語った事がありました当時は山下達郎と同年代ミュージシャンが大勢居てその中には坂本龍一が青山のデモの参加で車をひっくり返していた頃同じ青山でダンスパーティーに参加していた山下達郎、坂本龍一とは全く異なる青春時代を送っていた高橋幸宏 が居ました高橋幸宏は坂本龍一が知る中央線沿線のヒッピー族のコミューンとは全く異なるアールデコ調の屋敷に住みKENZOのファッションで身を包みファッショナブルな出で立ちでドラムを叩く達郎、細野とは異なる「別の人種がロックを演っている驚き」があったと言います時代は70年代半ばとなり、メンズビギが登場し様々なファッションブランドが立ち上がりカフェバーにはファッショナブルな大人達が立ち寄り経済が高度成長期を迎える新たな時代を迎える中にあり大島渚監督の『日本の夜と霧』に出てくる様な白いワイシャツに黒ズボンを履いて難しい議論をし学生がバンカラでデモ闘争していた時代は過ぎ去ろうとしていました。1978年2月には細野宅で「テクノバンドの構想」を細野から提案される伝説の「こたつ集会」が行われ当時尖っていた坂本は「時間があったらやりますよ」とわざと飛びつかずやぶさかでないという態度で答え高橋幸宏はその場でやりましょうと二つ返事をしてYMOが結成される事になりますそうして制作されたフランスの監督ジャン・リュック・ゴダールの映画のタイトルを楽曲のタイトルにして並べた最初のアルバム「イエローマジックオーケストラ」では坂本が「東風」を高橋が「中国女」を細野が「マッドピエロ」を選び各々が作った楽曲を持ち寄って皆でレコーディングして行きます「中国女」のフランス語パートは当時のアルファレコードの秘書の女性に頼みボーカルパートは細野のアイデアで高橋が担当しようという事になりYMOリードボーカル高橋ユキヒロが誕生します高橋幸宏は音程があるのかないのか分からない様な唱法で唄いそれを更にエフェクターで加工して仕上げる「フー・マンチュー唱法」と呼ばれる独特の唄い方をYMOのレコーディングで行っていますがこれには「メンバー」が「バンド」の顔となって全員が「スター」となるのが通例な所をメンバーの素顔が見えない様にする「匿名性」をYMOに導入して「ミステリアス」をトレンド化させるという細野の考えからでもある様でしたそれは「無名でいたい前に出たくない」坂本の考えを体現したものでもあった訳でこの「何者が演奏しているのか分からない」がコンセプトのテクノバンドは思惑通り日本では謎のバンドとしてデビューを飾りメンバーをプッシュしなかった事でセールスも振るいませんでしたしかしアメリカ公演以降状況は急転し凱旋帰国後YMO人気が国内で高まりYMOの三人は時の人となって行きますやがてTVやラジオ雑誌などでのメディアの露出が増えタレント活動も仕事の一部になるに連れてバンカラで出歩き一般人に紛れて普通に生活して来た坂本も家を出た所で指を差されて名前を呼ばれるまでに日本中に顔を知られる程の有名人となりどこに行っても名前を呼ばれ誰もが自分の顔を知っているという状況からもはや普通の生活が出来なくなった坂本はそのストレスから何ヶ月も部屋に引きこもる生活を続ける事になりますそうして普通の生活が失われた事への憎悪が坂本の中で次第に高まってそれがYMOへの憎悪に結び付いて行きます生活が激変してストレスに晒されたのは細野も高橋も同様でしたが坂本の毒が細野にあてられ高橋がなだめるという図式でYMOの仲は険悪なムードになって行きます最もメンバーが荒れていた時期に制作されたとされる『BGM』は人気が落ちる事を目論んでワザとマニアックな楽曲を並べたと言われておりそれが乗じてその時期の活動は『スネークマンショー』を始めとする当時はYMOらしいと思われた人気絶頂期にYMOが笑いのネタになる様なある意味「悪フザケ」が活動の「コンセプト」となって行きますこの時期にYMOを陥れる様な様々な「企画」が立ち上がったのはその様な背景があっての事でした1980年4月に行われた「スネークマンショーin武道館」はそんなYMOの思惑を知らない招待客の前でYMOがフォークソングを唄いスネークマンが延々とコントを演り最後の最後にYMOがカーテン裏に隠れたバンドセットを出して演奏を演るという趣向の客をからかう事が目的のステージとなりました主旨を分かっていない客の一部はいつまで経ってもYMOの演奏が始まらない事に本当に怒り出し女装して出てきた坂本が本気かネタか分からない様なテンションで客に怒鳴り返すやり取りに場内はざわつき呆れて帰り出す者も居たと言いますその時期世間が求めていた「期待」を裏切り全て「破壊」してしまおうとしたこれらの行為は折しも漫才ブームが加熱して「どつき漫才」がお茶の間に浸透していた時期と重なっていた事からその様な「表現」に繋がった事で逆に世間に評価される事になります結果としてYMOの過激なコメディー化は「企画」として世間一般に受け入れられる事になりますがそれ位危ない橋を渡る様な突き抜けた事をしないと忙しさで息もできない程のストレスを抱えていた事を物語っていましたそれは先程のピンクレディーの「ラストプリテンダー」の例の様にそんな悪フザケな「コンセプト」がYMOの新たなカラーに加わり世間がその様なノリを望んでいると捉えて「解散」を匂わせる過激ワードの楽曲で話題を提供しようと努めた事でそれが相手のデリケートな所を「逆撫で」してしまう「シャレが通じない」ケースを生み出す事にもなりましたそんな、意図せず人気絶頂期となったYMOの不満の火の粉が思わぬ人気が下降し始めた周りが被るという図式に図らずも当時の日本の音楽界での浮き沈みの顛末を見るものがありそれまで歌手をレコード会社の商品として使い倒してきた「歌謡界」に荒井由実、山下達郎、矢沢永吉、桑田佳祐、タケカワユキヒデ、加藤和彦、他70年安保組が次々と音楽界に参入した事でかつて制度の解体と資本主義的音楽の開放を目指した気概で歌謡界に「闘争」を仕掛ける様な表現で音楽界を席巻して行き確実に何かが終わり何かが始まろうとしていた85年の『ALL TOGETHER NOW』までに至る昭和の音楽界に「引導」を渡す 終わりの始まりを見るものがYMOの活動の中に投影されていたのでは無いかと考えると「YMO」とは知られざる当時の日本の音楽界の「鏡」の様な存在だったと言えるものがあったのかもしれません■山下達郎はこれまでこの様な知人友人達の「有名税」で支払われるストレスに晒されるという「リスク」を嫌という程目の当たりにして来ただけにメディアへの露出をラジオ雑誌のみに控えて純粋に音楽制作に集中できる生活を維持して音楽に政治を持ち込まず坂本龍一のリベラルな申し出もハッキリと断ってそれで関係が崩れる事も無い友情を大事にし映像作品やTV出演をしないのでは無いかと思うのでした☆△▼ △▼ △▼という所で今回は終了です御観覧ありがとうございました高橋幸宏1952 - 2023■坂本龍一1952 - 2023【楽天ブログ】邦楽特集 追悼 高橋幸宏/坂本龍一 - 楽天ブログ(Blog)https://t.co/ak28v1FDeu #r_blog 6万文字もの いつもの「出版クラス」の更新で若き 高橋幸宏、坂本龍一 が「ミュージシャン」として関わった楽曲を特集します— Voyager6434 (@voyager6434) April 14, 2023■【電子書籍】心に訊く音楽、心に効く音楽 [ 高橋幸宏 ]私的名曲ガイドブック価格:721円 (2023/4/15時点)■【電子書籍】音楽は自由にする(新潮文庫)[ 坂本龍一 ]価格:1,100円 (2023/4/15時点)■【CD】12 [ 坂本龍一 ]価格:3,410円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】ベル・エキセントリック [ 加藤和彦 ]価格:1,894円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】ゴールデン☆ベスト デラックス 西城秀樹 [ 西城秀樹 ]価格:3,325円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】黒船 [ サディスティック・ミカ・バンド ]価格:1,936円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】KYLYN [ 渡辺香津美 ]価格:1,717円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】真空パック [ シーナ&ザ・ロケッツ ]価格:2,198円(税込、送料無料) 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