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幕軍松前えとせとら10,戊辰戦争人名編

幕末戊辰の人名,用語,箱館戦争,幕軍、松前えとせとらNo.10,資料編,ガトリング砲,維新時の米沢藩士群像と関連他藩士,河原勝治,川崎尚之助,山本八重子,新島襄,山本覚馬,河原勝治,河原善左衛門政良,大野右仲,五島英吉,

 

幕軍&松前えとせとら

サイトTOP幕末_WITH_LOVE玄関_函館戦争の余波<幕軍&松前えとせとらVo.10
幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO
幕軍&松前えとせとらSERIESの目次<・・・<Vol.9Vol.10現在の頁<Vol.11・・・
この頁シリーズは、サイト内各頁(長編特集からのリンク集約の為、50音順ではありません。各項内のリンクを辿ると、
前後経緯や、周囲の様子(本題)が解ると思います。従来、あっちこっち散らかってます。
各長編特集詳しくは■幕末_WITH_LOVE玄関、■人物名から追う、■巨匠達悲劇と懊悩、■幕末昂じてはひふへほ!
みんなのエピソード編
この前頁=Vol.9:【No.1~No.10人物】
飯沼貞吉、ガルトネル兄弟、
勝海舟の『咸臨丸の大冒険』の時、影に埋もれた小さな史実、
吉岡勇平と福澤諭吉仰天事件他・・他

現在の頁
  1. (人名でないですが!
    ガトリング砲について
  2. 甘糟継成:変名:(新保勘左衛門
    色部長門(久長)

    米沢藩メンバー同頁
    (平田東助,宮島誠一郎,
    斉藤篤信,甘糟鷲郎,
    内村良蔵,曽根俊虎,池田成章
    三潴謙三,有壁精一郎,堀内亮之輔,
    高橋秀松,草刈義哉,海瀬敏行_他

  3. 川崎尚之助,
    山本八重子,新島襄


  1. 河原勝治,
    • 河原善左衛門政良
      =勝治の父
    • 河原岩次郎
      =善左衛門政良の弟
    • 河原あさ子(アサ)
      =旧姓、原。勝治の母
    • 河原勝太郎(勝治の兄
    • 河原国子(クニ:〃妹
    • 河原邦子(こちらは〃娘
    • 河原千賀(勝治の妻
      =旧姓:黒田
    • Yuriko Wild Kawara
      =勝治の孫の一人
    • 黒田九兵衛
      =勝治の妻の父
    • 原惣五郎:アサの弟
    • 原源右衛門:アサの父
    • 宗川熊四郎(〃弟の隊長

  1. 大野右仲
  2. 五島英吉

NEXT_<Vol.11<・・・

NEXT11では、会津中心


現在頁は、各特集(長編)の
補足解説用内容の集合体につき、
五十音順ではありません。
詳しくは、各リンク先ご参照。
現在頁はちょこんとヒトコマ集結編:▼どっさり大勢のリンクはこちら
人物名から追う
■11_ガトリング砲
(人名じゃないですが、ついでなので、用語も思いついた順に・・・)

ガトリング砲
  • 当時としては最先端、連続射撃ができる砲。1861年に発明された世界初の機関砲(連射機能付)。
    現代の感覚では、リアカーにのっかったような、なんともダサい砲にしか見えないが、当時と
    しては、画期的。一分間に280発発射可能と言われた表現も有。(数値は、本当かな?ですが、
    とにかくそれまでの常識を覆す凄スグレモノ)
  • 但し、左右斜めに即時角度変更困難。その為、榎本軍がやられた下記宮古湾海戦では、直近距離、
    ターゲットの方角はほぼ一定状態の敵につき能力最大限発揮。
    対して、長岡藩の河井の時は、当初効果抜群だったが、陸地につき、敵が散開して攻めてきた時、
    能力最大限に活用しきれなかった。
宮古湾海戦で多数の死傷者を出した「榎本武揚」軍の「回天」と甲賀源吾の烈死
・開陽を江差に於ける魔の座礁事件で失った「榎本武揚」軍。このままでは、襲い来る新政府の軍艦
「甲鉄艦(ストンウォール号)」の攻撃を待って、殺られるを望むも同然ではないか!
そうなる前に、大胆不敵、乗っ取り奇襲作戦に躍り出る。
しかし、結果は死傷者の山。殆ど自爆に近い。強烈殺傷力の根源がまさに、このガトリングだった。

実は、沈んだ「開陽」にも、そのガトリング砲が一台積み込まれていた!
されど、江差の海、軍艦「開陽」と共に墓場入り!
なぜ入手していたかというと、山内六三郎の活躍だった。▼



幕府時代、ストンウォール号の引取り掛でもあった山内は、持ち前の
冷静さと語学力を活かし、巧みにアメリカ船員に交渉を為して、
ぷかぷかと浦賀にストンウォール号艦が停泊していたあの頃、
至極初期のうちに、さっさと入手成功。そのまま速攻で開陽に
積み込んでいた。この手際の良さは天才的。しかしその努力も
万事パー!喪失!
アボルタージュ作戦_宮古海戦

長岡藩、河井継之助とガトリング

歴史を騒がした「ガトリング砲」は、シュネルから買った!

河井継之助とシュネルについては、こちらをどうぞ。

・河井継之助の奮戦烈死に涙しない人は居ないと思う
とんでもない金額。藩費の大半使い尽くして、
河井がガトリング砲2挺買った話は有名。

■12_維新時の米沢藩士群像と関連他藩士,

米沢藩に係るの戊辰と、維新後の群像「絡みまくる人脈迷路」
・・・リンク先からどうぞ。リンク先に、もっと色々居ます。

川崎尚之助

■13_川崎之助_(本名もしくは、当初名乗っていた名前が「川崎之助」)

■川崎尚之助とは:(現在枠下の緑色バナーご参照)
山本八重子(結婚後:新島八重=新島襄の妻)の「元の夫(会津時代の夫)」
戊辰戦争時、会津戦争勃発まもなく会津を立ち去る。山本八重子と離縁とされるも、その詳細経緯不明。

■尚、この人物の詳細を探し難い理由のひとつとして、会津在住に際して、
もとの名前、「川崎正之助」の改名を余儀なくされて、「川崎之助」になった為。
  • 改名の原因:会津藩祖は、保科正之。その「正」の一字を使っているのは畏れ多いことから、
    「尚之助」に改名。
■川崎尚之助:(1837(天保8)~1875(明治8))

■但馬国出石の医師の子。蘭学者。
(但し、出石藩幕末活躍の川崎姓の藩医は?父が判然としない。藩医にはらしき人物無。
出自に謎が多い。◆出石といえど、これは出石藩とは限らない。出石方面には、銀山や鉱山有り。
即ち幕府の大財布につき、各藩の狭間に細々と天領、代官所が点在。(この環境については、
この頁が参考になると思います。:表示先の「幕末に於ける津和野藩の立場」項ご参照。)
川崎の父とは、おそらく、出石藩の者ではなく、幕府側からの出向幕吏と考えられる。
  • 近隣天領の様子概略:石見銀山領:六日市代官所
    :石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に、安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146か村と、
    美濃郡・鹿足郡で6か村の飛地。江戸時代、隠岐国一円は幕府領とよく言われた。
    石見国は浜田藩、津和野藩の他、要は大森代官所(島根県大田市大森町宮ノ前)

■尚之助は、江戸に就学。蘭学と舎密術(化学)を修め優秀とされる。しかし、塾名、師匠も
判然としない。結果として、山本八重子の兄である山本覚馬に招聘されて、1857年(安政4に)、
会津へ来ていることから、山本覚馬の軌跡から追うなれば、関与は、佐久間象山の塾などが、
考えられる。化学と砲学といえば江川塾だが、江川塾においても、川崎は発見できない。
とはいえ、化学と砲学、必然的に蘭学にも優秀な存在は明確。本名別か?誰かの養子か?

■会津に出仕することになった川崎正之助は、上記の経緯から、名前を川崎尚之助にまず改名。
覚馬によって、日新館蘭学所の教授に推挙されるが、辞退。「不肖人の師たるに足らず」
(かなり優秀なのに、何か出自に抵抗があるか?)会津藩はこれを惜しみ、手当て金を。

■暫し、山本覚馬の助手的に働くが、結局は、会津藩の日新館蘭学所に貢献する形となる。

■山本八重子との結婚時期は曖昧ながら、北原雅長の『七年史』に「川崎尚之助が妻の八重は
山本覚馬の妹也」の記載から、これが定説。また、媒酌人の名に野村監物の記載された資料もある。

■会津戦争の最中、どの段階で、どんな経緯をもって離縁になったのか不明ながら、
初期に於いては参戦している。彼が設計製造した砲を用い、自ら敵に撃ったとされる。
しかし、この後、会津から姿を消す。

■会津戦争中の活躍場面から失踪に、恐らくこの経緯が影響しているだろうと思われる一件。

慶応4年会津が結成した会津の諸隊の内、敢死隊(かんし)というものがある。
当初隊長は小原信之助。ところが赤井、笹山での激戦で隊長自ら死亡。隊長死亡後は、
川崎尚之助が指揮するも、8/25この隊は全壊。城下開戦は8/23。故に早々ここから彼はそのまま
捕縛行方不明か?妻の八重子が夫が死亡したと思い込んだ様子を残す資料は皆無であり、
一文字「離縁」で済まされていることから、何らかのアクションが隠蔽されているかもしれない。
恭順呼びかけアクションの可能性有り。敢死隊とはメンバーは屈強。長が転ばぬ限り、死んでも
屈しない者揃い。おそらくインテリの川崎自ら恭順説得と思われる。その場合、なるほど離縁一言
で事片付けられるも頷ける。下行の「ミステリー!気になる謎の詠み詩」も是非ご参照。


<謎だらけで情報錯綜の川崎ながら、別途追記>


高木盛之輔(当時15歳)による記録を別途読むと、9/14付で、川崎尚之助は居ないが、
川崎荘之助なら、居る!!この日、敵の小田山陣地に、川崎荘之助なる男。抜群の腕が発揮されてる
旨が読み取れる。その後、この人物がどうなったかについては一切かかれてないが、並の腕では
なさそうだ。どうも、川崎尚之助ではないかと感じる。二発見舞って、敵に大ダメージ。

砲師川崎荘之助来り、余に曰く 。
  • でなくて、砲にご注目。ますます、川崎尚之助臭い。
「我軍は天主閣を的に掲げあるに彼等の弾は命中するに能わず、
余(が)、一発小田山砲塁に加え、必ず命中せしむべし」
・・発言も自信満々。素人でない。
  • ▲これ、思うに、大人相手にこの発言では自信過剰で滑稽だが、兵として派遣されてきた者が、
    小さい少年が多い隊だから、彼らを勇気付ける為に、言ってあげた思いやりにも感じられる。
    兵に命令するでなく、自ら撃っている。これは究極の示唆。)

案の定、一発目の後、敵は死傷者発生らしく、慌て四散。二発目の後、敵は静まり返った。
皆が歓声を挙げたとある。

上記のとおり、その後、銃弾攻撃を返されて、死傷者発生する。

  • どうも、この川崎荘之助なる表記、イコール、川崎尚之助に思いませんか?
    大人達は口を揃えて、「川崎は知らぬ存ぜぬ!消えた」状態ですが、15歳だった人物は、
    尚之助ならずや、荘之助を語っている。
    調べてみた範囲で、類似名の別人居ません。ますます気になるところ。



<彼の最期から追うと>


■東京にて、死亡。明治8年、6月。死因:病死。享年39歳。墓は、称福寺(浅草今戸)

狂歌が残されている。
「このころは金のなる木の綱切れて、ぶらりと暮らす鳥越の里」
・・・▲運命に押し流された自分を自嘲しているのがわかる。なんとも不憫が感じられる謎有の人物。


■ミステリー!もう、ひとつ彼の手掛かり:気になる謎の詠み詩。


【1】:「顧りみて、城を望めば、小田山は残り惜しげに夕日を送り、
柵壁は、霞をはらって遠く名残をしめすらん。」

【2】「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」
・・・<川崎正之介>

【3】「行くに輿なし、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉みたる、
何の地に君を置き、又、親を置かん。」
  • 【4】・・・・・・・ああ是れ当日、城を出る万人のこころりけり。

▲これは、何かというと、明治27年8月4日発行の「女学雑誌第390号」掲載文による。

上記【2】の後に、川崎正之介の名前があった。川崎正之介とは、上記のとおり、彼の元の名前。
会津に仕える身になり、あえて、名前を「尚之介」の「尚」の字が「保科正之」に畏れ多く、改めた
はずの男。それが、なぜか、ここにモトの名「正之介」がある。

もはや、会津に仕えたくとも、それが不可能な身の上に事態が急変につき、元の名で詠んだのだろうか。

■【4】は、明らかに編集人による加筆であるのが明確だが、【1】から【3】までのうち、
どこから、どこまで川崎なのやら、残念ながら判然としない。
  • 【1】の小田山砲台は、川崎にとって「未練の代名詞」的存在。砲述のスペシャリスト川崎、
    本人が中心になって、頑張ったのに、敗北。夕日に沈んでゆくさま。
  • 【3】の句も気になる。これは、歴史上、あらゆる場面で複数の人物が詠んでいるもの。
    「行くに輿なし、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉みたる」は皆に共通する感覚だから、
    編集に携わった者によるとも考えられるが、後半「 何の地に君を置き、又、親を置かん。」
    とは、去ってゆく者の罪悪感が滲み出ている。

    一般に「君」とは、尊い人、主君ながら、詠み人の多くは、必ず、ここに掛詞、私的に愛しい人
    への思いも伏せ掛ける。
    もしも、この部分も川崎本人も書いたとすれば、明らかに愛妻「八重子」を示唆する。
    また、「帰るに家なし」は余所者の川崎。 前述のとおり、幕末の出石は、出石藩と、
    出張幕吏双方絡む。後者ならば、踏み潰されて、追い散らされて、そこには誰一人もう居ない。

  • 会津人の誰一人として、川崎は敵に殺された!と思い込んでいる様子がないことと、
    八重子本人さえ、単に一言「離縁!」しか語らぬことで、恭順説が自動的に感じられるが、
    実は、上記の詩が、事前に、使者の手によって川崎から、会津陣に送られていたのではないか?!

    そもそも、この詩は、誰の手から、どのように、「女学雑誌」編集局に齎されたのだろうか!!
    実は、この詩を、さては、八重子さん、手に受け取り、読んでいたんだな!!
    ・・・・というのが、彼女の詠んだ詩で解る。(下行恋文反歌枠ご参照)

■尚、この「女学雑誌」編集人としては、巌本善治などがいる。その妻は、同じく会津の若松賤子。
「彼女もこの紙面に投稿するところから始まり、巌本と結ばれる。
また、上記の390号に関して、スポットされている人物は、山川二葉、雑賀アサなどが居る。
この二人は、どちらも明治の教育者。女子教育に力を注いだ人物。両女史は、この号に、自らの悲しい
体験談を積極的に提供している。ますます、どっからどこまで誰の原文なのやら解らないが、
この中に、確かに「川崎正之介=川崎尚之介」の痕跡が見つかった。



■山本八重子については有名ですから、検索容易。
その為、略歴とかではなく、彼女を取り扱った当サイト内の特集
(■新島襄と山本八重子「私の貴女よ、グッドバイ!」
山本覚馬についても、上記リンク先に多少登場。

あたらめて検証!これは「恋文反歌」


明治元年9月22日、ついに会津は、翌朝開城と決っした。この日の深夜、山本八重子は、悔し涙に
濡れながら、三の丸の雑物庫の城壁に、落城の無念を刻み付けた。もはや、父も兄も弟も居ない。
天の人。最後まで会津を守って闘って、会津の為に、散華。
  • (注:実は兄は存命だが、この段階、彼女本人は、兄は殺されたと思っている。)
・・・頼りの夫のはずが!!汚らわしくて、悔しくて・・・思い出したくも無い!
  • 心中は:戦死ならよいが、恭順、生き恥とは・・・なにごとぞ!!会いたい。会えない。
    永久に会えない。永久に許せない!愛していたからこそ、死ぬ程憎い・・・。

明日の夜は何国(いずこ)の誰か眺むらん
なれしお城に残す月影
▲壁に彫りつけた刃物とは・・・なんと、「簪(かんざし)」だった。

さて、ここで、「女学雑誌」になぜか残る川崎の痕跡の詩。
▲上の八重子作と、▼下の「川崎正之介」痕跡:比較してみてください。


「あすの夜は何処のたれか眺むらん、
なれしおう樹に残る月かげ」
・・・<川崎正之介>

あまりにも、そっくり極似形態の詩。
・・・昔、愛し合う者は、贈られた詩に、同じような旋律の詩を贈って、それが心の恋文。
二度と会えないけれど、朧月に向って、会えぬ人への思い。憎いけれど、未練状態。

・・・詳しくはこちら▼

憎しみの恋文_山本八重子,川崎尚之助の痕跡

会津:山本八重子泣かない女の思い出枕

NEXT▼
■14_河原勝治( かわらと読む:かわはらでなく)

河原勝治:(会津藩):関連:父の「河原善左衛門政良

■戊辰、会津戦争に散った家老「河原善左衛門政良(1827~1868/10/08)」の二男。
■母:あさ子(アサ):資料によって「やす子」もある。それについて河原善左衛門政良頁に表記。

■明治元年8月23日(1868/10/08)に於いて、父(42歳)と、叔父:河原岩次郎(39歳)、
兄の勝太郎(15歳)を、同じ場所、滝沢村八幡山の戦闘に失う。
また、母方は「原家」にて、こちら側も多数の死亡者。
そして、祖母:菊子(39歳)は、篭城前の段階で、死を観念して、嫁のやす子(=勝治の母)に介錯を
依頼して自刃死亡。この時、祖母と一緒に、幼い妹、国子(9歳)も母の手によって天昇。

■即ち、三人兄弟の中、生き残ったのは彼一人。母のあさ子も闘った後は自刃のつもりだったが、
藩主と照姫に止められて生き残ったが、1874年(明治7)死亡。享年37歳。
ついに、たった一人の生き残りとなる。

■生没月日:会津戦争の時、本人、勝治は11歳であったことから、1857年生まれ位。
■結婚:明治21年4月(函館に於いて):黒田九兵衛(旧会津藩:初名仙太郎)の長女:千賀と結婚
  • 黒田九兵衛とは:妹の国子と祖母菊の遺体を葬ってくれた人物。
    • 会津戦争時、彼は「小原右衛門の砲兵隊」に属していた。
      8/26日、この隊は石塚観音堂の境内に陣を布いた。この時、首のない遺体を二つ発見した
      のが、彼、黒田九兵衛(会津藩:初名仙太郎)。遺体は老女らしきと、少女。首はないが
      それは明確だった。哀れに思い、鐘楼堂のところに埋葬してやった。
    • この人物は、後で、その二つの遺体が河原家のものだったと聞き知るが、この段階では
      全く解らなかった。その体験談を娘に語ったことがあった。

  • 上記の縁は、偶然&奇遇だった。結婚してから、妻の話を聞いて驚いた。
    妻の父は、自分の祖母と妹の遺体を、どこの誰とも解らぬが哀れに思い葬ってくれた人だった。
    妻も、父から聞いた話の記憶が薄らいでおり、後で身元が解ったらしいと、そういえば
    父に聞いたことがある・・・。あっ!その名は、まさに!と妻も突然思い出して夫同様に驚いた。

    結婚して始めて知った偶然の奇跡:亡き妹と祖母の弔い

    ■千賀と結婚し後数々戊辰戦争話を為したるが、九兵衛は小原右衛門の砲兵隊に属し
    御霊櫃峠を固め居り八月廿七日の頃哨兵として城より出て石塚観世音境内を守り居る時、
    二個の首無き死体横臥しあるを以て何人かと紋所等捜したるも何家の老母と女児なるやしらず、
    堂内に敷きたる薄縁にて包み鐘衝堂の側に埋めたり。
    ■後猪苗代謹慎中に河原善左衛門の母堂と其娘なること聞きしが
    今(明治廿一年)茲に親子の関係を結びしは甚だ奇縁なりと云われ、明治二十三年女児産れたるを
    以て石塚にて死したる妹の名邦子と名付けたり。
    上記の大脈:
    (父と貴方が義理の親子になろうとは!と妻が感嘆している。妻も父から話を聞かされてはいる
    ものの、結婚の段階では、それが直接夫の縁者であることに意識は結びついていなかった様子。)
結婚の奇跡と、亡き妹の名前に因んで長女に名付
・ 今(明治廿一年)茲に親子の関係を結びしは甚だ奇縁なりと云われ、明治二十三年女児産れたるを
以て石塚にて死したる妹の名邦子と名付けたり。
(◇妹はクニまたは国子。そこで長女の名前を邦子にした。

■1868年の会津戦争の時、勝治は年少少年(11歳)だが、8月22日に於いて、
自分も男児として、参戦するつもりの行動を起こした。しかし、
なりゆき(下行;「参戦のつもり」MINI談話ご参照)、それは阻止されている。

■他履歴:
  • 【会津敗戦から斗南へ送り込まれる前の段階:勝治の軌跡】
    ■母方原家の原惣五郎家の預けられる。(但し、原惣五郎も10/3死亡)
    • これは、勝治の文章の中、「開城後母の籠城話に依れば」 の節があることからも、
      勝治は、参戦するつもりの小事件の後、早速母と別行動になった事の裏付。
      (母が、いかに一人男児を死なせずに保ち、家名を保ちたかったかが解る。)
    ■埋葬は10/4につき、10/5から、母と勝治は、暫し、下遠田
    (原惣五郎を葬りし翌々日私共北方の塩川村の西隣に下遠田と云う処に落附く事となり)
    ■この後、親子は、新政府に対して遺体埋葬許可を得るべく、米沢藩に協力を得ようとして、
    米沢藩の詰所へ出向いているが、結果は翌年2月迄待つべきとの回答に終わる。
    下遠田に長い居たかは不明。父や兄の遺骨探しの際、原家の人々と共に行動している。
  • 原家の養子になった様子(預けられただけではなく、正式に養子になったのは、
    母の死亡明治7年以降なのか、それ以前なのかは未調ながら。)
    同日原惣五郎宅(融通寺町御門と河原町御門の間に在り私の養子に行きし処)
  • 【斗南送り後】:斗南藩の貢進生として大学南校(開成学校、後の東京帝大)に入学。
    ところが病。退学。
  • 養生後回復。三菱商船学校に再入学。優秀な成績で、明治17年、青森出身五期生として卒業。
  • 同年、明治17年、航海士として日本郵船に採用される。
  • 日本郵船会社で、船長に昇格してからは約23年勤務。全海上生活は37年間。
■母方の縁者:
  • 母の父:原源右衛門俊秀(鳥羽伏見にて落命。享年56歳。)
    大阪の一心寺には、鳥羽伏見死亡会津藩士の墓があるが、情報が散在状態にあったそれらの墓を
    改め、碑の建立などの作業も会津出身者や幕臣出身者によって後年に行われているが、その中にも、
    河原勝治(源右衛門俊秀にとっての孫)の名を見出せる。
  • 河原勝治本人にとっての「母方叔父」:原惣五郎=(父死亡後の養父)
    • 原惣五郎;■明治元年/10/3死亡。■埋葬:10/4:天寧寺菩提院山。■享年30歳。
      ■宗川熊四郎の砲兵隊所属。
      ■負傷の場所と日時:9/17:三の丸。(9/22開城につきその5日前)
      重症の為、会津降伏開城段階まで城内で治療されていたが、青木御(≒小)山村に
      できた病院に入院したが、治癒できず10/3死亡。■河原勝治の母にとって、惣五郎は弟。
      ■原惣五郎家の所在地:「融通寺町御門と河原町御門の間に在り」
      ■原惣五郎家達が収容されていた場所とは、一種、臨時の野戦病院。
      ・・(御山村(=小山村)の病院と、表記される事が多いが、ここは「小山村辰太郎の宅」

    ・・この人物は戦争による負傷が原因で、明治元年10/3死亡しているが、勝治は、
    原家の養子になったのが下記文章でわかる。
    (戊辰十月三日私の叔父原惣五郎創癒えず小山村の病院にて没したり)
    同日原惣五郎宅(融通寺町御門と河原町御門の間に在り私の養子に行きし処)

■著書など残された文章:◆『思い出の記』、◆「河原善左衛門の事蹟」

■尚、河原勝治の孫のうち、スイス在住の(Yuriko Wild Kawara) (=ゆりこ)さんは、
ジョン・ヘンリー・シュネルに係る研究をしており、ドイツの図書館で、それが日本人研究者に
よって発見された。

少年河原勝治の「参戦のつもり」・・悲しいMINI談話)

お兄ちゃんの思い出:会津戊辰

昨日の敵は今日の友
■人参役場:収益に結びつく薬草園などの開発を手掛ける施設:
この人参は主に薬としての高麗人参。門田地区を中心に「御薬園」栽培。
長崎から清国に輸出。利益は莫大。会津藩財政を支えた産物。
■勝治の父、河原善左衛門政良は、家老兼、国産奉行兼務。現代でいえば、
農林部門の管理業務のような要素有り。その上、会津の大財布=重要職。

父や兄に従って父の勤務場所である人参役場▲まで、自主的に出陣した。
家老の倅であることから、若党を従えている。一人前に帯刀、手には竹槍。
若党には、五月幟から定紋の部分を切り抜いた旗を持たせていた。
それでも、本人は本気。会藩の為に討ち死にの覚悟。大町通りを堂々と行進して行った。

そこで、兄に会った。兄の勝太郎が「そんな竹槍で、どうするつもりだ!」
と嗜めた。本人も負けない。「これで敵の目玉を刺すのです!」

しかし、この様子を知った祖母が彼を救い出した。
引けと言っても、恐らく、あの子の気性では大人しく引くまい。そこで、お婆ちゃんは苦肉の策。
家から使いが走ってきた。
「今日はお爺様の命日です。お弔いをなさってください。こればかりは怠っては
ならぬことです。お婆様の仰せ付けです。まずは、お弔いの後にお願いいたします。」

つまり、家へ連れ戻された。これが父や兄との今生の別れとなった。
15歳の兄は、大人達と一緒に散華した。
翌年、やっと戦死者の遺骨拾いが許された段階で、河原勝治は、白骨化した頭蓋骨を、
即座に兄と判断できた。それは、他の骨より遥かに小さい(15歳だから)ことと、歯並びだという。
遺品なども風化して存在していないことから、父と叔父は見分けつかず、解らなかった。
その点、兄だけは、あまりにも判然としており、悲しかった。


一家全滅、たった一人になった河原勝治は、母方、原家の者とその後行動を共にしていることから、
母側に引き取られた様子が伺われる。

【ここにその兄の最期の様子】

輩の十字火を浴び飛弾雨の如く、善左衛門父子弟岩次郎、大野英馬、芥川大助、糸川庫次等皆な倒る。
幸にして免がれし者は城を指て背進す。時に勝太郎は負傷せしも未だ死せず、
松田俊蔵は勝太郎を助けて其肩に掛け城に連れ行かんとせしも、
退くとを欲せざれば中村迄連れ来り、此処にて其首を介錯せり。

(尚、上記の松田俊蔵は幸い生き延び、北斗南送り団の中、五戸村在住まで確認はできた。)


■15_大野右仲

大野右仲:天保7(1837)年12月8日~ 明治44年(1911)6月11日。
  • 蝦夷新撰組:唐津藩士:唐津藩士大野勘助の長男。
  • 小笠原長行に従って箱館戦争まで追従。仙台で乗船する段階で、唐津藩士は皆新撰組に編入
    されている為、箱館では、土方歳三の配下、陸軍奉行添役。
    唐津藩士と、小笠原長行については真下のバナー。
  • 降伏。拘束謹慎後出仕。
  • 『函館戦記』を著す。
  • 【出仕】
    ■明治4年:久美浜県権参事、■明治6年:豊岡県、■他:千葉、長野、青森各県の要職歴任。
  • 明治44年、死去。享年76。

【この人物については、有名につき、検索容易の為、詳細は略】
・・・下記は、私的に気になる点のメモ。

■明治6年豊岡県出仕について:
この地域で出仕にあたっては、父が因幡出身、新政府で活躍する大野賢次郎の努力か?

大野右仲と相馬主計:豊岡県の謎
  • 箱館戦争時、共に戦った新撰組「相馬主計」の切腹は、
    死亡年月日不明ながら、 明治8年ではないかと一般的に言われている。
    不明の原因は、本人の希望で妻に他言を禁止していたため。経緯から考察すると、
    相馬は当初、伊豆新島に流罪。明治5年(1872)に赦免され、東京へ。
    翌年、明治6年(1873)豊岡県勤務。明治7年(1874年)には14等出仕に昇進。
    明治8年(1875年)2月、免官され、東京に戻る。

  • そうすると、二人は、明治6年、豊岡県にて、接点があったことになるが・・・???
  • 尚、この二人は、箱館戦争時、土方歳三を失った後、共に散華を覚悟、
    弁天台場に籠もり、両者共重要な役柄の二人は、地上への決別の意で盃を酌み交わした。
  • 土方を失った5/11夜の心境語り
    月は欠けて天にあり、広野渺漫たり。 砲台は湾を隔てて雲煙の中に髣髴たり。
    ひとり兄事する所の奉行(奉行=土方を指す)の死を歎き、 同胞のごとく交わりたる者は、
    皆彼にありて 我のみ敵陣のさえぎる所となりて到るを得ず。 涙を垂れて楚の項羽の
    「時利あらず、騅行かず」の句を吟ず。

  • にもかかわらず、豊岡県時代両者が共に勤務していた期間の事が、さっぱり情報得られません。
    相馬主計の死に係るキーを、大野は本当は知っていて彼の為に沈黙している可能性有。

もうひとつ、気になること(これは極些細)

かつての主、小笠原長行に訪問を希望したところ、断られています。これは、小笠原長行が、
大野に限らず、他の誰にも会いたがらなかったのは事実ですが、その時期とは、いつ頃だったのか?
この件に関しては、小笠原長行と家臣達の明治頁内にも記載しましたが、小笠原長行が大野に対して
お断りの手紙を書いています。大意は「もう老いぼれて惚けて、誰にも会えない位惚けて・・・」と、
うそ!ですが断っています。ところが、もう少し詳しく書くと、「あんまり惚けているから、箪笥の
どの引き出しに「支払い賠償金がうんぬん」の意味深フレーズもあります。これは、文久3年
(1863)3月 の生麦事件の独断賠償金支払い事件(事件はこの頁で解ります。)を指しています。
箪笥はもちろん抽象的比喩として長行が用いていますが、あれ程大切な事すら、記憶が怪しい様子を
演技しているのか?、かつての家臣でありながら、大野の現職絡みで警戒しているのやら、
・・・非常に意味深。大野の軌跡から、訪問しようとした時期が解れば、何かヒントが得られ、
ついでに相馬の謎のキーを拾えるかもしれません。



16_五島英吉
【注】この枠は上記各枠と異なり、「気に掛かる謎」追求の為の未確定情報含みます。

伝統グルメ「五島軒」


■現在頁では、五島英吉についての補足
  • (この人物について前半部はこちら:五島軒TOP五島英吉スポット頁
  • 明治時代、函館で脚光を浴びた本格的レストラン。それは、「五島軒」。
    シェフの名は自称、「五島英吉」。彼は、なんと!箱館戦争で負けた幕軍側の通詞だった!!
    料理については、外国人仕込。本格的な腕だった。
  • 上記リンク先にだいたいのことを書いてあります。彼についての手掛かりを、もう少し補足

    • 「五島英吉」の他にも「宋近治」の名有。
      但し、宗氏の養子になっていた場合、本国で語っていた旧名(本当の名前)は別となる。
      長崎の「宋」氏のとは、唐語の歴代通訳者の家:東海徳左衛門氏の一門=「宋氏」
      と考えられる。

      「宋」氏の養子説とは:
      【1】_清国出身の漂流民らしきその人物は、福江近郊、または五島列島のどこかに住んだ。
      【2】_彼は当初、福江藩に仕えた。英語が可能な人物だった。
      【3】_その後、長崎で仕えた。出自の問題を解消するために長崎の通事の養子になった
      当時、英語通訳としてのセクションがない為、
      一応阿蘭陀語の通詞の形体で、通事でなく、通詞になり、長崎で仕えた。当時は、通詞は
      ニーズ的に重宝されつつ、長年の鎖国の経緯から偏見視&差別。通事よりも下扱い。
      ところが、養子に入った家は通事であり、地元では歴代信頼の名家。これで出自問題解決。
      (出自問題とは、当時の士分と、もうひとつ、外国人、もしくは漂流民というと、スパイ
      容疑といった余計なトラブルを回避するため)
      • 通事(≒通辞):唐語通訳
      • 通詞:唐語以外の通訳者。従来は鎖国の経緯から阿蘭陀語通訳。
        区分として、英語可能者は「通詞」とされた。
      唐語の通訳者「宋氏」とは:東海徳左衛門氏の一門と思われます。

      宋氏何代目か解りませんが、自称、五島英吉とは、出生時期は約1830~1840年代位
      と推定されますから、宗さん(=東海さん)の八代勝太郎?もしくは九代妙之助?
      くらいではないでしょうか?
      • 【推定根拠】だいたいの年齢を推察するに、箱館戦争自体が1868~1869年ですから、
        1830~1840年代位の生まれと想定される人物です。
        1830生ならば、戦時は38歳、1849年なら、戦時は19歳。この根拠はありませんが、
        まず19歳未満が考えられないことと、自主的箱館戦争参加者の通詞に
        40~50代も同様に確率低い。
        (注)これは、あくまで携わった宗さんがどの年代の何代目さんかを手繰る為
        の題材
        であって、確定的なものではありません。

      【4】_幕府、もしくは、韮山の江川にヘッドハンティングされて横浜近郊勤務
      【5】_箱館戦争時、通詞として榎本軍に所属する。
      【6】_榎本軍が敗れて、残党狩りを恐れて、ロシア教会に逃げ込む
      【7】_7年間、ロシア教会に潜伏。その間料理の腕を磨く。
      【8】_五島英吉と名乗り、五島軒のシェフとして勤務。
      【9】_横浜に移住。横浜もしくは近郊に永眠。

      ・・・出身とされる五島にも、祖国にも帰れず永眠。
この人物に係る他「ばらばら情報」から手掛かりヒント
  • 「蟠竜」に乗船したらしいが、江戸脱出時なのか、蝦夷参戦中のことなのか不明。
    蟠竜担当のフランス人は主にクラトーですが、彼は戦後、明治の世、築地の居留地で
    ホテル・メトロポールを経営した。 パンの「木村屋」は、このホテルでパンのノウハウを
    習得したと言われています。

    尚、「五島英吉」はロシアの教会で潜伏すること約7年ですから、ロシア料理の修業も完璧ですが、
    それ以前にも外国料理の経験があったかもしれません。
    クラトーに纏わる男の可能性も否定できません。
    その上、ロシアの教会には、ニコールとコラッシュが世話になった縁もあります。
    残党狩りを恐れた「五島英吉」はロシアの教会に逃げ込んでいます。

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