東大安田講堂の封鎖解除に機動隊出動 18日の日記
クロニクル 東大安田講堂の封鎖解除に機動隊が出動1969(昭和44)年1月18日若い方には信じられないことでしょうが、1950年頃から1972,3年頃までは、学生による異議申立てが非常に盛んで、学生運動が活発に展開されておりました。その第1のピークが1960年の安保改訂反対運動でした。その後、安保闘争の敗北を受け、学生運動もしばらく停滞期をすごすのですが、64~65年の早稲田大学の授業料値上げ反対運動と、ヴェトナム反戦運動の盛り上がりを受けて、再び活況期を迎えます。全共闘運動と呼ばれた盛り上がりがそれです。68年5月、革命の国フランスで、パリ(ソルボンヌ)大学の学生のストライキから、学生と労働者の連帯したゼネストが広まり、それは1週間もしないうちに、全国に拡大して、遂にドゴール大統領の辞任を勝ち取り、五月革命と呼ばれたのでした。日本の学生たちも、このフランスの学生運動の盛り上がりに大いに刺激され、4月に20億円もの使途不明金が見つかった日大と、1月以来、教授陣と学生との対立が続いた東大医学部とが、2つの核となって、アカデミズムの牙城であり、日本の大学の頂点に立つと当時一般に受けとめられていた東大と、マンモス大学の雄で、これまた日本のいびつな大学組織の象徴的存在であった日大という、対照的な2つの大学で全学共闘会議(全共闘)が組織され、一般学生の支持を集めて、大規模な運動が展開されたのでした。日大のある水道橋に近い、明治、中央(多摩校舎への移転はまだなされていません)の学生も日大全共闘運動を支持してデモや封鎖に参加、本郷の東大もまた御茶ノ水に近く、駿河台下から神保町へ、そして水道橋に到る一帯は、誰が名付けたのか、日本のカルチエ・ラタンと呼ばれたのでした。東大全共闘の学生は、東大の象徴として安田講堂を占拠、医学部、工学部、法学部の一部建物も占拠して、無期限ストを続行して大学側との交渉を要求、交渉を続けたのですが、日本共産党系の民青系学生が党本部の指導もあって、全共闘系グループと異なる立場をとり、交渉は難航を続けたのでした。こうするうちに、69年度の入学試験の時期も近づき、文部省等からの圧力も受けた大学側は、自力解決を断念、大学の自治の名において、警察権力の学内導入に強いアレルギー反応を示していた従来の対応を転換、機動隊の導入による占拠学生の強制排除を決断して、警視庁に機動隊の出動を要請したのでした。こうして、69年1月のこの日午前8時、8500人の機動隊員が東大構内に入り、バリケードの撤去を開始したのでした。安田講堂以外の建物の封鎖は、この日昼頃までに完了したのですが、要塞と化した安田講堂の封鎖解除は難航し、4機のヘリコプターから催涙弾まで投下しながら、放水等を続け、学生もまた手製の火炎ビンと投石で対抗、封鎖の解除は、翌日19日の午後5時45分にようやく完了したのでした。逮捕者は631人を数えました。この模様は2日間にわたってテレビで実況中継され、私も固唾を飲んで見つめ続けたことを覚えています。神田駿河台の通称カルチエ・ラタンでは、日・明・中等の学生たちが、東大全共闘支援と称して、周辺道路をバリケード封鎖、路上の解放区を実現したとしながら、2日間にわたって機動隊との衝突を繰り返したのでした。さて、こうして封鎖は解除されたのですが、学生たちのエネルギーはなお旺盛で、東大当局は文部省とも相談、入試を安全に行いうる環境はなお整っていないと判断、翌日1月20日に、69年度の入学試験を全面的に実施しないことを発表したのです。こうして、昭和44年度の東大入学者はゼロとなったのでした。東大と日大の運動は、全国の学生に強い影響を与え、69年度には、全国の大学に全共闘運動が広がり、70年には、裾野は各地の高校にまで広がり、学生たちの異議申立ては、72年頃まで、活発に続けられたのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, January 18, 2007 9:32 AMSubject: 18日の日記